第36周 この世界は64回で終わる
三層「位相研究区」の空気は、地上よりも数度低かった。
壁一面に投影された数式と波形が、青白い光を放ちながら不規則に明滅している。
その光は、照明というよりも、何かの内側で脈打つ血管のようだった。
アーロンは中央の台座に座らされたまま、自分を取り囲む光の膜を見つめていた。
薄く、揺らぎ、触れれば破れてしまいそうな膜。
それは、かつて古代の回廊で見た「世界の継ぎ目」に似ていた。
あの時も、世界は静かだった。
静かなまま、壊れようとしていた。
「……始めよう」
マリユスの声が、硬質な床に反響した。
彼は記録板を片手に、アーロンの正面に立っている。
黒髪の間から覗く瞳は、以前よりも鋭く、そしてひどく疲れていた。
友人を案じる熱は、そこにはほとんど残っていない。
あるのは、目の前の現象を解体し、記録し、意味へ変換しようとする学者の冷徹さだった。
けれどアーロンには、それが冷たさだけではないことも分かってしまった。
マリユスは焦っている。
焦りすぎて、心配するという当たり前の順番を、もう保てなくなっている。
「君が向こう側――『古代』で見たものを、すべて言語化しろ」
マリユスは淡々と言った。
「風景、音、人々の言動、青い花の分布、空間の歪み。そして『終わり方』だ。特に、今この世界と決定的に異なっている部分を、一つも漏らさず話せ」
「……尋問みたいだね」
「尋問ではない。記録だ」
「同じに聞こえる」
「君の印象は重要ではない」
即答だった。
カイが壁際で露骨に顔をしかめる。
だが、アーロンの視線はマリユスではなく、その背後で止まっていた。
青白い光の粒子が、そこに浮かんでいる。
少女の形をしたもの。
けれど、少女ではないもの。
グレイス。
その輪郭は、昨日見た時よりもさらに曖昧だった。
人の姿を取ってはいる。顔もある。髪のような揺らぎも、腕のような線もある。
だが、そのどれもが、実体を持たない。
光がたまたま人間の形を真似ているだけのようにも見えた。
グレイスはマリユスの背後に寄り添うように浮かんでいた。
肩に触れているようにも見える。
けれど、本当に触れているのかは分からない。
親愛なのか。
保護なのか。
監視なのか。
それとも、マリユスの位相に反応して、最も近い場所へ表示されているだけなのか。
アーロンには判断できなかった。
「……おい、マリユス」
壁際に控えていたカイが、こらえきれずに一歩踏み出した。
「さっきから気になってたんだが、その背中の『それ』……何なんだよ。幽霊にしては色がねえし、機械にしては妙にお前にまとわりついてるだろ」
カイはグレイスを指差し、露骨に顔をしかめる。
「俺の目には、お前の影が勝手に化けて、お前の様子をうかがってるようにしか見えねえ。不気味すぎて、アーロンの話に集中できねえんだよ」
マリユスは眉一つ動かさなかった。
「これは『人格フェーズ』だ。恩寵管理系の演算補助領域が、対話可能な形式で投影されているだけに過ぎない」
「投影?」
「人間が理解しやすい形を取っているだけだ。実体も自我もない。論理の集合体だ」
「そのわりには、ずいぶんお前のことばっか見てるけどな」
カイの言葉に、グレイスの輪郭が小さく揺れた。
「マリユス」
たどたどしい声だった。
「反応値、異常。呼吸、乱れ。……しんぱい、に該当?」
その言葉に、アーロンの背筋が冷えた。
かつて通信機越しに聞いたグレイスは、もっと無機質だった。
ノイズ混じりの応答、意味だけを返す、冷たい機構。
だが、目の前のグレイスは違う。
感情を理解しているわけではない。
けれど、理解しようとしているように見える。
あるいは、誰かの感情の形だけを拾い集めて、真似ているように。
「黙っていろ」
マリユスが短く命じた。
その声は冷たかった。
けれど、次の瞬間、彼の指先がわずかに背後へ向いた。
触れるわけではない。
ただ、揺らいだグレイスの輪郭を制するような、ほんの小さな動き。
それは無意識だった。
マリユス自身も気づいていないほどの、短い動作。
だがアーロンには、それが壊れ物を扱う手つきに見えた。
「アーロン、続けろ。時間は無限ではない」
アーロンは、ゆっくりと息を吐いた。
そして、話し始めた。
あの日、ルミナリアの空を覆っていた低い雲。
不規則に震える水路の流れ。
街中の石畳や壁の根元を埋め尽くしていた、青い花のこと。
青い花は、美しかった。
だが、その美しさは、命の気配ではなく、記録の匂いがした。
咲いているのではない。
刻まれている。
そう感じたことを、アーロンはできるだけ正確に言葉にした。
「……アステリオスが言ったんだ」
アーロンの声が、わずかに低くなる。
「必要なのは完全性ではない。継続性だ、って」
記録板を走っていたマリユスの指が、一瞬止まった。
「隣にいた技術者……セラフィウスは、レバーを握っていた。泣きそうな顔で。たぶん、分かってたんだと思う。自分たちが作った円環が、救いじゃなくて、ミーティアを世界の部品に変えるものだって」
神父が、部屋の隅でほんのわずかに目を伏せた。
誰もそれに気づかなかった。
少なくとも、カイは気づかなかった。
だがアーロンだけは、それを見てしまった。
けれど今は、そこへ踏み込む余裕がなかった。
「ミーティアは……笑ってた」
声がかすれた。
アーロンは一度、言葉を止める。
瞼の裏に、あの笑顔が浮かんだからだ。
泣きそうなのに、笑っていた。
自分が何に変えられるのか、きっと分かっていたのに。
それでも最後まで、誰かを安心させるように。
「光の中に溶けていった。アステリオスは最後まで静かな顔をして、僕を未来へ押し出した。『未来で君に会う者がいたら、世界を任せていい』……そう言って」
話が終わると、観測室は不気味なほどの静寂に包まれた。
壁面の数式だけが、青白く明滅している。
クリスティーナは観測盤に置いた手を止めていた。
彼女の前のスクリーンには、アーロンの証言を基に再構築された古代末期の位相モデルが映し出されている。
円環。
青い花。
恩寵中枢。
巫女。
継続性。
保存。
摩耗。
複数の単語が結ばれ、ほどけ、また別の線で結び直されていく。
「……おかしいわ」
クリスティーナが呟いた。
「アステリオスが構築した円環は、あくまで『保存』を目的にしていたはずよ。けれど、アーロン君の証言と現在の位相値を合わせると……これは保存というより、再生に近い」
「再生?」
カイが聞き返す。
「同じ記録を、同じ条件で、何度も立ち上げる仕組み。だけど、完全な再現じゃない。毎回、わずかにズレている。ズレを補正するために、さらにエネルギーを使う。補正しきれなかった差異は、次の回へ持ち越される」
クリスティーナの顔から、血の気が引いていく。
「これ、繰り返すほど悪化するわ。保存じゃない。記録の摩耗よ。……欠陥よ」
マリユスが、地を這うような声で呟いた。
「その通りだ、クリスティーナ」
彼は記録板を叩くように操作し、幾重にも重なる円環の図式を展開した。
中心に、黒く塗り潰された一点がある。
無数の線がそこへ向かい、重なり、潰れ、もはや元の形を判別できなくなっていた。
「アーロン。君の話で、最後の空白が埋まった」
マリユスの声は冷静だった。
だが、その冷静さがかえって異様だった。
「この円環は、回を重ねるごとに誤差を蓄積している。記録の再起動に必要な余白は減り、補正に使うエネルギーは増え続けている。保存のための機構が、今は世界の器そのものを削って燃料にしている状態だ」
「世界を……削って?」
カイの声が低くなる。
「そうだ」
マリユスは淡々と答えた。
「私が観測していた位相の揺れは、単なる異常ではなかった。世界が自分を維持できず、内側から崩れ始めている音だったんだ」
背後のグレイスが、小さく明滅する。
「マリユス。情緒値、低下。記憶保持率、変動。警告」
「黙れ」
「警告。忘却進行」
その言葉に、アーロンは眉をひそめた。
忘却。
昨日も、マリユスは同じようなことを口にしていた。
『――そして、私の『忘却』もな』
あの言葉の意味が、ここで少しだけ形を持ち始める。
「……マリユス。忘却って何のことだ」
アーロンが問う。
マリユスは答えなかった。
答えない代わりに、彼は自分の胸元を強く掴んだ。
爪が衣服に食い込み、黒い布がわずかに歪む。
「時間がない」
掠れた声だった。
「この摩耗率。この侵食速度。アーロンが持ち帰った古代末期の記録と、現在の位相値を照合すれば、推定値は一つに収束する」
壁面のモニタが、赤く染まった。
そこに浮かび上がったのは、数字だった。
六十四。
カイが息を呑む。
クリスティーナは言葉を失った。
アーロンだけが、その数字を見つめたまま、胸の奥が冷たくなるのを感じていた。
六十四。
それは、終わりの数字だ。
世界が許された、最大の回数。
「これが最後だと、断定はできない」
マリユスは言った。
けれど、その声は断定よりも重かった。
「だが、次に円環が閉じた時、上書きに使える余白が残っている保証はない。むしろ、残っていない可能性の方が高い」
「じゃあ……次に失敗したら」
アーロンの声が震える。
「保存される代わりに、消える」
マリユスは静かに言った。
「世界そのものが、記録としても残らない」
観測室の空気が凍りついた。
しばらく、誰も喋らなかった。
やがて、アーロンは台座から立ち上がろうとした。
だがその瞬間、マリユスが鋭く叫んだ。
「私に触るな、アーロン」
「マリユス……?」
その声には、怒りではなく恐怖があった。
アーロンは動きを止める。
マリユスは、顔を伏せたまま言った。
「今の私は、安定していない。私の情緒がこの計算結果に焼き切れるのが先か、世界が崩壊するのが先か。……もはや、観測などという悠長なことはしていられない」
「……それ、どういう意味だよ」
カイが低く問う。
マリユスは答えない。
代わりに、端末へ向き直った。
何かに憑かれたように、指を走らせる。
背後のグレイスが、彼の近くで揺れた。
抱きしめているようにも見えた。
けれど、そうではないのかもしれない。
マリユスの崩れかけた位相を、一時的に固定しようとしているだけ。
あるいは、彼からこぼれ落ちる記憶を、拾い集めているだけ。
「マリユス」
グレイスが囁く。
「記録、欠損。補助、継続」
マリユスは何も答えなかった。
研究所の深部で、乾いた警報音が鳴り響く。
それは、単なる異常を告げる音ではなかった。
アステリオスが始め、セラフィウスが嘆き、ミーティアが呑み込まれ、そしてマリユスが絶望した円環。
その終端が、今この時代に近づいている。
アーロンは、赤く染まった「六十四」の数字を見つめた。
古代で見た青い花。
ミーティアの泣きそうな笑顔。
アステリオスの静かな決意。
そして、目の前で壊れかけているマリユス。
すべてが一本の線でつながっていく。
けれど、その線の先にあるものだけが、まだ見えない。
世界が終わる音は、まだ遠い。
だが確かに、こちらへ近づいていた。




