第35周 アエリス研究所
王立 アエリス魔道研究所は、静かだった。
王国最高の学術機関であり、王立魔道学院から選りすぐられた適性者のみが直属配置されるこの場所は、表向きは魔法物理の極致を探求する聖域とされている。
地上の風は軽く、林の青い花は現実を疑わせるほど異様だったのに、研究所の中へ足を踏み入れた途端、空気は一気に乾いたものへ変わる。
石壁は白く、通路は磨き上げられ、足音だけが妙に大きく反響した。
人の気配はある。
研究員たちはいる。
だが、誰も大声を出さず、誰も余分な感情を表に出さない。
まるで建物全体が、何かを聞き逃すまいと耳を澄ませているようだった。
カイが前を歩く。
その半歩先に、黒衣の神父。
アーロンは二人の後ろを歩きながら、自分がここへ戻ってきたのではなく、連行されているのだという感覚を拭えずにいた。
「そんな顔するな」
不意にカイが振り返る。
「別に牢屋に入れるわけじゃねえよ」
「そうは見えない」
返すと、カイは少しだけ口元を歪めた。
「……まあ、見えなくはないな」
その声音は軽いようでいて、どこか固かった。
彼もまた、この場所の空気に飲まれかけているのだとわかる。
通路の角を曲がるたび、視線を感じた。
研究員たちだ。
白衣や灰色の制服を着た者たちが、立ち止まりはしない。露骨に見つめてもこない。
だが、視界の端で、確かにこちらを見ている。
それは失踪から戻った人間を見る目ではなかった。もっと別のもの――説明のつかない現象や、禁じられた標本を見るような目だった。
アーロンは無意識に胸元へ手をやった。
服の下のペンダントに触れかけて、やめる。
ここでは、何もかも見透かされる気がした。
やがて神父が立ち止まった。
「ここですね」
低い扉だった。
他の扉と同じように見えて、どこかだけが違う。金具の配置も、石の色も、わずかに重い。
その差をうまく言葉にはできない。
だが、直感だけが告げていた。ここから先は、もう少し深い場所なのだと。
扉が開く。中は半円形の観測室だった。
中央には黒い台座があり、周囲には薄い光の膜が糸のように張り巡らされている。
窓はなく、空気は冷え、少しだけ鉄の匂いがした。
部屋の奥に、マリユスがいた。
背中を向け、記録板に指を走らせている。
黒髪は乱れ、肩越しに見える横顔は紙のように白い。
以前の彼なら、規律正しく整えていたはずの姿だ。
「連れてきました」
神父の言葉に、マリユスが動きを止めた。
ゆっくりと振り向くその瞳は、以前よりも異様に鋭く、同時にどこか「縋るもの」を探しているような危うさがあった。
「……本当に戻ったのか、アーロン」
声は低い。だが、そこには以前の彼にはなかった、微かな「震え」が混じっていた。
その時だった。
マリユスの背後の空間が、陽炎のように揺れた。
光の粒子が集まり、ひとつの輪郭を形作る。
人の姿だった。
少女のようにも見える。けれど、少女と呼ぶには、あまりにも曖昧だった。
青白い半透明の輪郭。
表情らしきものはある。
だが、その奥にあるはずの感情が見えない。
それは笑っているようで、笑っていなかった。
悲しんでいるようで、悲しんでいなかった。
ただ、誰かが「人間らしさ」という形だけを真似て組み上げた、精巧な影のようだった。
「……マリ、ユス」
それが、たどたどしい声で名を呼んだ。
アーロンは息を呑んだ。
かつて転移前に聞いたグレイスは、通信機越しのノイズ混じりの声にすぎなかった。
冷たい応答。
意味だけを返す、感情のない機構。
だが、目の前のそれは違った。
マリユスの背後に寄り添うように浮かび、彼の肩口へ手を伸ばしている。
触れているようにも見えた。
けれど、本当に触れているのかは分からない。
「……うれしい、の?」
グレイスが囁く。
問いかけの形をしていた。
けれど、それは感情を理解している者の問いではなかった。
まるで、登録されていない反応を前に、既存の言葉を探しているようだった。
マリユスは鬱陶しがる素振りも見せなかった。
それどころか、当然のようにその存在を背後に従えたまま、アーロンへと歩み寄る。
「位相が変化している。……いや、前よりも剥き出しだ。観測者としての性質が」
「相変わらずだね、マリユス。人を人として扱う気が全然ない」
「……必要性が、わからなくなっているんだ」
自嘲気味に、誰にも聞こえないよう、ポツリと漏らした。
マリユスは言葉を切り、背後のグレイスに視線をやった。
「この『バグ』だけが、私の計算を邪魔し続ける。……なぜか私から離れようとしないんだ」
その光景に、アーロンは激しい違和感を覚えた。
(世界が……変わっているのか?……?)
アーロンの視線の険しさに、マリユスが、そして隣にいた神父が同時に反応した。
「……何を見ている、アーロン」
マリユスの目が細くなる。
「君の瞳には、今のグレイスが『既知の存在』として映っていないな。……以前の君が知る彼女は、もっと……違う形をしていたのか?」
神父もまた、アーロンをじっと見据えていた。
「アーロン。あなたが抱いているのは、単なる驚きではありませんね。それは『記憶との相違』から来る戸惑いだ」
アーロンは答えられなかった。
ここで「前は違った」と言えば、自分が「別の時間線」から来た不純物であることを認めることになる。
アーロンが答えに詰まっていると、それを見たマリユスは、一歩、二歩と近づいてきた。
距離が詰まる。
近い。
「……どうしたんだ、マリユス」
「何を知っている」
即座に、そう返ってくる。
アーロンは眉をひそめた。
「会って早々それ?」
「時間がない」
「僕にはある、みたいな言い方だね」
「君にも、もうない」
声は平坦なままだった。
けれど、最後の一言だけが妙に重く落ちる。
カイが苛立ったように割って入った。
「おい、まず心配とか、そういうのはねえのかよ」
マリユスはようやくカイを見た。だが見たのは一瞬だけだった。
「無事ではない」
「は?」
「見ればわかる」
そう言って、再びアーロンへ視線を戻す。
その視線は、皮膚の上を滑るのではなく、もっと内側を覗き込んでくるようだった。
「位相が変化している」
部屋が静まる。
カイは意味がわからないという顔をした。
神父だけが、わずかに目を伏せる。
アーロンは黙ったまま、マリユスを見返した。
「君の周囲だけ、境界が不安定だ。固定されていない。……いや」
マリユスはそこで言葉を切る。
さらに一歩、近づいた。
「前よりも剥き出しだ」
アーロンの喉が、わずかに動く。
「何が」
「観測者としての性質が」
その言葉に、カイが露骨に顔をしかめた。
「だから言ってることがわかんねえんだよ」
「わからなくていい」
「よくねえよ」
「わからない方が正常だ」
「お前な」
「カイ」
神父が低く制した。
カイは舌打ちし、壁際へ下がる。
だが視線だけはずっとマリユスに向いていた。嫌悪と警戒を隠そうともしない。
クリスティーナが部屋へ入ってきたのは、その時だった。
「ちょっと、いきなり始めないでよ」
いつもの少し早口な声に、部屋の張り詰めた空気がほんのわずか緩む。
彼女はアーロンを見るなり、安堵と緊張を同時に浮かべた。
「……無事でよかった、とは言いたいけど」
そこで言葉を切る。
彼女もまた、アーロンの周囲に何かを感じ取ったのだろう。
「これは、ちょっと“無事”とは違うわね」
「だろう」
マリユスが即答する。
クリスティーナは小さくため息をついた。
「そこはせめて否定してあげなさいよ」
「事実を曲げる意味がない」
「人間関係のためよ」
「効率が悪い」
「そういうところだって言ってるの」
そのやり取りだけは、以前と同じだった。クリスティーナが観測台の横へ立つ。
「座って。簡易測定だけするから」
「簡易で済むの?」
アーロンが聞くと、クリスティーナは眉を上げた。
「済まないでしょうね。でも、いきなり全部やったら倒れるのはこっち」
「私は倒れない」
「あなたの話じゃない」
アーロンは中央の台座に腰を下ろした。
「測定する」
その瞬間、周囲の柱が淡く光を帯びる。
細い糸のような光が空間を走り、彼の周囲をなぞるように巡った。
まるで見えない誰かが、形を確かめるように触れてくる。
「じっとして」
クリスティーナが盤面に指を走らせる。
マリユスはその横で、無言のまま結果を見ていた。
最初の光が走る。次の瞬間、盤面の表示が乱れた。
「……は?」
クリスティーナが素で声を漏らす。
数字が並んでは消える。
安定値に届く前に別の値へ飛び、また崩れ、まるで測定するたびに違う結果を返しているようだった。
「装置の故障?」
「違う」
マリユスが言う。
「対象の方が固定されていない」
もう一度、光が走る。
今度は柱の一本が短く震え、低い音を立てた。
カイが壁から身を起こす。
「おい、大丈夫なのか」
「大丈夫ではない」
またしてもマリユスが答える。
「だから聞いてねえ」
「装置側の問題ではない。観測が成立しない」
「成立しないって」
「見るたびに、少しずつ違う」
アーロンは台座の上で黙っていた。
自分でもわかる。
ここへ座った瞬間から、胸の奥で何かがざわついている。花に触れた時とも、古代で境界を越えた時とも似ている。
世界の側が、自分をどう扱えばいいのか決めかねているような、不安定な感覚。
クリスティーナが唇を噛む。
「こんなの、前はここまでじゃなかった」
「当然だ」
マリユスの声が落ちる。
「向こう側を通過した」
部屋の空気が、また静かになった。
「……何だよ、それ」
アーロンが問う。マリユスは答えない。
彼は乱れる盤面を見つめながら、ふと、背後のグレイスをそっと手で制した。
その手つきには、無機質な「管理者」というよりも、壊れ物を扱うような人間らしい優しさが滲んでいた。
「面白い。……固定されない、記録できない。なら、君自身が『変化する世界』そのものだということだ」
マリユスが顔を上げる。その瞳には、焦燥を上回るほどの、光が宿っていた。
「しばらく研究所に残れ。君が何を見て、この世界をどう変質させたのか。……すべて、私に明け渡してもらう」
「うわ、最悪だ」
アーロンは苦笑いしながら台座から降りる。
足元が少し揺れた。
見れば、床の隅に青い花が一輪、侵食するように咲いている。
「始まっている」
マリユスが、その花を見つめて呟く。
「世界側の、再観測が。……そして、私の『忘却』もな」
マリユスが漏らしたその言葉の真意を、アーロンはまだ知らない。
ただ、彼に縋り付くグレイスの青白い瞳と、自分を見極めようとする神父の視線。
その三つの意志に囲まれながら、アーロンはかつてない孤独と、新しい破滅への足音を感じていた。




