第34周 風の差異
朝の風は、やわらかかった。
丘の上に立つアーロンの頬を、迷い込んだ羽毛のように撫でて通り過ぎていく。
冷たすぎず、強すぎず、ただそこにあるだけの風。
何度も浴びたはずの風だ。
この丘で、何度も、何度も。
それなのに――。
「……違う」
ぽつりと、アーロンは呟いた。
記憶の中にある景色と同じはずだった。
何度も走り回ったこの丘。見慣れた草原。どこまでも続く青い空。
けれど、肌を刺す微かな「密度」が、言葉にできないほど決定的に違っていた。
風の音を聞いた瞬間、アーロンの胸の奥で、別の風が吹いた。
古代の神殿の高い回廊。
白い石壁を撫でていく、張りつめた風。
その中で、泣きそうな顔で笑っていたミーティア。
――大丈夫。
そう言いたげに微笑んでいた。
本当は、少しも大丈夫ではなかったはずなのに。
それでも彼女は笑った。
アーロンを安心させるために。
世界に選ばれた巫女としてではなく、最後の瞬間まで誰かを想う一人の少女として。
その笑顔が、今も瞼の裏に焼きついている。
そして、もう一つ。
アステリオスの顔。
余裕を失い、王太子としての仮面さえ剥がれ落ちた、あの切迫した表情。
何かを止めようとしていた。
何かを守ろうとしていた。
けれど、そのために何を捨てようとしていたのか、アーロンにはまだ分からない。
帰ってきたはずだった。
この丘に。
この時代に。
カイのいる日常に。
けれど、胸の奥には、古代に置き去りにしてきたものがまだ残っていた。
ミーティアの笑顔も、アステリオスの眼差しも、あの時代の風の匂いも。
帰還とは、すべてを取り戻すことではない。
そう思い知らされるように、アーロンの心には、ぽっかりとした空洞が空いていた。
「また変な顔してるな、お前」
背後から、呆れたような声がした。
振り返ると、弓を肩に担いだカイが、面倒そうに鼻を鳴らして立っていた。
「さっきから何をぼーっと見てるんだよ。獲物でも見つけたか?」
「……風を、見てたんだ」
「風ぇ?」
カイは怪訝そうに空を見上げた。
前髪を揺らす風に目を細めるが、すぐに興味を失ったように肩をすくめる。
「いつも通りだろ。少し湿り気が足りない気もするが、ただの風だ」
「うん……でも、やっぱり違うんだ。前は、もっと……『決まってた』気がする」
「決まってた? 何がだよ」
「同じタイミングで、同じ強さで……まるで、決められた時間に針が動くみたいに。でも今の風は、もっと……」
アーロンはゆっくりと手を伸ばした。
指の間をすり抜ける空気は、以前よりもどこか奔放で、不確定な揺らぎを含んでいる。
「……初めて吹いた風みたいな、感じがするんだ」
その言葉に、カイは心底わけがわからないという顔で首をかしげた。
「初めて? 寝ぼけてんのか。お前、ここに何年住んでると思ってんだよ」
「そうなんだけどさ……」
アーロンが納得しきれないまま視線を落としたとき、背後から重みのある足音が近づいた。
その足音に、アーロンはなぜか肩を揺らした。
振り返るより早く、背中がその気配を知っていた。
古びた法衣の擦れる音。
ゆっくりと近づいてくる、落ち着いた歩調。
けれど、その気配の奥に、ほんの一瞬だけ別の影が重なった。
鋭い目をした青年。
皮肉を含んだ声音。
それでも、誰よりも冷静に世界の破綻を見つめていた人物。
名前を呼ぼうとして、アーロンは息を呑んだ。
思い出したわけではない。
確信したわけでもない。
ただ、神父の背後に流れる沈黙の形が、遠い過去で出会った誰かのそれに、ほんの少し似ていた。
「風は、毎回違いますよ。アーロン」
神父だった。
使い古された法衣の裾を風になびかせ、彼はアーロンの隣に立った。
「ですが……同じものだと『感じる』ことはあります」
「……どうして?」
神父はすぐには答えなかった。
遠く、山脈の向こう側に広がる雲を、慈しむような、あるいは耐えるような目で見つめる。
その横顔を見た瞬間、アーロンの胸の奥が、また小さく軋んだ。
違う。
この人は、あの人ではない。
そう思うのに、否定しきれない何かがある。
表情ではない。
声でもない。
ただ、言葉を選ぶ前のわずかな沈黙が似ていた。
知っていることを、知っていないふりで包むような沈黙。
核心に触れず、けれど相手がそこに辿り着くのを待つような間。
アーロンは、それをどこかで知っていた。
「人は、同じものを見続け、同じ場所を歩き続けると……やがて差異を見なくなるからです」
神父は静かに言った。
「昨日と同じ今日。今日と同じ明日。そう信じることで、人は安らぎを得る。しかし――」
神父が一歩、アーロンに近づく。
その影が長く伸び、アーロンの足元を覆った。
「一度そこから外れた者には、もはや世界は同じ顔を見せてはくれません」
その言葉は、優しかった。
けれどアーロンには、慰めには聞こえなかった。
むしろ、帰ってきたはずの場所から、もう二度と元の自分には戻れないのだと告げられたようだった。
「……じゃあ、ここは……前と同じ世界なの?」
アーロンの問いに、カイが眉をひそめて割り込んだ。
「おいアーロン、さっきから何言ってんだ。世界が二つも三つもあるわけねえだろ」
「……カイ、僕がおかしなことを言っているのはわかる。でも感じるんだ」
カイは何か言い返しかけたが、アーロンの表情を見て口を閉じた。
そこにあるのは、いつもの夢見がちな顔ではなかった。
何かを見てしまった者の顔だった。
それを失ってもなお、まだその重さだけを抱えている者の顔だった。
神父は、アーロンの強い視線を受けて、わずかに目を細めた。
「……どう思いますか。アーロン。君には、この風はどう映る?」
「……同じじゃない気がする。でも、同じに見える」
その矛盾に満ちた答えに、神父はわずかに頷いた。
「そうですね。……あるいは、『やり直されている』のかもしれません。前の記録に、わずかな修正を加えて」
「やり直し? なんだそれ、流行りの神話かよ」
カイが吐き捨てる。
神父はそれには答えず、穏やかな微笑みだけを返した。
その微笑みに、アーロンはまた胸の奥を掴まれた。
神父は何かを知っている。
けれど、それを言わない。
古代でも、そうだった。
誰もがすべてを語らなかった。
ミーティアも、アステリオスも、あの人も。
言えば壊れてしまうものがあるから。
知らないままでいてほしい願いがあるから。
それでも、知らなければ進めない真実があるから。
アーロンは唇を噛んだ。
「さあ、私にもすべては分かりません。ただ一つ言えるのは、風が変わったのなら、運命もまた変わるということです」
その声音には、明らかに「知っていて言わない」響きがあった。
アーロンはその言葉の奥を探ろうとして――やめた。
それ以上踏み込めば、今この瞬間に感じている微かな「新しさ」さえも、過去の重みに塗り潰されてしまう気がしたからだ。
まだ、手放せない。
ミーティアの泣きそうな笑顔も。
アステリオスの切迫した顔も。
古代で聞いた風の音も。
けれど、抱えたままでも歩かなければならないのだと、今の風が告げている気がした。
そのとき。
遠く、丘の向こう側にあるアエリスの方向から、金属が鳴るような澄んだ音が響いた。
カイが耳を澄まし、顔を険しくする。
「……なんだ? 鐘の音じゃねえ。もっと嫌な音だ」
「来ましたね」
神父は、アエリスの白い巨塔を見据えた。
「何がだよ、親父」
「アエリス研究所からの、正式な呼び出しです。……アーロンの帰還を、彼らも察知したのでしょう」
風が止まる。
不気味な静寂の中、アーロンの胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
それは、懐かしさに似た痛みだった。
あるいは、まだ名前を持たない破滅の予感だった。
帰ってきた。
けれど、終わってはいない。
古代に置いてきたはずのものが、今、この時代で再び動き出そうとしている。
――次の「始まり」の音が、すぐそこまで迫っていた。




