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第28周 好きだから、守りたい

 夜明けの風は、静かだった。


神殿の丘の上から見下ろす王都ルミナリアは、まだ半分眠っている。

水路の上には薄い霧がたゆたい、石畳の道には人影もまばらだった。

遠くで、ゆっくりと鐘が鳴る。

朝を告げる、いつもの鐘だった。


その音を聞きながら、アステリオスは神殿の回廊を歩いていた。


足取りは落ち着いている。

だが、その瞳はいつもより深く、思考の奥へ沈んでいた。


ミーティアが見た未来。

王都の崩壊。

そして、世界そのものの崩壊。


 それが単なる予知ではなく、ほとんど確定した未来であるという事実は、研究者としても、王族としても、見過ごせるものではなかった。


 回廊の先に、ミーティアがいた。


石の柱にもたれ、丘の下の街を見下ろしている。

夜明けの光が彼女の頬を淡く照らし、長い髪をやわらかく縁取っていた。


アステリオスはその隣に立つ。


「少し休んだか」


ミーティアは街を見たまま、小さく頷いた。


「少しだけ」


 顔色はまだ白い。

未来を読むことは、ただの情報収集ではない。

精神そのものを世界へ開く行為だ。

見た未来が重いほど、その残響は深く心に残る。


だが、彼女の目は昨夜のように揺れてはいなかった。

怖れを失ったわけではない。

それでも、もう逃げてはいなかった。


「もう一度聞く」


 アステリオスは言った。


「未来はいくつあった」


ミーティアはしばらく空を見ていた。

夜と朝の境目みたいな、淡い色の空を。


それから静かに答える。


「ほとんど一本」


その声は、昨夜より落ち着いていた。


「崩壊の未来か」

「うん」

「残りは」


ミーティアはそこで、ほんの少しだけ口元を上げた。


「アーロン」


 ――予想通り。

アステリオスは目を閉じた。


 

 あの少年は、最初から世界の理屈の外にいる。

観測しても状態が確定しない存在。

秩序の内側に収まらず、だからこそ揺らぎを生む存在。


揺らぎは分岐を生む。だが――それだけでは足りない。


「未来はどこで崩れる」


アステリオスが問う。

ミーティアは迷わなかった。


「ここ」


下に広がる王都を指さす。


「この国」

「王都が中心か」

「うん」

「原因は」


ミーティアは首を横に振った。


「見えない」

「だが、起点はここだな」

「そう思う」


 朝の風が回廊を抜けていく。

石柱の隙間をすり抜けるその流れは、この王国の象徴そのものだった。


 風は情報。世界は情報で構成されている。

ならば風を読むことは、世界を読むことに等しい。

そして魔法とは、この国ではその情報に干渉する技術だ。


 もし世界が壊れるのだとしたら。

その原因もまた、情報の構造そのものにあるはずだった。


「……ミーティア」

「何?」

「もし世界が一本の未来に固定されたら」


問いが終わる前に、ミーティアは答えた。


「世界は止まる」


アステリオスが視線を向ける。


「どうして」

「可能性がなくなるから」


 少し間を置いて、彼は頷いた。


観測装置の記録でも、世界の揺らぎは急速に収束しつつある。

揺らぎが消えるということは、分岐が消えるということ。

つまり未来が固定されていくということだった。


「世界は、秩序が強くなりすぎている」


アステリオスが言うと、ミーティアが振り向いた。


「秩序?」

「揺らぎを許さない構造になっている」


彼は回廊の外へ視線を向ける。


朝の王都は美しかった。

白い塔も、水路も、研究院の屋根も、整然と並んでいる。

この国は、秩序の象徴だ。


だが秩序は、本来、安定のためのものだ。それが強くなりすぎれば、別の問題が生まれる。


「……硬直」


アステリオスは低く呟いた。

ミーティアは少し首を傾げる。


「それって、世界が動けなくなるってこと?」

「そうだ」


ミーティアは少し考え、それから小さく息をついた。


「病気みたい」

「近い」


アステリオスは答える。


「秩序は必要だ」

「だが、自由がなければ世界は死ぬ」


 それは研究院で幾度も辿り着いた結論でもあった。

秩序だけでは世界は続かない。自由だけでも続かない。必要なのは均衡だ。


その均衡が崩れたとき、世界は壊れる。


「……ねえ」


ミーティアが少しだけ笑う。


「アーロンって、自由そのものみたいだよね」


アステリオスは頷いた。


「未来が読めない。観測しても状態が確定しない」

「つまり」


ミーティアは、今度はもう少しはっきり笑った。


「世界のルールの外」

「その通りだ」


アステリオスは答える。


そして、その瞬間。彼の中で一つの考えが形を持った。


最初は、小さな仮説にすぎなかった。

だが次第に輪郭を得ていく。


 もし世界が一本の未来に固定されるのなら。

 その未来を壊せないのなら。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


「……なるほど」


アステリオスの呟きに、ミーティアが首を傾げた。


「どうしたの?」


彼はゆっくりとしゃがみ込み、石の床に指先で円を描いた。


「もし未来が一本なら、時間を進める必要はない」

「え?」


「未来を新しく作る必要もない」


ミーティアは眉を寄せる。

けれど分からないまま流したりはしない。

彼女はいつだって、分からないことを分からないままにしておけない。


「どういうこと?」

「世界を」


指先で円をなぞる。


()()()


ミーティアはその円を見つめた。


「……同じ未来を繰り返すってこと?」


「少し違う」


アステリオスは首を振る。


「時間ではない。位相だ」

「位相……」

「世界の状態を循環させる」


ミーティアは息を呑んだ。

理論のすべては分からなくても、その言葉の先にあるものだけは直感で見えた。


「それって、世界をやり直すの?」

「正確には、世界を保存する」


朝の風が少し強く吹き、回廊に垂れた布を揺らした。

ミーティアは円を見つめたまま問う。


「……それ、できるの?」


アステリオスは正直に答えた。


「分からない」


それから、ほんのわずかに笑う。

「だが、理論はある」


ミーティアはしばらく黙っていた。


沈黙は、怯えから生まれたものではなかった。

考え、受け止め、選ぼうとする者の沈黙だった。



やがて彼女は、静かに言う。


「それ、代償があるよね」


アステリオスは答えなかった。

だが、その沈黙が答えだった。


ミーティアは空を見上げ、小さく息を吐く。


「……巫女」


アステリオスはゆっくりと頷く。


ミーティアは苦笑した。

けれど、その表情は不思議と沈んでいなかった。


「やっぱり」

「未来で見たのか?」

「全部じゃない」


彼女は首を振る。


「でも、分かった」



 少しの沈黙。



「怖くないのか」


アステリオスがそう問うと、ミーティアは少しだけ目を丸くした。

それから、ふっと笑った。


「怖いよ」


驚くほどまっすぐな声だった。


「すごく怖い」


彼女は王都を見下ろす。


市場が開き始めている。

子どもたちの声が遠くに混じり、商人が荷車を引き、朝の煙が屋根のあいだから立ちのぼる。


どこにでもある、普通の朝。

その平和が、いずれ崩れる未来を彼女は知っている。


それでも。


「でもね」


ミーティアは、少しだけ胸を張った。


「怖いからって、好きなものを見捨てていい理由にはならないでしょ」


アステリオスは答えなかった。

その代わり、彼女を見た。


ミーティアは朝の光の中で、まっすぐ街を見つめている。

泣きそうな顔ではなかった。無理に強がる顔でもなかった。


ただ、決めた人の顔をしていた。


「前はね」


ミーティアは静かに言う。


「“巫女だから守る”って思ってた」

「……」

「でも今は違う」


風が髪を揺らす。

彼女は目を細め、それでも微笑んだ。


「この国が好きだから、守りたい」


その言葉はやわらかかった。

けれど、やわらかいまま折れない強さがあった。


「ねえ」

「何だ」


「あなたは、この国、好き?」


アステリオスは少し考えた。


「責任がある」

「それ、ずるい答え」


ミーティアは笑う。

からかうような口調なのに、その笑い声には不思議と朝を明るくする力があった。


「好きか嫌いかで答えて」


アステリオスは空を見上げる。

白みゆく空の下に広がる王都を、しばらく見つめてから答えた。


「……好きだ」


ミーティアは満足そうに頷いた。


「私も」


そして、少しいたずらっぽく笑う。


「じゃあ、やることは一緒だね」


軽い口調だった。

けれど、その言葉の奥にある覚悟は重い。


アステリオスは、その意味を理解していた。

だからすぐには答えなかった。


「まだ決めるには早い」

「そう?」

「理論が完成していない」

「研究者だね」

「そうだ」


ミーティアはくすっと笑った。


それから少しだけ真顔に戻り、神殿の下を見た。


「でも、時間ないよ」


その一言は、未来を見た巫女の確信だった。

軽くはない。けれど、不思議と絶望だけを感じさせる声でもなかった。



アステリオスはゆっくり息を吐く。


「……分かっている」


 そのとき、丘の下の道から明るい声が飛んできた。


「おーい!」


 アーロンが息を弾ませ、丘を駆け上がってくる。


「朝から何やってるの」


ミーティアはすぐに笑って返した。


「世界の未来を考えてた」

「朝から重いな」 

「そう?」

「もっと軽く考えたらいいよ」


アーロンは丘の上にたどり着き、肩で息をしながら言う。


「未来なんて、壊れたら直せばいいじゃん」


 一瞬の沈黙。


それから、ミーティアが吹き出した。


「あははっ、ほんとそういうとこだよね」

「何それ」

「褒めてるの」

「絶対違うでしょ」


アーロンがむっとした顔をして、ミーティアはまた笑う。


その笑顔は、さっきまで未来の崩壊を語っていた人のものとは思えないほど明るかった。


けれどその明るさは、何も知らない軽さではない。


壊れる未来を知って、代償の気配も知って、それでもなお笑える人の強さだった。


 ミーティアは朝の光の中で、まっすぐ前を向く。


世界はまだ終わっていない。

壊れる未来を知っていても、なお好きだと言える。

なお、守りたいと決められる。


それだけで、まだ負けていない気がした。

アステリオスもまた、ほんのわずかに口元を緩めた。


未来は収束している。

時間はない。

代償もある。


それでも。


丘の上に吹く朝の風だけは、まだ自由だった。

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