表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/67

第29周 円環理論

 研究院の塔は、夜になるほど明るくなった。


王都の灯りが少しずつ落ち着き、人々が眠りに沈みはじめる頃――アネモス研究院では、逆に活動の密度が増していく。


昼のあいだには届かない微細な風の揺らぎ。

静まった街だからこそ拾える情報の波。

夜は、この国にとって観測の時間だった。


最上階の観測室には、青白い光が揺れていた。


 机の上に広げられた記録板。

 空中に浮かぶ観測装置。

 風の流れを数式へ変換するための魔法陣。

 壁一面には、過去数十年分の観測記録が層のように積み重なっている。


その中心で、アステリオスは一人立っていた。


石の床には、大きな円が描かれている。

彼自身が、つい先ほど描き上げたものだった。


もともと刻まれていた風の紋様の上に、さらに複数の線が重ねられている。

いくつもの円。

重なり合う波形。

交差する座標。

世界の構造を示すための、まだ仮説に過ぎない理論図。


観測室の入り口に立ったアーロンは、それを見下ろして、開口一番こう言った。


「……相変わらず分かりにくいな」


その少し後ろで、ミーティアがくすっと笑う。


「いつものこと」


アステリオスは振り向かなかった。


「分かりやすい世界なら、そもそも苦労はない」


「それはそうだけど」


アーロンは腕を組み、床の図をぐるりと見回した。


「で、結論は何なんだ」


アステリオスは手元の記録板を閉じ、床の円を指した。


「世界は情報でできている」

「それは昨日も聞いた」


「そして、その情報は静止していない」

「……波、だっけ」


「そうだ」

アステリオスは頷く。


「情報は流れ、干渉し、重なり、揺らぐ。風がそうであるように、世界そのものもまた、常に波として変動している」


「それも、なんとなくは分かる」

「なら次だ」


彼は、円の外周を指先でなぞった。


「波は直線では終わらない。条件が閉じれば循環する」


「循環?」

「回るってこと?」


ミーティアが口を挟む。アステリオスは、その言い換えに小さく頷いた。


「そうだ。世界の状態が一方向に進み続けるものではなく、位相として循環可能だとしたら――世界は“進む”だけではなく、“戻る”こともできる」


アーロンが眉をひそめる。


「時間が戻るってことか?」


「時間そのものじゃない」


アステリオスは即座に否定した。


「時間は結果として巻き戻って見えるだけだ。正確には、“世界の状態”が以前の配置へ戻る」


ミーティアが、床の線を見つめたまま呟く。


「……位相」

「そう」


アステリオスの声が、わずかに熱を帯びる。


「世界の状態は、直線的な時間軸だけでは記述できない。むしろ巨大な環として、一定の条件下で再配置される可能性がある」

「位相ループ、ってことね?」


ミーティアの問いに、アステリオスは初めて振り向いた。


「その通りだ」


その目は、昼間より明らかに冴えていた。

疲れているはずなのに、思考だけが先へ先へと走っている目だった。


「もし世界が崩壊する未来へ収束し、ほかの分岐が消えていくのなら」


 彼は言う。


「未来そのものを無理に変える必要はない。壊れる直前の状態で世界を閉じ、そこへ循環させることで、崩壊を遅延できる」


アーロンはしばらく黙ったあとで、顔をしかめた。


「……つまり、やり直し?」


「正確には保存だ」


アステリオスは答える。


「壊れる前の世界を、ひとつの閉じた(システム)として保存する」


「いや、それを普通はやり直しって言うんじゃないの?」


「君の言葉は雑すぎる」

「その方が分かりやすいでしょ」


ミーティアがまた笑う。けれど、その視線はずっと床の円から離れていなかった。


「でも」


彼女は静かに言った。


「同じ状態に戻すなら、同じ未来を繰り返すだけじゃない?」


アステリオスは、その問いを待っていたように頷いた。


「そこが核心だ」


彼は、円の上に細い線をいくつも描き足す。


「完全な再現は不可能だ。世界はあまりに大きく、あまりに複雑すぎる」


「つまり?」

「必ず誤差が出る」


彼は円周の一部に、小さなずれを描いた。


「ごく微小な差異。観測誤差、感情の残響、情報の欠損、外乱――原因が何であれ、循環のたびに同一ではいられない」


「……揺らぎ」

 ミーティアが言う。


「そうだ」


アステリオスの声は静かだったが、確信があった。


「世界は同じ状態に近い位置まで戻る。だが、まったく同じにはならない。必ずわずかな差が生まれる」


「それが、分岐になる?」

「なる」


アーロンは腕を組み直した。


「なるほどな。同じように始まっても、ちょっとずつ別の未来になるわけか」


「そういうこと」


 ミーティアが、今度は少し真剣な顔でアステリオスを見る。


「それなら……繰り返せば、いつか崩壊しない未来にたどり着けるかもしれない」


「理論上は」

アステリオスは答えた。


「だが、問題がある」


 空気が少し変わる。


アーロンが顔を上げ、ミーティアの表情も引き締まった。


「何?」


「基準点だ」


アステリオスは、円の中心を指した。


「円環を起動するには、世界の状態を再配置するための固定座標が必要になる」


「固定座標?」

「戻る先の“基準”ってこと?」


ミーティアの問いに、アステリオスは頷いた。


「そうだ。波が循環するなら、必ず基準位相が要る。さもなければ世界はただ拡散するだけで、元の状態に近い位置へ戻れない」


アーロンは首を傾げる。


「で、その基準って誰が決めるんだ」


「誰かが決めるんじゃない。()()()()()


 アステリオスは、ほんの一瞬だけ言葉を切った。

 その沈黙の意味を、ミーティアは先に察していた。


「……観測者」


 彼女の声は、小さかった。

 だが、はっきりしていた。


 アステリオスはゆっくり頷く。


「そうだ。世界の状態を観測し、確定し、記録し続ける一点。それがなければ、円環はただの仮説で終わる」


アーロンが指をさす。


「それ、お前の役目だろ」

「そうなる」


アステリオスはためらわずに答えた。


「未来を“読む”のは巫女だ。だが世界の状態を観測し、円環の基準位相として固定するのは、観測者の役目だ」


「じゃあ、ミーティアは違うのか?」


アーロンの視線が彼女へ向く。

ミーティアは少し考えてから、首を横に振った。


「私は、未来の流れを読むだけ。世界がどっちへ傾いていくか、どんな気配が強くなってるかを見ることはできる。でも、“世界そのものを固定する”のは、私じゃない」


アステリオスが言葉を継ぐ。


「巫女は風を通じて可能性を読む。観測者は、その世界の状態を定義する」


「似てるようで全然違うんだな」


「全然違う」


 ミーティアが答えた。


「私は、来るものを聞く人。アステリオスは、今あるものを見て、形にする人」


その言い方に、アステリオスは一瞬だけ目を細めた。

的確だった。


「だが」

 彼は静かに続ける。


「巫女が不要という意味ではない」


彼は円の中心ではなく、その外側に細い環を描いた。


「観測者だけでは、世界を固定できても“どこへ向かって崩れるか”が分からない。円環を維持し、調整し、崩壊を先読みするには、未来を読む存在が必要だ」


「補助系統、みたいなもの?」

 アーロンが言う。


「補助と呼ぶには重要すぎる」


 アステリオスは即座に返した。ミーティアは苦笑する。


「つまり、私は外せない?」

「外せない」


その返答に冗談はなかった。


 少しだけ沈黙が落ちる。


昼間、神殿の丘で口にした言葉が、ミーティアの中で静かに蘇っていた。

この国が好きだから、守りたい。

あのときはまだ、覚悟の輪郭だけだった。

けれど今、その輪郭の中身が少しずつ見え始めている。


「……代償は?」


ミーティアが先に聞いた。


アーロンが彼女を見る。

アステリオスは答えず、ほんのわずかに視線を落とした。


その沈黙だけで、十分だった。


「やっぱり、あるんだ」


彼女の声音は落ち着いていた。

怯えていないわけではない。

だが、目を逸らしてもいなかった。


「観測者は、円環の中心に結びつけられることになる」


 アステリオスはようやく口を開く。


(システム)が循環するたびに、状態の整合を取り続けなければならない。つまり、世界が続く限り、観測し続ける必要がある」


「……ずっと?」

「理論上は」


アーロンが顔をしかめる。


「それ、人間がやることじゃないだろ」


「だから理論なんだ」

 アステリオスの声は硬かった。


「まだ完成していない。成立するかも分からない。代償だけが先に確定しているわけじゃない」


ミーティアは、彼の横顔を見た。その言い方で分かった。

彼はもう、代償をかなりのところまで理解している。それでも言葉にしきれないだけだ。


「じゃあ、私は?」


その問いに、アステリオスは少しだけ間を置いた。


「巫女は、循環のたびに未来の偏りを読むことになる」


「崩壊の兆候を?」


「そうだ。どこで誤差が広がったか、どこに新しい分岐が生まれたか、それを読む」


「毎回?」

「おそらく」


アーロンが頭を抱える。


「重いな……」

「今さら?」


ミーティアが少し笑う。


「いや、昨日より具体的になってる分、余計に重い」


彼の言い方がおかしくて、ミーティアはまた小さく笑った。

その笑い声に、張り詰めていた空気が少しだけほどける。


アステリオスは二人を見たあと、床の円へ視線を戻した。


「まだ仮説だ。……だが、もしこれが成立すれば、崩壊へ収束する未来を“引き延ばす”ことができる」


「引き延ばす、か」

 アーロンが言う。


「救う、じゃなくて?」


「今の段階では、そう言うべきだろう」


 アステリオスの声音は冷静だった。


「円環は万能じゃない。永久機関でもない。誤差が蓄積する限り、いつか破綻する」


「じゃあ、何回くらい持つの」


 ミーティアの問いに、アステリオスは沈黙した。


 記録板の上には、いくつもの試算結果が並んでいる。

 まだ確定ではない。

 だが、おおよその数値は、もう出ていた。


「……六十四」


 観測室の空気が、わずかに止まった。


「六十四回?」


 アーロンが聞き返す。


「おそらく」

 アステリオスは答える。


「円環が保持できる循環回数の上限に近い数字だ」


「妙に具体的だね」

 ミーティアが言う。


「偶然ではない」


 アステリオスは床の円を見つめたまま答えた。


「世界の情報量と、揺らぎの減衰率、観測負荷、位相誤差の累積……すべてを仮定値で置くと、そのあたりに収束する」


ミーティアは、その数字を小さく繰り返した。


「六十四回」


 不思議な響きだった。

 多いようで、少ない。

 長いようで、限りがある。


 アーロンは肩をすくめる。


「まあ、一回で終わるよりはマシだと思うよ」


「君は本当に雑だな」

「でも間違ってないでしょ」


アステリオスは否定しなかった。

確かに、その通りでもあった。


「世界が循環の中で誤差を蓄積し、学習し、最終的に新しい分岐を得られるなら」


ミーティアが言う。


「六十四回のどこかで、自由が戻るかもしれない」


「その可能性に賭けるしかない」


 アステリオスは静かに頷いた。


     


 その日の深夜。

研究院の塔の上に、三人は並んで立っていた。


観測室にこもり続けたあとで、少しだけ風に当たりたくなったのは誰からともなく同じだった。

塔の上からは、夜の王都が一望できた。


遠くまで続く灯りの列。

水路に映る月光。

静かに眠る街の輪郭。


その光景を見つめながら、ミーティアがぽつりと言う。


「六十四回か」


アーロンが軽く笑う。


「長いな」


「そうかな」


「普通の人間は、一回でも人生で手一杯だろ」


ミーティアは空を見上げた。夜の風が、髪を揺らす。


「でも」


 彼女は静かに続ける。

「世界が続くなら、それでもいいのかもしれない」


 アステリオスは、その横顔を見ていた。


昼間、彼女は言った。この国が好きだから、守りたいと。

今のその言葉は、その続きを言っているように聞こえた。


守りたいから、怖くても立つ。

好きだから、代償の気配からも目を逸らさない。


言いたい言葉はいくつもあった。

止めるべきだという言葉。まだ早いという言葉。そんなふうに簡単に背負うなという言葉。


けれど、どれも口にはできなかった。


研究者として。 観測者として。 そして、一人の人間として。


彼はまだ答えを出していない。理論は仮説でしかない。完成には程遠い。

それでも、もう分かっていた。


この理論が完成すれば、世界は救いの可能性を得る。

その代わりに、誰かが円の内側へ入ることになる。


 風が静かに吹いた。


「ねえ」


ミーティアが不意に言う。


「六十四回もあったら、一回くらいはすごく平和な回もあるのかな」


アーロンが笑う。


「あるんじゃない?毎日お菓子食べて昼寝して終わる回とか」

「それは世界を救う気あるの?」

「平和なら、1回くらいダラダラしてもいいんじゃない?」

「確かに」


 ミーティアは笑った。


その笑い声は、夜の塔の上で不思議なくらい明るかった。

重い話をした後なのに、少しも空虚ではない。

むしろ、その明るさだけが、まだ未来が閉じきっていない証みたいだった。


 アステリオスは、ごくわずかに目を細める。


 世界は収束している。

 崩壊は近づいている。

 理論はまだ未完成だ。


それでも今、この風の中には、確かに揺らぎがある。


ミーティアが笑い、アーロンがくだらないことを言い、夜の王都が静かに息をしている。

そのすべてが、まだ失われていない。


アステリオスは、眠る街を見下ろしながら思う。


六十四回。

それは猶予であり、呪いであり、祈りでもあるのだろう。


 その夜、まだ誰も知らなかった。


この塔で描かれたひとつの円が、未来の世界を幾度も繰り返す円環の原型になることを。

そして、その円の中心に立つ者たちが、それぞれ違う形で世界を支えることになるのを。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ