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第26周 世界異常

最初の異変は、音だった。


夜の収束から一夜明けた朝。

研究院は、表面上はいつもと変わらない静けさを取り戻していた。


白い回廊には朝日が差し込み、研究員たちはいつものように資料を抱えて行き交っている。

遠くの広場からは人々の声も聞こえ、王都ルミナリアは今日も変わらず目を覚ましたように見えた。


けれど、違っていた。


それは本当に小さな音で、ほとんどの人間は気にも留めなかった。


窓を開けたときに混じる、かすかな震え。

風とは違う、もっと乾いた、石の奥を爪で引っかくような音。


アーロンがそれに気づいたのは、塔の回廊を歩いているときだった。


彼はふと足を止めた。


「……今、何か鳴らなかった?」


隣を歩いていたミーティアが振り向く。


「何が?」


「音。下の方で……石がきしむみたいな」


アーロンは床へ視線を落とし、ミーティアはは少し首を傾げる。

だが次の瞬間、その表情がわずかに変わる。


「……あ」


「君も聞こえた?」


「ううん」


ミーティアは空の方を見た。


「風が止まった」


アーロンもつられて空を見上げる。


朝の王都ルミナリアは、いつもならどこかしらで風が動いている。

塔の布が揺れ、水路の上を冷たい空気が渡り、遠くで風車が回る。それが、この街の呼吸だった。


 だが今は違った。


 静かすぎる。


音がないわけではない。人々の声も、足音も、遠くの鐘の音もある。

なのに、その全部を繋いでいるはずの風の流れだけが、ふっと消えていた。


「……昨日の夜と、同じ」


アーロンが小さく呟いた。

ミーティアは答えなかった。


ただ、その顔からは、昨日までの柔らかさが少し消えていた。


「行こう」


 短く言って、彼女は歩き出した。


 その時、回廊の向こうからセラフィウスが駆けてきた。


「アステリオス殿下は!」


「観測室よ」


ミーティアが答えると、セラフィウスは軽く頭を下げ、そのまま走り去った。

その足音は、いつもより慌ただしかった。


「何かあったのかな」


アーロンが言う。

ミーティアはすぐには返事をしなかった。


ただ一度だけ、空を見上げる。青く澄んだ朝の空。

けれどその奥で、何かが少しずつ、音もなく歪み始めている。


そんな気がした。


「……たぶん、始まったんだと思う」


ミーティアはそう言って、観測室へ向かった。


 回廊を抜け、螺旋階段を上がるにつれて、空気の重さが変わっていく。

普段なら研究員たちの声や記録装置の音がかすかに混じる場所なのに、その日は誰もが息を潜めているようだった。


 観測室の扉が開く。


そこにあったのは、いつもの研究院とは違う、張り詰めた空気だった。

中央の観測装置はいつも通り回転している。

だが、中心に集まる風の光が妙に不安定だった。

青白い粒子が脈を打つように明滅し、ときおり輪の内側で小さな火花のようなものが走る。


アステリオスは装置の前に立っていた。その表情は落ち着いている。

だが、落ち着いているからこそ、事態が軽くないことを物語っていた。


「何があったの?」


ミーティアが問うと、アステリオスは視線を装置に向けたまま答えた。


「揺らぎが増えている」


アーロンは顔をしかめる。


「また、それか」


「今までは局所的だった。だが、今朝から広域になった」


セラフィウスが記録板を持って近づいてくる。


「北部水路域、東農耕区、西の林地帯で、同時に異常を確認しています」


「内容は」


「風向の乱れ、気圧の急変、動物の群れの移動異常です」


ミーティアの目がわずかに細くなる。


「動物まで?」


「はい。鳥が方角を見失っています。群れの飛び方が不自然です」


その言葉を聞いた瞬間、アーロンの胸の奥に鈍い既視感が走った。


 鳥。

 風の乱れ。

 獣の異常。


 林の奥で、青い光を帯びた狼。

 風もないのに揺れていた花。

 止まらないざわめき。


「……ねえ」


アーロンが言う。


三人の視線が集まった。


「これ、前にもあった気がする」


「前?」


ミーティアが聞く。

アーロンはうまく説明できず、額に手を当てた。


「気のせいかもしれない。でも、似てるんだ。何かが壊れる前みたいな感じがする」


 観測室が静まり返る。


アステリオスはしばらくアーロンを見ていた。

やがて、静かに問う。


「夢か」


「……違う」


「確かか?」

「確かじゃない。でも、嫌な感じだけは同じなんだ」


ミーティアがふいに一歩下がった。

その顔から、血の気が引いている。


「ミーティア?」


アーロンが呼ぶと、彼女は何かを聞くように空を見た。


「……来る」

「何が?」


「まだ分からない」


彼女の声は小さかった。

だが、その震えは、風よりもはっきり伝わった。


「でも、近い」


次の瞬間。


どん、と低い振動が床を叩いた。

観測室全体がわずかに揺れる。

壁に掛けられていた記録板が鳴り、研究員の一人がよろめいた。


「地震!?」


誰かが叫ぶ。

だが揺れは一度で終わった。大きくはない。それでも、この王都では珍しいものだった。


研究員たちがざわつく。


「この地域で地震など……」

「記録にほとんどありません」

「地下水路か?」

「違う、もっと深い……」


アステリオスが手を上げると、室内はすぐに静まった。


「観測値を記録しろ。動物の異常も含めて、全域を再確認」

「はい!」


研究員たちが一斉に動き始める。

その中で、アステリオスはアーロンとミーティアだけを見た。


「ここにいろ」


「僕たちも行った方がよくない?」


アーロンが言うと、アステリオスは首を振った。


「今はまだ早い」


「何が?」

「異常の中心が分からない」


アステリオスは短く言った。


「中心が分からない以上、下手に動けば巻き込まれる」


 ミーティアはまだ空を見ていた。その唇がわずかに動く。


「……一本だった」

「何が?」


アーロンが聞く。

ミーティアはゆっくり視線を下ろした。


「未来」


その一言で、アーロンの背筋が冷えた。


「また……?」


彼女はかすかに頷く。


「少し前まで、枝分かれしてたのに」


アステリオスの表情が、ほんのわずかに硬くなる。


「今は?」


「一本に戻りかけてる。細くて、不安定だけど……でも、前より少ない」


アーロンは意味を完全には理解できなかった。だが、それが良い話ではないことだけは分かる。


「どうして、そんなことになるんだろう」


問いはほとんど独り言だった。

アステリオスが答える。


「世界が自らを固定しようとしているのかもしれない」


「固定?」


「揺らぎが増えすぎると、逆に秩序が強く出ることがある」


アーロンは苦い顔をした。


「つまり、世界が勝手にバランスを取ろうとしてるってこと?」


「可能性の一つだ」


アステリオスは装置を見上げる。


「問題は、その揺れが自然発生なのか、別の要因によるものなのかだ」


その時、観測室の外から甲高い鳴き声が聞こえた。

何羽もの鳥の声。尋常ではない、乱れた鳴き方だった。


三人は同時に回廊へ出た。

空がざわついていた。王都の上空で、鳥の群れが渦を巻いている。

いつもならまっすぐ山の方へ抜けていく群れが、方角を失ったように回り続けていた。


「……これも、同じだ」


 アーロンが呟く。


その光景を見た瞬間、林の上を不自然に飛んでいた鳥たちの記憶が、また胸の中を掠めた。

ミーティアが両手を胸の前で組む。


「嫌な音がする」


「音?」

「未来の」


彼女の目は群れを見ていなかった。

もっと遠く、もっと深い場所を見ている。


アステリオスはすぐに近くの研究員へ指示を飛ばした。


「上空の動きを記録しろ。神殿側にも連絡を」

「はい!」


「騎士隊の巡回は?」


「すでに広場へ向かっています」


アステリオスはわずかに息を吐いた。


「なら、まだ抑えられる」


だが、その言葉は、自分自身への確認のようでもあった。


 異常はそこで終わらなかった。

午前の騒ぎが収まらないうちに、研究院には次々と報告が届き始めた。


最初は王都の周辺だけだった異変が、昼過ぎには街の外へと広がっていた。


 東の農地では、家畜が一斉に柵へ体当たりした。

 南の水路では、水の流れが一時間だけ逆転した。

 西の林では、獣たちが縄張りを無視して移動した。


どれも単独なら説明はできる。

天候の急変、地盤の揺れ、偶然の重なり。

だが同時に起きているとなれば、話は別だった。


アーロンは記録室の机に広げられた報告書を眺めていた。


「全部、ばらばらに見えるな」


向かいに立つアステリオスが答える。


「表面上はな」


「表面上?」


「共通しているのは、秩序の乱れだ」


アステリオスは報告書の上に指を置いた。


「風向、群れ、水流、地盤。どれも本来の流れから外れている」


「つまり、世界そのものが乱れてるってこと?」

「そう考えるのが自然だ」


アーロンは紙から顔を上げた。


「それって、かなりまずいんじゃない?」


「かなりまずい」


アステリオスは即答した。その正直さに、逆にぞっとする。


「でも、まだ終わりじゃない」


その声はミーティアだった。

彼女は窓辺に立ち、外の風に手をかざしている。


「完全には閉じてない」

「閉じる?」


アーロンが聞く。ミーティアは少し迷ってから言った。


「未来の分かれ道。まだ、少し残ってる」


アステリオスがその言葉を受ける。


「なら、対処の余地はある」


 アーロンは二人を見比べた。


どちらも怖がっている。

だが、怖がり方が違った。


ミーティアは未来そのものに触れて怯えている。

アステリオスはその未来に届くための道筋を、冷静に探している。


そして自分は、そのどちらにも完全には属していない。

ふと、そのことが少しだけ寂しくなった。

  

 その時だった。


窓の外を、一陣の強い風が突き抜けた。

ばさり、と机の書類が舞う。

ミーティアの髪が大きく揺れ、灯りが一瞬だけ消えかける。


 アーロンは反射的に立ち上がった。風の中に、見覚えのある青が混じっていたからだ。


「……花」


窓の外、石の手すりの上に、青い花が一輪咲いていた。

今朝まではなかったはずの場所に。


ミーティアが息をのむ。


「増えてる」


アステリオスはすぐに窓辺へ歩いた。だが触れる前に、ほんの少しだけ手を止める。


「アーロン」


「何?」

「君はこれを見ると、何を感じる」


問いは妙にまっすぐだった。


アーロンは花を見る。

深い青。

懐かしさ。

ざわめき。

そして、戻れない場所の気配。


「……寂しい」


自分でも意外な答えだった。

だが口にしてしまうと、それが一番近かった。


「誰かが、帰れなくなったみたいな感じがする」


ミーティアの表情が揺れる。アステリオスも何も言わない。


しばらく沈黙が続いた。

 

やがて、アステリオスが花に触れる。


その瞬間、観測室の奥で鐘のような音が鳴った。

観測装置が反応したのだ。研究員たちが一斉に振り向く。


「装置が!」

「また揺れています!」


アステリオスはすぐに花から手を離した。

その瞳が鋭くなる。


「記録しろ。花の出現位置と同時刻の観測値を照合」

「はい!」


アーロンは花を見たまま動けなかった。


林。

狼。

光る花。

崩れ始める世界。


ばらばらだった記憶が、少しずつ一本の線になりかけている。

だが、その先を思い出す前に、また遠のく。


「……くそ」


無意識に漏れた声に、ミーティアが振り向いた。


「大丈夫?」


「大丈夫じゃないかもしれない」


アーロンは額を押さえる。


「知ってる気がするんだ。これの先を。でも……手を伸ばすと、すぐ消える。夢みたいに」


ミーティアはすぐに近くへ来た。


「無理に思い出さなくていい」

「でも」

「いいの」


彼女の声は、未来を読む巫女のものではなく、ただの少女のものだった。


「思い出すことより、今ここにいることの方が大事な時もあるよ」


アーロンは彼女を見た。

その言葉に救われる自分が、少し悔しかった。


「……君って、たまにずるい」


ミーティアは少し笑う。


「よく言われる」


その会話を聞きながら、アステリオスは窓の外を見ていた。


王都の上空では、まだ鳥が乱れている。

遠くの森では獣が落ち着かない。

風は戻ったが、その流れ方は以前とは少し違っていた。

世界が、目に見えない場所で軋んでいる。


彼はようやく、それをはっきりと認めた。


「……始まったか」


 小さな呟きは、誰にも届かなかった。

やがて、夕暮れが王都を染める頃、異常はいったん表面上は静まった。


鳥の群れは散り、地の揺れも止まり、風車もまた回り始める。

街の人々は不安げに空を見上げながらも、日常へ戻っていった。


 だが、研究院だけは違った。


静まり返った観測室で、記録板の光だけが揺れている。

アステリオスはその前に、一人立っていた。


数値は乱れている。

規則がないようでいて、どこか同じ形を繰り返している。

まるで世界そのものが、何かを思い出しかけているようだった。


「アステリオス」


振り向くと、ミーティアが立っていた。


「アーロンは?」


「部屋で休んでる。少し疲れたみたい」


彼女は少し間を置いてから言う。


「……怖い?」


問いは、あまりに素直だった。アステリオスは少し考える。


「怖くないと言えば嘘になる」


ミーティアは彼の隣に立つ。


「珍しいね」

「そうか」


「うん。あなた、あんまりそういう顔しないから」


アステリオスは記録板を見る。


「恐れは判断を鈍らせる。でも、なくならない」


ミーティアはしばらく黙っていた。


やがて、ぽつりと言う。


「未来が、また少し減った」


その言葉に、アステリオスはゆっくり目を閉じた。


「どれくらいだ」


「まだ一本じゃない。でも……前よりずっと少ない」


彼は目を開く。


「なら、残っているうちに見つけるしかない」

「何を?」


ミーティアの問いに、アステリオスは静かに答えた。


「原因を」


その声には迷いがなかった。


だが、その迷いのなさこそが、ミーティアには少しだけ悲しく映った。

彼はいつもそうだ。

世界が壊れそうな時ほど、自分を後ろへ下げて、役目だけを前に出す。


「……ねえ」

「何だ」


「もし」


 ミーティアは言い淀む。


「もし、未来が本当に一本になったら」


 アステリオスはすぐには答えなかった。記録板の光が、彼の横顔を淡く照らしている。


「その時は」


 やがて、彼は言った。


「別の方法を探す」

「なかったら?」


「作る」


あまりにも彼らしい答えだった。 

ミーティアは、少しだけ笑ってしまう。


「そういうところ、好き」


その言葉に、アステリオスはほんの一瞬だけ黙った。

そして、わずかに視線を逸らす。


「今はそういう話ではない」

「知ってる」


ミーティアは小さく言う。


「でも、こういう時だから言いたかったの」


 風が戻ってきて、観測室の布を揺らした。


夜が近づいている。世界はまだ壊れていない。

だが、その境界線は、もう昨日までほど確かなものではなかった。


そしてこの日を境に、風の王国はゆっくりと、しかし確実に、崩壊の兆しの中へ入っていくことになる。


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