第25周 星を見る夜
夜の風は、昼よりもやわらかかった。
王都ルミナリアの灯りがゆっくりと落ち着き、人々の声が遠ざかっていく頃、研究院の塔の上は静かな場所になる。
昼間は研究者たちの行き交う回廊も、夜になればほとんど人影がない。
空はよく晴れていた。
高い塔の上から見上げる夜空には、無数の星が散っている。
遠くの山の稜線は黒く沈み、王都の白い建物だけが月光を淡く返していた。
アーロンは屋上の低い石壁に腰を下ろし、空を見上げていた。
「……すごいな」
思わず、そんな言葉が漏れる。
「でしょ」
少し離れた場所から、ミーティアの声が返った。
彼女は床に敷いた薄布の上に座っていた。膝を抱えるような姿勢で空を見上げている。
胸元のペンダントが、星明りを受けて小さく光っていた。
「ここ、夜の方が好き」
ミーティアが言う。
「昼の風もきれいだけど、夜の風は静かだから」
アーロンは笑った。
「またそれか」
「またそれ」
ミーティアも笑う。
「だって、本当に違うんだもん」
その時、屋上へ続く階段の方から足音がした。
現れたのはアステリオスだった。
彼は手に小さな燭台を持っていたが、屋上へ出るとすぐ脇へ置いた。
星明りの方が、この場所には似合う。
「遅かったね」
アーロンが言う。
「記録を見ていた」
アステリオスは答えた。
「やっぱり研究か」
「やはり、だ」
アーロンは苦笑する。
アステリオスは二人の近くまで来ると、そのまま空を見上げた。
しばらく、誰も喋らなかった。
風だけが静かに流れている。
その沈黙は気まずくない。
むしろ、言葉にしなくても同じものを見ている穏やかさだった。
やがて、ミーティアが空を指差す。
「あれ見て」
アーロンがそちらを見る。青みがかった星が、一際強く輝いていた。
「あれ何だ?」
「方位の星」
アステリオスが答える。
「旅人が道を知るために見る星だ」
「へえ」
「でも」
ミーティアが小さく言った。
「あの星、少し揺れてる」
アーロンは目を細める。
「分からない」
「目じゃなくて、風で見るの」
「それが分からないって言ってる」
ミーティアはくすっと笑った。
「アーロンは未来が見えないから」
「便利なようで不便だな」
「不便なようで便利だよ」
そのやり取りを聞きながら、アステリオスが静かに口を開く。
「見えないことは欠陥ではない」
アーロンが彼を見る。
「また研究者みたいなこと言うな」
「研究者だからな」
アステリオスは平然としていた。
「だが、本当にそうだ。観測しないものがあるからこそ、世界は固定され切らない」
「観測、か……」
アーロンは再び夜空へ視線を戻し、ぽつりと呟く。
「僕のいた世界でも、そういうことを必死に調べてるやつらがいたよ。マリユスと、クリスティーナっていうんだけどさ」
ミーティアが興味深そうに顔を向ける。アステリオスも黙って耳を傾けていた。
「二人とも頭が良くて、世界の構造とか法則とか、そういうものをいつも調査してた。アステリオスみたいに、難しい顔して計算ばっかりしてさ」
「私と似ているのか。なら、一度議論を交わしてみたいものだ」
その言葉に、アーロンは少し笑った。
「絶対話が合うと思うよ。でも……僕はどっちかっていうと、未来なんて考えない連中と一緒にいる方が長かったな」
「どんな人たちだったの?」
ミーティアが尋ねる。
「教会の神父様と、親友のカイだよ。明日のパンをどうやって手に入れるかしか考えてなくて、未来のことなんて誰にも分からなかった。でも、分からないからこそ……行き当たりばったりで笑っていられた気がする」
アーロンの眼差しは、遠い過去を懐かしむように和らいでいた。
「……見えないけど、見えない僕の方が世界に優しいってことかもね。分からない方が、未来を好きに作れるって思うんだ」
「少なくとも、世界にとっては都合のいい揺らぎだ」
「都合のいいって言われると、なんか嫌だな」
ミーティアが吹き出した。
「ひどい言い方」
「事実だ」
「でも――」
ミーティアは少しだけ真面目な顔になる。
「私は、見えることが怖い時もある」
風がわずかに強くなった。
アーロンは彼女の横顔を見る。
笑っている時のミーティアは軽やかだ。けれど未来の話になると、その奥に年齢に似合わない静けさが見えることがあった。
「今日は何が見える?」
アーロンが聞く。
ミーティアはすぐには答えなかった。
夜空を見上げたまま、風の流れを確かめるように目を細める。
「……少し少ない」
「何が?」
「未来」
その一言で、屋上の空気がわずかに変わった。
アーロンは眉を寄せる。
「減ってるのか?」
「うん」
ミーティアは頷く。
「前はもっと、枝みたいにたくさんあったの。でも今は、少しずつ同じ方向に流れてる」
アステリオスの表情が、ほんのわずかに硬くなる。
「どの程度だ」
「まだ一本じゃない。でも、昨日より少ない」
アーロンは空を見上げる。
星は変わらずきれいだった。目では何も分からない。
「それって、まずいの?」
問いに答えたのはアステリオスだった。
「まずい」
短い返答だった。アーロンが振り向く。
「即答だな」
「未来の分岐が減るということは、世界が状態を固定し始めているということだ。秩序が強くなり、変化を許さなくなる」
「可能性が減る」
ミーティアが小さく付け足す。
アーロンはしばらく黙り、ぽつりと言う。
「嫌だな」
「うん、私も嫌。ねえ、もし未来が一本になったら、どうする?」
その問いに、アーロンは即答した。
「壊す」
ミーティアが笑う。
「やっぱり」
「だって一本しかないなんて、つまらないよ。他に道がないなら作ればいい。カイなら絶対そう言うよ」
アステリオスが振り向く。
「どうやって」
「知らない。でも、減る前に増やすんだ」
ミーティアが顔を上げる。
「それ、好き」
アステリオスは少し目を伏せた。
「……私とは逆だな。私は、まず壊れない形を探す」
「僕は、壊れてもいいから動く形を探す」
アーロンが言う。
「だから鏡なんだよ」
ミーティアはくすっと笑った。
「逆なのに似てる」
風が三人の間を抜けていく。
誰も口にしなかったが、全員が少しずつ理解し始めていた。
この関係は、ただの友情や偶然では説明しきれない場所へ向かっている。
――その時だった。
ぴたり、と。
唐突に、屋上を撫でていた夜風が「止まった」。
一切の音が消えたような、耳鳴りがするほどの異常な無風。
ミーティアの表情が、硬直した。彼女の目は夜空ではなく、もっと遠くの、恐ろしいものを見据えていた。
「どうした」
アーロンが立ち上がる。
「……今」
ミーティアの声が震えていた。
「見えた。塔が……ううん、世界が、揺れた」
ドクン、とアーロンの足元で石の床が鳴った気がした。地震ではない。
空間そのものが軋み声を上げたような、悪寒を伴う揺れだった。
アステリオスの瞳が鋭く細められる。
「今すぐ起きるのか?」
アーロンが叫ぶ。
「分からない……でも、一本に……束ねられようとしてる……!」
ミーティアが両腕で自身を抱きしめ、息を荒げた。
アステリオスが空を睨みつける。
さっきまで美しく輝いていた青い「方位の星」が、まるで水面に落ちたインクのように、不自然に滲んで瞬いていた。
「……収束だ」
アステリオスの声から、いつもの冷静な研究者の響きが消えていた。
「世界が強制的に、一本の未来を選び始めている。だが、早すぎる……!」
アーロンはミーティアの肩を力強く掴んだ。
巫女である前に、彼女はただの震える少女だった。
「大丈夫だ、ミーティア。息をして」
「でも……道が、消えていく……」
「全部消えたら、僕が新しい道を作ってやるって言っただろ! 約束する!」
アーロンの力強い声に、ミーティアはハッと息を呑み、わずかに震えを抑えて彼を見つめ返した。
「……戻るぞ、二人とも」
アステリオスが燭台を掴み取り、緊迫した声で言った。
「今は観測している場合ではない。この異常な収束の震源を直ちに突き止める。事態は、我々の想定を超えた」
三人は駆け出すように塔の階段へ向かった。
振り返ったアーロンの目に映ったのは、さっきまでの優しい夜空ではない。
幾千の星々が、見えざる巨大な力に引っ張られるように、冷たく不気味な瞬きを放つ「異常な空」だった。
この時すでに、世界は音もなく終わりへと向かって進みだしていた。




