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第22周 市場の風

 風の王国の朝は、天の底から染み出すような静寂と共に訪れる。  


研究院の最上層、回廊の隙間から差し込む光が、磨かれた白石の床を淡く照らし出していた。

天井から吊るされた白い薄布が、目覚めたばかりの風を捉えては柔らかく揺れ、遠くの街路からは風車が規則正しいリズムで空を掻く音が、微かな羽音のように響いてくる。



 アーロンは回廊の手すりにもたれ、まだ眠気の残る眼差しで街を見下ろしていた。  

王都ルミナリアは今、朝の柔らかな風に包まれている。市場の天幕が色鮮やかに広げられ、職人や商人たちが一日の準備を始めていた。

水路に架かる橋を笑いながら駆けていく子供たち。屋根から屋根へと軽やかに渡っていく鳥たち。

それは、あまりにも穏やかで、満ち足りた光景だった。  


あまりにも普通の朝。

……それが、アーロンにはどこか、薄氷の上に築かれた蜃気楼のように思えてならなかった。

未来の記憶の断片――あの、空が燃え、石が砕け散っていた「終わり」の予感と、目の前の平和があまりにかけ離れていたからだ。


「また、自分でも気づかないうちに難しい顔をしてるわよ」


 背後から、弾むような声がした。ミーティアだ。  

彼女は小さな編み籠を腕に下げ、軽やかな足取りでアーロンの隣に並んだ。

籠の中には、朝露に濡れて青白く光る、卵ほどの大きさの果実がいくつか転がっている。


「朝ごはん?」

「ええ。採れたてよ、食べる?」


ミーティアが差し出した果実を、アーロンは一つ手に取った。透き通るような青い皮をしており、触れると微かに指先を冷やす。


「これ、なんて名前?」

「『風の実』。この国のどこにでも自生している、一番ポピュラーな果物よ」

「そのまんまじゃん……」

「名前なんて、だいたいそんなものよ。本質を指していればそれでいいの」


ミーティアが悪戯っぽく笑う。

アーロンが思い切って一口かじると、驚くほど爽やかな甘みと、鼻に抜けるような酸味が広がった。


「……いける! 意外と瑞々しいな」

「でしょ? 砂漠の向こうの国では、宝石より高く取引されることもあるのよ」


 二人がそんなやり取りをしていると、回廊の奥から規則正しい足音が近づいてきた。  

アステリオスだ。

いつもの気品ある白い衣に、数本の古い巻物を抱えている。

その表情は朝から既に、学究的な集中力によって研ぎ澄まされていた。


「朝からまた研究か。精が出るね」

「朝は風のノイズが少なく、思考の階層を整理するのに適しているからな」  


アステリオスは歩みを止めずに答える。


「人間の脳という器官は、睡眠による情報の再構築を経て――」

「はいはい、難しい話はそこまで!」  


ミーティアが、その言葉を遮るように手を振った。  

アステリオスは、開いた口をそのままに、数秒間沈黙した。


「……了解した。朝の休息を優先せよ、ということか」


王という地位にありながら、少女の言葉に素直に従うその姿に、アーロンは思わず吹き出した。


「意外だね。王様なのに、そんなにあっさり引き下がるの」

「巫女は未来の兆しを読み、最適解を提示する。それに対して感情的な反論を試みるのは、知性ある者の振る舞いとは言えん」  


アステリオスは淡々と言ったが、その視線はどこか柔らかかった。


「それに、彼女の言う『休息』が、後の演算効率を上げることも統計的に証明されている」

「はい、賢い賢い」  


ミーティアが満足げに頷き、三人の間に心地よい沈黙が流れた。  

風が回廊を吹き抜け、遠くの時計塔が朝の訪れを告げる鐘を鳴らす。

ミーティアがふと、手すりに身を乗り出して空を見上げた。


「……今日は、とても穏やかね」

「何が穏やかなの?」

「未来よ」


彼女の灰青色の瞳が、物理的な空の向こうにある「何か」を捉える。


「波がとても小さいの。今日は大きな争いも、不吉な事故も起こらない。風がとても綺麗に流れているわ」


アーロンは腕を組み、不思議そうに彼女を見た。


「便利だよね。何が起きるか分かっていれば、苦労しないでしょ」

「便利……なんて、思ったことないわ」


ミーティアの声から、ふっと温度が消えた。


「見たくない未来も、避けられない結末も、すべてが見えてしまう。それは、確定した絶望を何度も反芻するのと変わらないのよ」


その言葉に含まれた重みに、アーロンは息を詰めた。  

常に明るく振る舞う彼女が抱えている、巫女としての孤独。すべてを知っているということは、誰とも驚きや悲しみを共有できないということでもある。


「……じゃあ、見ないことはできないの? 視線を逸らすみたいに」


「できない。風が吹く限り、声は届いてしまうから」


ミーティアは、寂しげな笑みを浮かべてアーロンを振り返った。


「でもね、アーロン。あなたを見ている時だけは、少しだけ楽になれるの」

「僕を?」


「ええ。あなたの未来だけは、どうしても見えない。真っ白で、不確定で……あなたが次に何を言い、どこへ歩き出すのか、私には分からない。それが、私にとってはどれほど救いになるか」


アーロンは鼻の頭をかきながら、照れ隠しに肩をすくめた。


「それ、褒め言葉として受け取っていいの」

「最大級の賛辞だ」  


アステリオスが、低い声で言葉を添えた。


「実際、君の状態は特異だ。観測によって未来を固定しない。それは、世界というシステムにおいて、唯一無二の『自由』を保持しているということだ」


「また難しい話?」

「簡単に言おう。……君は、未来を一つに決めない」  


アステリオスは、抱えていた巻物の一端を指した。


「通常の人間は、観測されることで運命が一本の線に収束していく。だが君という存在は、そこに立つだけで未来の選択肢を無限に増殖させる。君がここにいることで、ミーティアの視界から『確定した結末』という呪縛が解けるのだ」


ミーティアが、眩しいものを見るような目でアーロンを見つめる。


「だから、あなたの隣にいると、未来が一つじゃないって思えるの。それは、ちょっとだけ寂しくない世界よ」


未来が一つしかない世界は、寂しい。  

そのミーティアの呟きを聞いた瞬間、アステリオスの表情が、ほんのわずかに、しかし決定的に揺れた。

それは、彼が築き上げようとしている「完璧な秩序」という理想が、一人の少女の孤独という犠牲の上に成り立っていることを、改めて突きつけられたような顔だった。


風が強く吹いた。  

白い布が大きくはためき、光が回廊を走り抜ける。


「……世界は安定を求める。だが、自由という名の『揺らぎ』がなければ、それはただの静止した死と同じか」  


アステリオスは自嘲気味に呟き、空を仰いだ。


「難しいものだな。統治と、希望の共存は」

「難しいね。だから、君は研究してるんだよね?」


アーロンの言葉に、アステリオスはしばし沈黙した後、小さく、しかしはっきりと笑った。

「その通りだ。否定のしようがない」


ミーティアが突然、ポンと手を叩いて立ち上がった。


「よし、決めた! 街に行きましょう!」

「えっ? 今から?」


「だって、今日は平和な未来なんでしょ? 王様が研究院に引きこもって、難しい数式と睨めっこしているなんてもったいないわ」


ミーティアはアステリオスの腕を強引に引き、アーロンの手を掴んだ。


「ねえ、アステリオス。研究は後回し。今日は、この『未来を増やしてくれる人』と一緒に、今の風を感じに行くべきよ」


アステリオスは困ったように眉を寄せ、抱えた巻物を見つめた。  

それから、ふっと諦めたように肩の力を抜く。


「……致し方ない。計算外の休日というのも、時には必要な変数かもしれんな」


ミーティアが歓喜の声を上げ、アーロンは驚きに目を丸くした。あの厳格なアステリオスが、職務を放棄して街へ出るなど、研究院の人間が見れば腰を抜かすに違いない。


「行こう、アーロン! 私の好きな、とっておきのパン屋さんも教えちゃうんだから」

「うん、分かったよ。だから引っ張らないで!」


 三人は並んで回廊を歩き出した。  

白い石段を降り、風の王国の中心部へ。  

喧騒の待つ市場へ。  

不確定で、しかし確かに息づいている、普通の一日の中へ。


アーロンはふと振り返った。  

誰もいなくなった回廊の手すりの下、石の隙間から咲いた一輪の青い花が、朝の風に吹かれて誇らしげに揺れていた。  


それは、どんな精緻な予知にも記されていない、今日という日の始まりを祝しているようだった。



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