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第21周 構造の名

 アネモス研究院の地下には、光さえ届かぬ古い記録庫が存在していた。  


螺旋状の石階段を降りるたびに、地上を流れる風の温かさは遠のき、代わりに沈殿した記憶のような冷気が肌を刺す。壁に埋め込まれた青い灯石だけが、暗い通路を淡い燐光で照らし出していた。


 アーロンは周囲の不気味な静寂に身を縮めながら、周囲を見回した。


「……研究院って、地下まであるんだ」


「知識とは積み重なるものだ、アーロン。新しい真理を上に積み上げるなら、古い事実はその重みで下へ沈んでいく」  


前を歩くアステリオスの声は、地下の空気に溶け込んでいつもより低く響いた。


「古いものほど深くなる、か。なんだか墓場みたいだ」

「あながち間違いじゃないわ」  


ミーティアが横から、どこか楽しげに言った。


「ここは、この王国がまだ国になる前からの……風が言葉を持っていた時代の記録さえ眠っている場所。王族と研究院の秘匿事項はすべて、この底に沈められているのよ」


 階段が終わり、目の前に巨大な石の広間が現れた。  

壁一面を覆い尽くす巨大な書架。

そこには、煤けた巻物やひび割れた石板、そして見たこともない奇妙な形状の記録媒体がぎっしりと収められていた。


「図書館、というにはあまりに重苦しいな」


「『記録庫』だ。ここにあるのは、物語ではなく『観測結果』だからな」  


アステリオスは迷いのない足取りで書架の間を進み、一つの棚の前で足を止めた。その棚には、王家の紋章が刻まれた革張りの書物が並んでいる。


「何を探してるの? アステリオス」


「……『観測不能存在』の記述。そして、この少年の正体に関わる唯一の手掛かりだ」


アステリオスは棚から一冊の肖像録を取り出し、無造作に開いた。


「実は、最初に君を見た時から考えていた。君のその容姿、そして風との共鳴速度……あまりに似すぎている」


「何が?」

「我が王家の血統に、だ」


アーロンは思わず噴き出した。


「冗談でしょ。僕みたいな身元不明の人間が王族だなんて」

「いいえ、私も実はちょっと思ってたのよ」  


ミーティアが真顔で、アーロンの顔をまじまじと見つめる。


「金髪に、その瞳の色。この国では、王族以外にその特徴を持つ者は極めて稀なの」


アステリオスが開いた古い絵には、歴代の王たちの姿が描かれていた。  

金色の髪。

深い緑の瞳。

そして、どこか遠い場所を見据えるような、静謐な佇まい。  


 アーロンは言葉を失った。

鏡を見ているような、とは言わない。だが、自分の身体に流れる何かが、その肖像たちに呼応して熱を帯びるのを感じていた。


「王族の血には、風への異常なまでの共鳴性が宿る。それは世界の変化に、誰よりも敏感であるということだ。だが……」  


アステリオスは別の棚から、さらに古く、黒ずんだ巻物を引き出した。


「記録には時折、因果の網から抜け落ちた『空白の存在』が記されることがある。何世代かに一度、王族と同じ資質を持ちながら、いかなる系譜にも属さず、いかなる予知にも映らぬ異邦人が現れるという伝承だ。私たちはそれを『観測不能存在』と呼んでいる」


 その時だった。  


密閉された地下記録庫のはずなのに、突如として冷たい風が吹き抜けた。  

棚から一本の巻物が、何かに弾かれたようにアーロンの足元へ落ちた。


「……風?」  


ミーティアが目を見開く。

アステリオスが、恭しくその巻物を拾い上げた。

表紙には、円と風の線が複雑に絡み合う古い紋章。

今の王国のものよりも、さらに抽象的で鋭利な紋様だ。


「これは……建国以前の、最初の王家の記録だな」


彼がゆっくりと紐を解き、中身を広げる。  

そこには、具体的な歴史や事件は一切記されていなかった。代わりに、奇妙な記号列と、魔法幾何学に基づいた構造図が描かれている。


「……これは、名前ではない。この世界の構造そのものを指し示す、術式の配列だ」  


アステリオスの瞳に、かつてない強烈な光が宿った。彼は、その記号を古代魔法語の音節へと変換し、一つずつ、言葉を紡いでいく。


Aアー……始まりの音。無から生じる最初の一点」

R……流転。留まることのない風の流れ」

O……円環。閉じられた時間の象徴」

N……無限。円を食い破り、外へと突き抜ける意志」



 静寂が、地下室を支配した。  



アーロンの胸の奥で、何かが激しく軋んだ。

その音節の一つ一つが、自分の魂を構成する部品であるかのように、体内で共鳴を繰り返す。


A-R-O-N(アロン)。始まりより出でて、流転を繰り返し、円環を経て、無限へと至るもの」  


アステリオスは説明をしているのではない。

まるで、あらかじめ定められていた世界の「欠けたピース」を読み上げているかのような響きだった。


「……円環の外。この人は、最初からどこにも閉じ込められていない……」  


ミーティアが震える声で呟く。


「これまでの王家が『円を閉じる』ために風を読んできたなら、この名前は……」


アステリオスがゆっくりと、重い視線をアーロンに向けた。


「君の名は、誰が付けたものだ」


「……分からない。物心ついた時から、僕はアーロンだった。でも、今の響きを聞いて……」


アーロンは急に足元の床が崩れ落ちたかのような感覚に陥り、青ざめた顔で自身の両手を見つめた。


「元の世界での記憶も、ほとんどないんだ。家族のことも、どうしてあの世界にいたのかも……。ただ『アーロン』という名前と、いくつかの断片的な記憶だけ。僕は、一体何者なんだ?」


底知れぬ不安に震えるアーロンの肩に、ミーティアの温かい手がそっと触れる。彼女は飾らない、まっすぐな瞳でアーロンを見上げる。


「あなたが何者であっても、昨日、私と一緒に風の歌を聞いて笑っていた『アーロン』であることに変わりはないわ。記憶がないなら、これから新しい記憶をこの世界で作ればいいじゃない」


「ミーティア……」


「彼女の言う通りだ」


アステリオスが静かに、しかし力強い声で言葉を継いだ。


「君が何者であろうと、今ここで起きている事象に対処することが先決だ。この世界における君の存在意義を解明すると同時に、君を元の位相――君のいた世界へ帰還させる方法も、研究院の総力を挙げて調査させよう」


「元の世界に……帰れるの?」


「この記録庫の奥底に、異邦人を元の世界へ送り返すための『逆演算』の術式が眠っている可能性がある。君が望むのであれば、私はその扉を開く労を惜しまない」


その言葉に、アーロンの胸の中にあった冷たい不安が、少しだけ和らいだ。アーロンがふっと息を吐き出した瞬間――。


灯石の光が激しく明滅し、地下の風が逆流するように渦を巻いた。


「……確信した。君は偶然ここに現れた異邦人ではない。君自身の存在が、このルミナリアという円環を完成させ、同時に破壊するための『鍵』なのだ」


アステリオスは巻物を静かに閉じた。

その声には、単なる王としての好奇心を超えた、運命に対する畏怖のような重みがあった。


「もし、その巻物に書かれていることが本当なら……これから、どうなるんだろう?」  


アーロンの問いに、ミーティアが少し悲しげに、それでいて希望に満ちた顔で答えた。


「未来が増えすぎるわ。アステリオスが描いてきた一本の完璧な設計図が、あなたの存在一つで、数千万の『もしも』に枝分かれしてしまう。それは、私たちの制御を離れるということよ」


アーロンは、呆れたように苦笑した。


「……相変わらず、分かりにくい」

「だって、本当にそうなんだもん。あなたのせいで、風がすごく忙しくなっちゃったんだから!」


アステリオスは巻物を棚の奥へと戻した。


「いずれ分かることだ。世界は長く秘密を隠し続けることはできない。……特に、その当事者が目の前に立っている以上はな」


 地下の冷たい風が、静かにアーロンの横を通り過ぎていった。



 記録庫に眠る無数の過去。

その中の一片に、自分の名の構造が刻まれていたという事実。


アーロンは自分の掌を見つめた。  

この場所で、自分が何者であるかが解き明かされ始めている。だがそれは同時に、ルミナリアという美しい平穏が、自分という「バグ」によって、取り返しのつかない変容を遂げていく序曲でもあった。


 アステリオスが先導して階段を上り始める。  


その後を追うアーロンの足元には、暗闇を拒むように、一輪の青い花がひっそりと、しかし力強く根を張っていた。


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