第16周 風を読む巫女
アネモス研究院の上層には、通称「風の部屋」と呼ばれる空間があった。
塔の最上階に近いその場所は、壁の半分が大胆に切り抜かれ、外界と地続きになっている。
太い白石の柱だけで支えられた円形の空間には、天井から幾枚もの白い薄布が吊り下げられていた。
布は絶え間なく流れ込む風を捉えては波打ち、差し込む光を細かく砕いて、床に柔らかな影を落としている。
中央には、古びた、しかし重厚な石の台。
その周囲には、深い夜の空を切り取ったような青い輝石が、完璧な円を描いて埋め込まれていた。
「……ここは?」
「巫女の観測室。この国で一番、風の『声』が純粋に届く場所よ」
ミーティアが、踊るような足取りで石の円の中央に立った。
アーロンはその神秘的な光景に圧倒されながらも、ふとした疑問を口にする。
「ねえ、ミーティア。さっきから『風を読む』とか『未来が見える』とか言ってるけど……それって、魔法のことなのか? 君やアステリオスは、魔法使いなの?」
ミーティアは円の中央で立ち止まり、不思議そうに首を傾げた。
「マホウ? ……ああ、古い記述にあるわね。自分の意志で自然の理をねじ曲げ、火を出したり、形のないものを形にしたりする技術のことでしょう?」
彼女は小さく笑って、否定するように首を振った。
「この国に、そんな傲慢な力はないわ。私たちがしているのは、魔法じゃない。ただの『対話』と『演算』よ」
「対話と演算?」
「そう。風が運んでくる情報を聞き取り、アステリオスたちがそれを数式に直して、世界の形を理解する。……魔法が『支配』だとしたら、私たちの力は『順応』に近いかもしれないわね」
「演算、か……。そういえば、僕の居た世界にも『魔法』はあったよ」
アーロンの言葉に、ミーティアは目を丸くした。
「知り合いにすごく頭がいい人……マリユスっていう人がいてね。彼が前に、『魔法っていうのは、演算によって世界の法則を上書きする技術だ』って言ってたのを思い出したんだ」
「演算で、世界を上書き……?」
ミーティアは顎に手を当て、強い興味を示した。
「それって、アステリオスたちがここでやっていることと、全く同じメカニズムなのかしら?」
「うーん、どうだろう。僕はそういう難しいことはさっぱりだから、正直よく分からないや」
アーロンが頭を掻きながら苦笑すると、ミーティアもまた、困ったように微笑んだ。
「ふふ、奇遇ね。私も風の言葉は分かっても、数式のことはちんぷんかんぷんよ。だから、二つの世界の技術が同じなのかどうか、私たちじゃ分からないわね」
そう言うと、ミーティアはふと気になったように小首を傾げた。
「ねえ。じゃあ、あなたの居た世界にも、私みたいに風の声を聞く『巫女』のような能力を持った人はいたの?」
「巫女か……。祈りを捧げる神殿みたいな場所はあったけど、ミーティアみたいに、本当に自然と対話しているような人は見たことないかも。……マリユスなら、そのあたりの事情も知ってたかもしれないけど」
「そう。……そのマリユスって人、ちょっと会ってみたいわね。案外、アステリオスとすごく話が合うんじゃないかしら」
「ああ、確かに。二人でずっと難しい話をしてそうだ」
二人は顔を見合わせて、小さく笑い合った。
「さてと。それじゃあ、ちょっと見てみましょうか」
ミーティアはそう言うと、静かに目を閉じた。
その瞬間、部屋の空気が一変した。
吹き込む風が規則性を持ち、円を描くように彼女の周囲を巡り始める。吊るされた布が一定のリズムで打ち鳴らされ、床に埋め込まれた青い石が、呼応するように淡い燐光を放ち始めた。
さっきまで年相応の少女に見えていたミーティアが、今は世界の機構そのものと繋がった、巨大な観測装置の一部であるかのように見える。アーロンは、その神聖な静寂に気圧され、思わず息を呑んだ。
しばらくの沈黙。やがて、風の渦がゆっくりと収まり、ミーティアが目を開いた。 彼女は少しだけ困ったように眉を下げ、アーロンを見つめた。
「……やっぱり、ダメね」
「何がダメだったの?僕の未来、見えた?」
「ううん。見えない。真っ白なの」
アーロンは拍子抜けしたように肩をすくめた。
「……未来なんて見えない方が、毎日ドキドキしていいかも」
「そういう意味じゃないのよ、アーロン」
ミーティアは真剣な顔で、指を一本立てた。
「普通はね、どんな人でも風の先に『影』を持ってるの。例えば、このまま歩けばここで躓くとか、明日にはこんな感情になるとか……。未来はまだ起きていないけれど、現在の延長線上に『波形』として確かに存在するの。でも、あなたにはそれがない」
「波形……。さっぱり分からないなぁ」
「難しいわよね。私も、感覚でしか捉えられないから。でも、アステリオスならこう言うわ。『君は、この世界の因果律という譜面に書かれていない音符だ』って」
「どうだった、観測の結果は」
背後から、低く落ち着いた声がした。
いつの間にか、アステリオスが入り口に立っていた。彼は音もなく近づき、ミーティアの表情からすべてを察したように頷く。
「完全に観測不能か」
「うん。可能性の糸さえ、一本も繋がっていないわ」
アステリオスの瞳が、研究者特有の鋭さを帯びてアーロンを射抜く。
「なるほど。君は未来の波形に含まれていないだけでなく、この世界の『決定論』そのものを無効化しているらしい」
「王様なのに、そんな『分からない』なんて言葉を連発していいの?」
「王であっても、世界のすべてを既知の檻に閉じ込めることはできない。むしろ、未知を見つけることこそが知性の悦びだ」
アステリオスは淡々と言い切った。その隣でミーティアがくすくすと笑う。
「この人、分からないことが増えるほど、内心では踊りだしたいほど喜んでるのよ。変な王様でしょう?」
「誤解を招く表現はやめろ。私はただ、計算が狂う瞬間にこそ真理が宿ると信じているだけだ」
二人のやり取りを見て、アーロンはふっと息を抜いた。
「……君ら、本当に仲がいいね」
「そうね。この人がまだ、王冠の重さに怯えていた頃からの付き合いだもの」
「……余計なことは言わなくていい」
アステリオスは視線を逸らしたが、否定はしなかった。
ミーティアは石の円から歩み出て、アーロンのすぐ隣に立った。
彼女の瞳は、今はいたずらっぽい少女のそれに戻っている。
「でもね、アーロン。あなたの未来は見えないけれど、一つだけはっきり確信したことがあるわ」
「何が?」
「あなたがこの国に来てから、世界の『未来』が少しだけ増えたの」
ミーティアは、指先で空中に一本の直線を描いた。
「今までの未来は、こう……避けられない一本の溝みたいだった。でも、今はそこから無数の枝が分かれ始めている。あなたが歩くたびに、新しい『もしも』が生まれているのよ」
「それって、いいことなの? 世界が壊れる予兆とかじゃなくて?」
「分からない。でも、少なくとも私は……今の風の方が、ずっと好きよ」
彼女の飾らない言葉が、アーロンの胸に温かく落ちた。
自分がこの世界にとっての「毒」や「エラー」ではないかもしれない、という小さな希望。
「研究院の古文書を洗う必要があるな」
アステリオスが、思案に耽りながら呟いた。
「『観測不能存在』――記録に残らぬ異邦人の記述。もし過去に同様の例があれば、君を元の位相へ戻す手掛かりになるかもしれない」
「バグ扱いされて、挙げ句に追い出されるの?もうちょっと労ってくれないかな」
「バグ、いいじゃない! 世界はたまに、バグが起きるから面白いのよ」
ミーティアが明るく笑い飛ばしたその時、強く鮮やかな風が部屋を吹き抜けた。
白い布が大きくはためき、石の円の傍らには、いつの間にか一輪の青い花が誇らしげに咲き誇っていた。
アステリオスはその花を、祈るような沈黙で見つめた後、静かに口を開いた。
「もし君という存在が、この完璧に計算された世界にとっての『誤差』なのだとしたら。……世界は今、初めて『自由』という名の不確定要素を手に入れたことになる」
その言葉の真意を、その場にいた誰も、まだ正確には理解していなかった。
だが、風の王国の運命が、少年の足音と共に未知の分岐へと舵を切ったことだけは、確かだった。
アステリオスは背を向け、回廊へと歩き出す。
「行くぞ。時間は止まってはくれない。……少なくとも、今のところはな」
アーロンはミーティアと顔を見合わせ、苦笑いしながらその後を追った。
足元で揺れる青い花が、まるで新しい物語の始まりを祝福するように、密やかに光っていた。




