第23周 泡沫の幸福
研究院を出て、三人は王都の中央市場へと向かった。
昼前の市場は、朝の準備時間よりもずっと賑やかだった。
白い布を張った露店が迷路のように並び、風に揺れる乾燥香草の束や、籠いっぱいの瑞々しい果実、焼きたての薄パンの香ばしい匂いが空間を満たしている。
値段を言い合う威勢のいい声、子供たちの笑い声、器が触れ合う軽やかな音。
それらすべてが、ルミナリアの透明な風に溶け合って流れていく。
「……すごいな。市場っていうより、毎日がお祭りみたいだ」
「ふふ、だいたいいつもこんな感じだよ。風のいい日は、みんな外に出たくなるから」
ミーティアは慣れた足取りで人混みの間を縫っていく。
時折、店主から声をかけられては親しげに手を振り返し、子供に裾を引かれれば同じ目線までしゃがみ込む。
巫女という神秘的な立場でありながら、彼女はこの街の誰にとっても「隣にいる大切な少女」なのだと、アーロンにはよく分かった。
「人気者なんだね、ミーティアは」
「そりゃそうだよ。優しくて、未来も読めて、おまけに顔もいいんだから!」
「最後の、自分で言っちゃうのか……」
「事実だもの、否定する方が不誠実だわ」
あまりに迷いのない返答に、アーロンは思わず吹き出した。
その時、焼き台から香ばしい匂いが流れてきた。薄い生地に、刻んだ香草と白い豆の餡を挟んで焼いたものだ。ミーティアが足を止める。
「これ食べたい。アステリオス、いいでしょ?」
「……さっき果実を食べていたはずだが」
「それはそれ、これはこれ。お腹の『相』が違うの」
「了解した。反論の余地はないな」
アステリオスが静かに頷くと、露店の老人が三人に気づき、顔をほころばせた。
「おや、巫女様に王子様。今日は珍しい取り合わせですね。そちらの方は……」
「客人だ」
老人はアーロンの金の髪と緑の瞳を見て、一瞬だけ驚きに目を見開いたが、すぐに柔らかな笑みに戻った。
「では、三つ。とびきり美味いのを焼きましょう」
老人が手際よく生地を返すのを待つ間、アーロンは隣の店に吊るされた飾り物に目をやった。
風を受けるたび、青い石の粒が触れ合って澄んだ音を鳴らす。
その涼やかな音に誘われるように、ミーティアがアーロンの横へ歩み寄った。
彼女の胸元では、細い銀の鎖に繋がれた小さなペンダントが、市場の飾りよりもずっと深く、静かな青い光を湛えて揺れている。
「ミーティア、そのペンダント……どうしたの?」
問いかけられたミーティアは、少しだけ意外そうに目を丸くした後、愛おしげにその石を指先で持ち上げた。
「これはね……昨日、アステリオスから貰ったの。彼が『完成させた』って言って」
「アステリオスが?」
アーロンは思わず、少し後ろに立つ青年を振り返った。アステリオスは不敵な、それでいてどこか遠い未来を見通すような、微かな笑みを浮かべてこちらを見ている。
脳裏に、初めてアステリオスに出会った時の記憶が蘇る。
あの時、自分が持っていたはずの、そしてアステリオスが触れた瞬間に「無」へと還って消えた、あの青い結晶。
「……これ、僕が持ってた……」
アーロンが呟きかけた言葉を、アステリオスの沈黙が優しく、しかし強引に押し留めた。
(そうか……。これは、まだ僕が持っているはずのものじゃない。あの日、彼が受け取った因果を、今ここで彼女に繋いだんだ)
アーロンは、すべてを察した。
この青い石は、時代を跨ぎ、持ち主を変えながら、このルミナリアを守り続けているのだと。
「……ミーティア、似合っているよ。その石」
「本当? ありがとう。これを持ってるとね、どんなに風が騒がしい時でも、大事なことを忘れないでいられる気がするの」
ミーティアは嬉しそうに微笑み、石を胸元に収めた。
「綺麗だよ、ミーティア。君にぴったりだ」
アーロンが真っ直ぐにそう言うと、不意に横から、一切の冗談を排した真顔の声が割って入った。
「当たり前だ」
アーロンとミーティアが同時に振り返る。
アステリオスは腕を組み、至極当然の真理を述べた、という表情で立っていた。
「私の計算と、ミーティアの魂の波形を完全に同調させて調整したペンダントだ。似合わないはずがない。それどころか、彼女の一部として存在するように構築してある」
「……いや、アステリオス。そういう理屈じゃなくてさ」
「何か問題があるか」
「……ふふ、あははは!」
先に吹き出したのはミーティアだった。彼女は笑いすぎてお腹を抱え、顔を赤くしている。アーロンも我慢できずに笑い転げた。
「やめてよ、そういうことを真顔で言うの! こっちが恥ずかしくなるじゃない」
「事実を述べることに、なぜ羞恥が介在するのか理解に苦しむな」
「分からない。アステリオス、そこは分かって!」
三人はしばらく笑い合い、老人が差し出した焼きたての包みを受け取った。
外側はパリッと香ばしく、中の白豆餡は驚くほど優しく甘い。
後から香る刻み香草の風味が、鼻を抜けていく。
「これ美味しいね!他にアステリオスは何が好きなんだい?」
「……食べ物のことか?味が明確なもの。甘すぎない方がいい」
「この人、焼いた豆と塩スープ、それに苦い香草茶が好きなのよ。質素でしょ?」
「必要十分な栄養素を摂取できればそれでいい」
「でも、蜂蜜菓子は隠れて食べるんだ?」
「……嫌いではない、と言ったはずだ」
その何気ない会話の応酬を聞きながら、アーロンはふいに、胸が締め付けられるような強烈な既視感に襲われた。
かつて、これと同じような、穏やかで幸福な時間が、どこかにあった気がする。
あるいは、これから来るはずだった未来に、あったのかもしれない。
「……どうしたの、アーロン?」
「いや、何でもない。……ただ、こういう時間、好きだなと思って」
ミーティアは、焼きたての包みをもうひと口かじり、満足そうに目を細めた。
「私も。……ねえ、ずっとこうしていられたらいいのにね」
市場のざわめき。風に揺れる白い布。笑い合う人々。
アステリオスは何も言わず、二人の少し前を歩きながら、相変わらず風の流れを読んでいた。
けれど、その背中は、昨日までよりもずっと柔らかく、親しみやすいものに見えた。
この時、彼らはまだ知らなかった。
この市場の喧騒と、手に持った温かい食べ物、そして交わした軽やかな冗談。
そのすべてが、彼らにとって人生で最も静かで、最も守るべき「幸福」な時間だったということを。
そして、この青いペンダントが、いつか悲しい再会の標石になることも。
風が吹き抜ける。
青い石がミーティアの胸元で一度だけ強く光り、未来へと続く風を静かに観測していた。




