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【完結】この世界は64回で終わる  作者: あめのみなづき
第一部 観測されない少年
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第12周 回帰

世界は、崩壊しなかった。

ただ――参照されなくなった。


境界が閉じた瞬間、あらゆる音が消滅した。

いや、正確には、空気を震わせる物理現象としての振動は、まだそこにあったのかもしれない。


だが、それを音として受け取り、脳へ、あるいは魂へと変換する機能が、この世界から一斉に剥奪されていた。


色も、同じだった。

西の空に沈みゆく夕焼けの橙は、網膜には届いている。

だが、それを美しいと感じる心も、橙色と定義する意味も、どこにも残っていない。


言葉。

重さ。

温度。

そして、誰かを想う痛み。

すべてがそこにあるのに、もう誰の手にも届かない。


世界は、巨大な沈黙の標本へと成り果てていた。


「……始まったか」


マリユスが呟く。


その声は、もはや鼓膜を震わせることはない。

ただ、彼自身というシステムだけが、出力された文字列を認識していた。


「参照切断後、位相は孤立状態へ移行。この空間のすべての定数は、定義を失い、浮遊する」


クリスティーナの姿が、陽炎のように微かに揺らぐ。


輪郭が消えるのではない。

彼女という存在の意味が、背景の瓦礫と同じ彩度まで薄れていくのだ。


「……ログ、圧縮完了」


彼女の声もまた、言葉としてではなく、冷徹な処理結果の通知としてそこに存在していた。

その両手の間に浮かんでいた膨大な光の奔流が、一気に一点へと凝縮される。


それは、ルミナリア村の数百年以上の記録(データ)だった。


人々の笑い声。

怒号。

祈り。

絶望。

泣き止まなかった子どもの声。

そして、今この瞬間の別れまで。

すべてを飲み込んだ、高密度の記憶の核。


光は小さな滴となって、アーロンの胸元にあるペンダントへと、静かに吸い込まれていった。


「……これで、この世界は記録された」


マリユスが、透け始めた指先で懐中時計の模様をなぞる。


「消えはしない。ただ、誰からも参照されなくなるだけだ。観測者のいない物語は、存在しないのと同義。だが、記述だけはそこに残り続ける」


カイが、場違いなほど軽やかに笑った。


「……ハ。相変わらずややこしい言い方すんなよ、構造くん」


その声は、すでに半分ほどしかこの世界に存在していない。


斧を握る腕は、背景の空に溶け込み、向こう側の景色が透けて見えている。

だが、それでも彼は、大地を踏みしめて立っていた。


「要するに……俺たちは、ここでお留守番ってことだろ?」


マリユスは、その問いを否定しなかった。


「そうだ」


即答だった。


「この位相は閉じる。外部からの観測、すなわち恩寵のリンクが断たれた時点で、ここは世界として成立しない。私たちは、閉じられた箱の中の残像にすぎない」


カイは鼻で笑い、透けゆく手で己の首を鳴らした。


「上等じゃねえか。もともと、おまえが話しかけてた恩寵だのシステムだのに飼われてるような、まともな世界じゃなかったんだろ」


足元が光の塵となって消えていく。

だが、彼は最後まで、消えゆく地面を力強く踏みしめ続けた。


アーロンは、ただ立ち尽くしていた。

手の中で、ペンダントが生き物の鼓動のように微かに脈打っている。

その重みは、託されたすべての重みだった。


「……みんなは」


声が、喉の奥で震える。


「みんなここに、残るのか。僕を一人にして、ここで消えちゃうのか」


マリユスは、初めてアーロンの瞳を真正面から見つめた。

その瞳には、最初に出会った頃の冷徹な計算機のような光はない。

静かな、凪のような決意だけがあった。


「残るのではない。ここが、残る側になる」


アーロンの理解が追いつくよりも早く、マリユスは言葉を重ねる。


「君は外へ出る。この閉じられた円環の外側だ」


「外……?」


「次の位相――いや、正しい意味での現実だ」


マリユスが一歩、近づく。

その右足は、もう膝から下が虚無に消えていた。


「アーロン」


その名を呼ぶ声は、驚くほど穏やかだった。


「君は異物だ。この摩耗しきった円環において、唯一計算を狂わせ、論理を超えて動いた誤差。

……だからこそ、君だけがこの閉鎖系を突破し、外へ出られる」


アーロンの瞳が大きく揺れ、涙が頬を伝う。


「……じゃあ、僕だけ助かるってこと? みんなをここに捨てて、僕だけが……!」


その悲痛な叫びに、ほんの一瞬だけ、マリユスの目が細くなった。

それは、師が教え子の成長を喜ぶような、あるいは友の無事を祈るような、極めて人間的な表情だった。


「違う。君は、持っていく側だ」


マリユスが、アーロンの手を取った。


その瞬間。

消えかけているはずの手から、確かな熱と、痛いほどの感触が伝わってきた。


「この世界の記録を。人々の選択を。惨めな失敗を。……そして、私たちがここで生きたという証を」


マリユスは、静かに言った。


「すべて、次へ持っていけ」


クリスティーナが、消えゆく輪郭の中で微かに笑った。


「……実務の引き継ぎよ、アーロン」


その声は薄れていた。

けれど、彼女らしい厳しさだけは、最後まで失われていなかった。


「向こうでミスしたら、地の果てまで追いかけていって許さないから」


「……うん」


アーロンは、涙をこらえながら頷く。


「ちゃんと、持っていく」


カイが、最後にアーロンの背中を、いつものように乱暴に叩いた。

その手はもう、半分以上透けていた。

それでも、痛かった。ちゃんと、痛かった。


「行け、相棒」


カイは笑った。


「次の俺に会ったら、よろしく言っといてくれ。次はもっと上手くやれってな」


「カイ……」


「泣くなよ。……いや、泣いてもいいけど、前は見ろ」


 カイは、親指でアーロンの胸元を指した。


「そこに全部入ってんだろ。だったら、空っぽじゃねえ」


アーロンは、ペンダントを握りしめた。

冷たいはずの金属が、掌の中で熱を持っている。


「……うん」


その瞬間。

世界から、あらゆる重さが消え去った。


地面がない。

空がない。

自分と彼らを隔てる距離すらも、意味を失う。


ただ――観測という名の意志だけが、そこに残った。


マリユスの式が、最後に展開する。


それは、歪んだ壊れかけの円環ではない。

今度こそ、淀みのない、数学的な美しさを湛えた正しい円環。


「回帰処理、開始」


「座標再定義。観測点、再配置」


アーロンの身体が、濁りのない純白の光に包まれる。

今度は、崩壊に引きずり込まれる恐怖ではなかった。


自らの足で、未知へと踏み出す選択の感覚だった。


最後に見えたのは、光の中に消えゆく三人の姿。


カイは笑っていた。

クリスティーナは最後まで、何かを書き留めようとしていた。


そして――


マリユスが、生涯で一度だけ見せた、穏やかな微笑みだった。


世界が、閉じる。


すべてが均一な、意味を持たない白。

時間の概念さえ消失したような、永遠に続く静寂。


そして――。


唐突に、風が吹いた。

それは、管理された空調のような風ではない。

草の匂いを運び、泥を巻き上げ、生命の咆哮を孕んだ、荒々しく自由な風。


アーロンは、硬い地面の感触と共に、そこに倒れていた。

肺に、冷たく重い空気が流れ込む。


熱い。


痛い。


苦しい。


「……っ……はぁ、はぁっ……」


喉が焼けるような呼吸。それこそが、生の実感だった。

震える手で地面を掴む。

湿った土の感触。


「……生きてる……?」


ゆっくりと、まぶたを持ち上げる。

そこにあったのは、ルミナリア村のあの淀んだ夕焼けではなかった。


透き通るような青。

どこまでも高く、底知れない奥行きを持った、見たこともない空。


そして。

視界の先、天を貫くようにそびえ立つ、巨大で神々しい白い塔。


手の中には、ペンダントがあった。

もう光ってはいない。冷たい金属の塊に戻っている。


だが、その芯には、確かに何かがあった。

三人が託した重み。

消えない熱。

消えてはいけない記録。


遠くで、鳥の鳴き声が響く。

それは、記録媒体の中にも、計算し尽くされた恩寵のシステムの中にも存在しなかった、完全な自由の音だった。


アーロンは、震える膝を叩き、ゆっくりと立ち上がった。

新しい世界の風を、肺いっぱいに吸い込む。


そして――


もう振り返ることなく、彼は前を向いた。




 system_loop : 63 / complete

 grace_system : reconfigured

 observer : initializing ——


 synchronizing world state

 world : 01



 ——これは、最初の世界だ。








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