第11周 欠落する福音(ふくいん)
早朝、教会の通信機がけたたましく鳴り響いた。
映し出されたのは、王都アエリス研究所の紋章。クリスティーナが寝癖を直す間もなく受像ボタンを押すと、ホログラムの向こうで高官が冷徹に告げた。
『……首席位相観測官マリユス・ヘイム、および記録執行班主任クリスティーナ・エルデン。貴公らに下された「ルミナリア村」の調査任務を現時刻をもって解除する。直ちに撤収し、王都へ帰還せよ』
「解除? ですが、情報の欠落現象についての確実なデータがまだ――」
クリスティーナが食い下がるが、背後からマリユスが冷たく言い放った。
「……通信を切れ、クリスティーナ。時間の無駄だ」
『マリユス・ヘイム! これは理事会の決定だ。貴公の独断は許され――』
マリユスは迷いなく、通信機の主電源コードを物理的に引き抜いた。
青白い火花が散り、高官の怒声が虚空へと消える。完全な沈黙が戻った。
「ちょっと! 何してるのよ、マリユス! 命令違反どころか、最悪、資格剥奪よ。私たち、路頭に迷うことになるのよ!?」
「……資格など、計算式の外にあるノイズに過ぎない」
マリユスは平然と言ってのけた。
「クリスティーナ、君は気づいていないのか? 帰還命令が出たということは、王都側が『これ以上、私たちにここを観測させたくない』と判断したということだ。つまり、この場所には隠すべき真実があるという、逆説的な証明に他ならない」
その光景を、小屋の入り口からカイとアーロンが呆然と眺めていた。先に沈黙を破ったのはカイだった。肩に担いだ斧を地面に下ろし、膝を叩いて爆笑し始める。
「ハハッ! マジかよお前! 王都の偉いさんに喧嘩売って電源引っこ抜くとか、最高に変人すぎるだろ! 逆に面白いわ、気に入ったぜ!」
「……カイ、笑い事じゃないよ。これって、凄く大変なことなんじゃ。クリスティーナさん、本当に大丈夫なの?」
不安げに袖を引くアーロンに対し、クリスティーナは額を押さえて深い溜息をついた。
「大丈夫なわけないでしょ……。研究所を追われ、資格も剥奪。王都じゃまともな職にも就けなくなるわ」
一瞬、空気が重く沈む。だが、カイはあっけらかんと肩をすくめた。
「なんだ、そんなことか」
「そんなこと、って……」
「最悪、この村にいりゃ生活くらいできるだろ。鹿もいる、畑もある、水も綺麗だ。腹は減らねえよ」
カイはにっと笑い、順番に皆の顔を見回した。
「それに、お前らがいたら退屈しなさそうだしな。毎日変な機械持って森をうろつく構造くんを見てるだけで、酒のつまみになる」
「私は酒肴ではない」
「ハハッ、褒めてんだよ! クリス、あんたなら村の女連中ともすぐ仲良くなれそうだ」
「……それ、褒めてるの?」
クリスティーナは呆れたように眉をひそめたが、その口元は少しだけ緩んでいた。カイは最後に、ちらりとマリユスを見る。
「まあ、こいつは……気にかけとかねえと、その辺で干からびて死んでそうだけどな」
張り詰めていた空気がふっと緩み、アーロンが思わず笑い声を漏らす。
マリユスはそのやり取りを無視するように、壁に貼られた「古代の円環」の図像を杖で指した。
その表情には、かつてないほど鋭い真剣味が宿っていた。
「いいか、全員聞け。この異常は、侵略でも攻撃でもない。……内圧の限界だ。私たちが住んでいるこの世界という『器』そのものが、自分自身の重みに耐えきれず、底からひび割れ始めているんだ」
冗談めいた空気は一瞬で霧散した。
アーロンがマリユスの言葉を、不安げに繰り返す。
「世界が……ひび割れているって、どういうこと?」
「例えるなら、この世界は一冊の本だ、アーロン。ページ数は決まっていて、結末も決まっている。私たちはその文字の上をなぞるだけの存在だ」
マリユスは手元のノートをパラパラとめくってみせた。
「だが、同じ本を何千回、何万回と読み返せば、紙は擦り切れ、文字は滲むだろう? 今起きている『反復』や『不具合』は、その劣化の結果だ。世界はもう、新しい物語を書き込む余白を失ってしまったんだ」
「待てよ、マリユス」
カイが低い声で割り込む。
「それじゃあ何か? 風が腐ってるのも、俺のナイフの刃こぼれが戻るのも……全部、誰のせいでもねえ、この世界の『寿命』だってのか?」
「本質は近い。エントロピーの限界だ。世界は最も負荷の少ない『過去の記録』を再生することで、辛うじて存在を維持している。君のナイフが直るのではない。ナイフが壊れていなかった『昨日』という記録が、今日に上書きされているだけだ」
マリユスはアーロンの前に歩み寄った。
「アーロン。君が知らないはずの景色を思い出したり、聞こえないはずの音を聞いたりするのは、君の特殊能力ではない。破れたページの隙間から、以前の読書で残された『書き込み』が見えてしまっているだけだ」
アーロンは息を呑んだ。
自分の中にあった違和感が、マリユスの言葉によって、より巨大で救いのない「世界の欠陥」へと繋がっていく。
「……じゃあ、どうすればいいの? このまま、本がボロボロになるのを待つだけ?」
「わからない。だが、一つだけ確信していることがある」
マリユスは、窓の外で不気味に増殖を続ける三輪の青い花を見た。
「この花は、その『破れたページ』を繋ぎ止めるための補修テープだ。そして、そのテープを貼る『管理者』が、内部に必ず存在している」
「……マリユス・ヘイム。君の理論はあまりに冷酷で、そしてあまりに真理に近い」
教会の奥から現れた神父が、静かに言葉を継いだ。その表情には、驚きも否定もなかった。
「ですが、管理者がいるとして、その者は『壊したい』のではなく、『守りたい』のかもしれないとは思いませんか?」
「守るために、自由を奪い、死んだ過去を繰り返させるというのか? それは守護ではない。……ただの、醜い執着だ」
マリユスの硬質な言葉が、静かな教会の中に響き渡った。神父は答えず、ただ悲しげに目を伏せた。
その夜。
教会の屋上で、マリユスは一人、壊れた通信機に向き合っていた。
物理的に引き抜いたはずのコードを再び繋ぎ、特殊な周波数を手探りで合わせる。
「……聞こえるか、グレイス」
応答はない。しかし、彼は独り言のように続けた。
「世界は、君が思っているよりずっと狭い檻だったようだ。……だが、私は鍵を見つけた。『揺らぎ』という名の、不確定な少年の形をした鍵をな」
通信機の向こう側で、微かな風の音が鳴った。
それは、昨日吹いた風とも、一昨日吹いた風とも違う。かすかな「明日」への震えを孕んだ、新しい響きだった。
階下では、カイが「あいつ、絶対また変な計算してるぜ」と呆れながら、アーロンにナイフの研ぎ方を教えている。
そんな、明日には消えてしまうかもしれない「反復」の日常が、今はひどく愛おしく、そして残酷に見えた。




