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結婚30年。夫は妻の顔を見て「お前、誰だ?」と言った  作者: 重原水鳥


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【06】エーベンローデの答え、そして子爵家の未来の話

 エーベンローデが答えを出したのは一週間経った日の事だった。爵位を継いだクライスは忙しく、あの話し合いの日から既に一週間もたっている事実に驚きながら、答えを聞いた。


「……許されるのであれば、私がこれからの自分をどうするかの答えを得られるまで、このまま名目上の妻という形で屋敷に滞在してもよろしいでしょうか」


 そもそもの選択肢として、クライス側から「名目上の妻」のままいる事を提案している。なので全く問題のない結論だった。

 別宅については、嫌な記憶が蘇るので、できれば本宅であるこちらの屋敷にいたいという事だった。


「こちらには常に私や、私の部下たちが常駐する事になる。人も多いだろう。大丈夫だろうか?」

「はい。その……ほかの人の声がある方が、助かる、気がするのです。ずっと、一人だったので……。今話をしていたのが、頭の中の自分なのか、実際の人間なのか、分からない時があり……」


 外国で色々な任務についてきたクライスは、なんとなくエーベンローデの状況が分かった。拷問や犯罪者への罪の一つとして、完全な独房に放置するというのがある。徹底した場所では、食事を運ぶ形すら物で押しやるような形で、一切人と会話をさせない。


 そうすると、大抵の人間は段々とおかしくなっていってしまうのだ。


 現実と妄想の境がなくなり、虚空に向かって呟き続ける……なんて状態の人間の姿を思い出しながら、エーベンローデを見た。


 この前の話し合いの時と比べると、生気がない。そんな雰囲気だった。

 食事はしっかりと出している。彼女の護衛についているルビーの血族出身の騎士と侍女がしっかりと世話をしてくれているようで、食は細いものの、栄養のあるものを食べれている。たった一週間だが、頬の色は前より良いように思えた。


 しかし、ともかく、力ない。活力がない。まだ、クライスに怒りをぶつけていた時の方が、元気があった。


「分かった。では、エーベンローデ殿。本日から私たちは、同居人だ」

「同居、人?」

「ああ。書類上は夫婦だが、事実は同居人という方が良いだろう。私は形だけだとしても……家族というものに、良い思い出がない」


 ピクリと、エーベンローデの肩が小さく跳ねた気がした。それに特に触れる事はないまま、クライスは話を続ける。


「だから家族という無償の繋がりに賭ける間柄ではなく、お互いに節度と礼儀を持って接する、同居人という形で貴女と接していきたい。……勿論、貴女が嫌でなければ、という話だが」


 エーベンローデが小さく、口の中でだけ言葉を転がすように、呟く。


「せつど……れいぎ……」


 キュッと、侍女たちの手入れで少しだけ艶が出て来た唇に力を込めた後、エーベンローデはクライスに頭を下げた。


「よろしく、お願いいたします」

「ああ。よろしくお願いする」


 書類の上だけの夫婦。


 結婚三十年目にして顔を合わせたクライス・イエローサファイアと、エーベンローデ・G・イエローサファイアの二人は、こうしてやっと会話のスタートラインに立ったのであった。



 ◆



 さて。正式に同居人となった二人だが、色々と細かい約束事を制定した――訳ではない。


 とりあえず様子を見ながら、時々何かがあった時には決まり事を制定する、という緩い関係性に落ち着いた。


 何故最初からしっかりと決めなかったのかと言えば、エーベンローデがそういう話し合いを出来る状態ではなかったからだ。


「まずはお体の健康状態を取り戻すのが第一! それまでは医師と私たち専属侍女、専属護衛騎士の二名のみが基本的に接し、エーベンローデ様からクライス子爵へお話がある時のみ、取次をする。という事でよろしいでしょうか?」


 そう堂々と交渉するかのように話してきたのは、エーベンローデに付ける事になった侍女――そのまま彼女の専属侍女となった、トリメル・ビーフブラッドルビーであった。

 元々の雇い主――否、今現在も雇い主としてはクライスの方であるのだが、クライスから「エーベンローデ殿を第一として優先して欲しい」という指示が改めて出された事もあり、上記のようにエーベンローデの使用人代表のように話を持ってくる事となった。


「問題ない。トリメルとヴァーリャ(専属護衛騎士)の判断に任せる。この前顔を合わせた時も、あまり顔色は良いように思えなかった」

「一週間、エーベンローデ様は色々と考えられたようです。それでお疲れだったのでしょう」

「イエローサファイア子爵家の傷になるような事以外であれば、エーベンローデ殿の希望は最大限叶えていきたいと思う。……ちなみにだが、トリメルから見て、エーベンローデ殿に精神的な専門医師が必要だと思うか?」

「相性が良い方がいれば、でしょうか。ただ、真正面からお話すると、エーベンローデ様が受け入れられるのかが分かりかねます」

「そうか……。うん。君の言う通り、まずは回復だけを考えてもらおう」


 最初のころは、共に食事を摂る事はなかった。顔を合わせる事もあまりなく、たまに、庭で時間を過ごしているエーベンローデと、廊下を歩いているクライスの目が合い、互いに会釈をしあうぐらいの距離感だった。


 半月経った頃、手慰みとして刺繍や編み物をし始めたと聞いた。必要なものが申告されてきたものを、クライスは予算承認のハンコを押し、従者のエーケニスに渡した。


 ひと月経った頃、朝食を共にするようになった。

 朝食だったのは、クライスが毎日必ず同じ時間帯に食事を摂っていたからだろう。

 夕食の方は、その日の仕事の状況によって前後してしまっていたので、エーベンローデが合わせようと思ったら、大変だ。


 食事の時間を共に過ごしはするけれど、会話をする訳ではない。互いに黙って、食事をするだけだ。


 エーベンローデの食事風景は、作法の良い良家の子女という風であった。

 しっかりとした教育を受けて来たのだろう。


 しかしその良い教育を、子が、幸福に感じていたかは別の話だ。クライスの膝や背中には、未だにうっすらと跡が残る鞭の跡がある。

 物理的な跡はなかったとしても、心に付いた傷はあると思われた。何せ、あのアルテローデを大事にしていた両親だ。エーベンローデには個別で彼女に合った教育を――なんて事は、していなさそうだった。


 そうして二人で静かに朝食を取る生活が半年ほど過ぎ去った頃、クライスは切り出した。


「エーベンローデ殿。一つ良いだろうか」

「はい。なんでしょうか」


 エーベンローデは、目線は中々合わないが、受け答えはしっかりしてくれるようになっていた。

 以前と比べると、声にも力がある。


「領地の状況はまだまだ落ち着いたとは言い難い……が、そろそろ、今の人数で屋敷の事や、仕事を回すのが難しくなってくると感じている。なので、新たに人を雇い入れる事になる」

「はい」

「そうなると、今の我々の関係を良く心得たものばかりではなくなる」

「はい」

「貴女に、不愉快な言動を無意識にしてしまう者もいるかもしれない」

「はい」

「それと……そろそろ、私の次のイエローサファイア子爵をどうするかについても、考えていかねばならぬと思っている」

「はい」

「なので正式に、跡取りに関しては外から入れる事を公表しようと思っている。暫く屋敷には、跡取り候補の若者が出入りする事になるとは思う」

「はい、わかりました」

「環境が変わって、何か起きる事はあるかもしれない。何かあればすぐにトリメルやヴァーリャでも、私の方に直接でも構わないので、教えてくれ」

「はい」


 従順な返事。それは彼女が長年置かれていた立場をそのまま表しているような気もして、クライスの胸はきゅうと締められるような気持ちになるのであった。

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