【12】男は女の笑顔を見て、目を細めた
――クライスとエーベンローデが再会したあの日から、早十年が経過した。
クライスは執務の合間に、息をつく。
「休憩をしますか?」
エーケニスの言葉に頷きつつ、ふと、今日の書類上の妻であり、人生のパートナーとなっているエーベンローデの今日の予定を思い出した。
「中庭を少し見に行く」
「ご参加はされず、良いので?」
「女性の会を邪魔するつもりはない」
座っての作業の時間が長かったので、気分転換に少し歩く事も兼ねているだけだ。そう続ければ、エーケニスは静かにうなずいた。
屋敷の廊下を歩く。
この家を継いだ頃は、ほころびのある、今にも壊れそうな家だと感じていた。
それが今は、手入れの行き届いた、美しい屋敷になっている。
廊下から、中庭が見える窓の前に立つ。
視線を下ろせば、庭師たちによって綺麗に整えられた中庭の中央。幼いころ、クライスも使っていた記憶のある、黄色い屋根のガゼボがあった。そこに、三人の女性がいる。
一人はこの家の跡取りとして、正式にクライスたちの養子という扱いになった、元伯爵令嬢。
そして彼女の横の椅子に座っているのは、まだ幼い娘だ。
お菓子が一番大事なようで、机の上のお菓子に何度も手を伸ばしている。クライスにとっては義理の孫であり、もしかすればクライスの次の次の子爵家当主になるのかもしれない人間だ。
その対面に座っているのは、エーベンローデだった。
距離もあるし、口元の動きも良く見えない。なので三人の――否、義理の孫は話には参加していなさそうなので、実質的には二人だろう――会話は分からない。
(もう少し近ければ、何を話しているかは読めただろうが)
重要な事なら跡取りで養子たる令嬢から報告があるだろう。
重要でない事でも、エーベンローデが明日の朝、語ってくれるに違いない。
どれだけ忙しくとも朝食は共に――その習慣は、今でも続いている。
口元を隠しながら、破顔しているエーベンローデがいた。
(――よく、笑うようになられた)
かつては中々笑わず、笑う時は泣きそうな顔だったり、引き攣ったような笑みが多かった。いつからだろうか。今のように、屈託のない笑顔を浮かべるようになったのは。
クライスだけの功績ではない。
いつでもエーベンローデの傍に寄り添った侍女トリメルや護衛騎士ヴァーリャたちの献身。
それから、義理の母と娘の関係に急遽なってしまったものの、上手く打ち解けてくれた後継者。
それ意外の様々な人々の協力もあって、エーベンローデは今、笑っている。
――「あなたがクライス・イエローサファイア様?」
三十年押し込められていた別邸で、初めて目を合わせた時の事を思い出す。あの時の記憶が色あせる事はなかった。それはクライスにとってはある種、忘れられない罪の形だったからだ。
領地を復活し、子爵家の名誉を回復する――そんな目標に、いつも付随するものがあった。
ただの罪悪感かもしれない。
同情かもしれない。
クライスが抱いている感情は、エーベンローデからすれば、向けられている事すら嫌な、哀れみかもしれない。
それでも。
(――貴女が幸せを感じれますように)
かつての選択は。そして今も続いている選択は、最善ではないかもしれない。
それでもクライスは止めない。
(どうかこれから先の人生が、貴女が笑っていられますように――)
これは愛でもなく。恋でもない。
ただの、祈りだった。
窓にそっと手を触れ、目を細める。
――どうか。今まで沢山傷ついた子が、これ以上傷つきませんように。
――どうか。彼女が、幸せにあれますように。
――どうか。彼女が、笑い続けられますように。
考えずとも心の中で、言葉が回る。一日に最低一度は唱える祈りの言葉を呟いて、それからクライスは踵を返した。執務室に帰り、己の日常を処理する為に。
◆
とある地方にあるイエローサファイア子爵家は、歴史を遡ると、途中で血統の入れ替えが行われている。
イエローサファイアの系譜ではあるが、初代子爵から見た時に、直接の子孫ではないという事だ。
血統が変わる事は、長い王国の歴史の中で、よくある事であった。
ただ、そのタイミングが元々の血筋である当主が罪人として摘発された後であった事から、後世の人々の多くは、本家イエローサファイア伯爵家主導で、入れ替えられたのだろうと見られている。
なにせ、新たな当主として子爵家に入り、一度は落ち目であった子爵家を建て直したのは、当時のイエローサファイア伯爵の家のご令嬢であった。
実際に罪人を摘発した、旧血統最後の当主については、子孫ですら、語る事は殆どない。――新血統の祖となった女子爵を偉大なご先祖と呼ぶ子孫は多いが、その前を語る者はいない。
旧血統最後の当主について語られない主な理由は二つ。
一つは、彼は、家門を汚した者の血統であったという問題だろう。彼の話をするのであれば、罪人となったその前の当主について語らなくてはいけなくなるという問題があった。わざわざそこを掘り返したい人間は、多くはない。
二つ目は、彼には功績と呼べるものは殆どなかった、という事だろう。いや、形としては残っているが、その殆どが彼の功績ではなかったと、子孫たちは考えていた。
旧血統最後の当主が生きていた時代は、新血統最初の当主となった女性が後継者として家に入った時期とほぼ同時期。
かの最後の当主の名で残る功績の殆ども、のちの女子爵がした、と子孫たちは語る。
あくまで彼が当主の座についていたのは、まだ若いのちの女子爵が、穏便に家の引継ぎをする為。それ以外の価値はなかったと。
それが、「旧血統最後の当主」として、本名すら殆ど語られない男の、後世での扱いだ。
教科書にも載らず、子爵家の歴史として語られる事も殆どない。
一方で、彼の妻であった夫人については、夫よりよほど名が残っている。
エーベンローデ夫人は、家の立て直しの為に忙しい女子爵を助けるべく、子育てなどにも協力的だったという。エーベンローデ夫人が亡くなった時、第二の母的な存在であった彼女の死を、女子爵の子供たちは酷く嘆き、悲しんだと伝えられる。
また、エーベンローデ夫人は恵まれぬ子供たちへの慈善活動にも積極的であった。彼女が刺繍や編み物で考案した子爵家の家紋を元にした柄は、長く伝えられ、後に、領地を代表する柄となった。
残念ながら、彼女は絵姿などを残される事を苦手としていたようで、どのような人であったかは、女子爵らの手記でしかうかがう事は出来ない。
後世、子爵家出身の画家が彼女を想像で描いている。
椅子に座し、優し気で母性愛に満ち溢れていそうな女性として描かれたエーベンローデ夫人。彼女の膝の上や周囲には、複数匹の猫が描かれている。
これは、エーベンローデ夫人の墓由来の猫であった。
エーベンローデ夫人の墓は、夫である旧血統最後の当主と共に、イエローサファイア子爵家の墓地にある。
墓には、女子爵の指示で付け加えられたという猫の絵が描かれている事から、後世の人々は、エーベンローデ夫人はたいそうな愛猫家であったのだろうと判断されたのである。
この考えを否定する根拠もない為、ほぼ確定だろうと、決め付けられている。
この絵によってよりエーベンローデ夫人のイメージは固定され、更にのちの世で、エーベンローデ夫人は愛猫家・良妻賢母の象徴として語られていく事になるのだが……、当時を生きていたエーベンローデ本人は、想像もしない事であった。
――夫婦であった旧血統最後の当主とエーベンローデ夫人の仲については、女子爵の手記に少し残る程度しか残されていない。
そこから推測し、彼らは仲が良かった、いや普通だった、いや仲は良くなかったと、皆、好きに語り合っている。
ただ、エーベンローデが亡くなる直前の日まで毎日、二人が朝食を共にしていた記録だけは、しっかりと残っている。




