15-2
そのあとの記憶があまりない。
あたしはどうやって服を着替えて、どうやって家を出て、どうやってバスに乗って駅まで来たのか。
気づいた時、あたしはレイジのアパートの前に立っていた。
何日か前の夜、あたしはレイジに連れられてここに来た。
二階の部屋で、レイジと一緒に歌を歌った。
あたしに「歌ってみない?」と言ってくれた。
あの日と同じように錆びついた階段を上る。
少し背中を丸めて、ポケットに手を突っ込んで歩いている、レイジの背中が見える気がする。
アパートの脇を走る電車の音を聞きながら、二階の一番奥の部屋の前に立った。
震える手でドアを叩いてみたけれど、返事はない。
ドアノブに手をかけて回してみると、それはすんなりと開いた。
「……響」
ドアを開けたあたしの目に、響の背中が見えた。
ほのかな日差しが差し込む台所の奥の部屋で、大きなビニール袋の中に何かを黙々と詰め込んでいる。
「響」
もう一度名前を呼んだら、響はゆっくりと振り向いてあたしを見た。
そして驚きもせずに口を開く。
「片付けてるんだ。レイジのもの。もういらないから」
あたしは靴を脱いで部屋に上がった。
響はまた背中を向けて、そばにあるものをどんどん袋の中に入れていく。
CDも雑誌もマグカップも洋服も、部屋にあるもの全部。
「響は……もしかしてわかってたの? こうなること」
手を動かしながら、響がつぶやく。
「わかんないけど、言われてた。俺が死んだら、部屋の中のものは全部捨てろ。見知らぬ親戚が来るかもしれないけど、そいつらの言うことは信じるな。困ったことがあったら、ライブハウスのナベさんに相談しろ。それから……」
響はレイジがいつも着ていたコートを手に取ると、それも袋の中に突っ込んで言った。
「お前は親戚の家に戻れって。頭下げてでも、もう一度学校に通わせてもらえって。高校くらい出ておかないと、俺みたいになるぞって」
そこで一回手を止めて、響はふっと息を吐く。
「俺は別に、レイジみたいになってもいいんだけど」
あたしはぼんやりと響の後ろに立っていた。
響はまた次の袋を開いて、そばにあるもの全部突っ込んでいく。
「ていうか、レイジみたいになりたかったんだよ、俺は。だから忘れようとしていたギターを弾いてみたり、あそこにひとりで行って歌ってみたり……レイジみたいになりたかったから……」
響の手がまた止まり、動かなくなった。
「響……」
あたしがそっと声をかけると、響はハッと我に返ったように顔を上げ、また同じ作業を繰り返した。
響の声がどんなに淡々と聞こえても、響の態度がどんなに落ち着いて見えても、こんな時に冷静でいられるわけがない。
響にとってレイジは一番そばにいたかけがえのない人で、響の心を動かしたとても大切な人だったから。
あたしは部屋の隅に置いてある、レイジのギターの前に膝をついた。
手を伸ばし、指先でそっと弦をはじいてみる。
音のない部屋にぽつんとひとつの音が落ち、すぐに消えた。
ギターのそばには何枚かの紙が散らばっていた。
あたしはその紙を一枚手に取る。
そこには歌詞のようなものが殴り書きされていた。
レイジの書いたものだ。レイジは最後まで、音楽に囲まれていた。
「これ……もらってもいい?」
あたしは書きかけの歌詞が書かれた紙を持ち、響に振り返る。
響はあたしを見ないまま答える。
「いいんじゃない?」
「じゃあもらってく」
あたしはそれを自分のバッグに大事にしまうと、響と一緒に部屋の中を片付け始めた。
狭い部屋の中から、レイジのものが消えていく。
レイジの匂いも気配も、全部一緒に消えていく。
まるで最初からそこに存在しなかったかのように。
「これももらっていきなよ」
すっきりとしてしまった部屋の中で、響がレイジのギターをあたしに差し出した。
「え、でも……」
「俺は一本もらったから。どうせここに置いといても捨てられちゃうし」
片付けられない家具や家電は、あとで親戚の人が処分しに来るのだという。
あたしは黙って手を伸ばす。
その手に響が、レイジのギターを持たせてくれた。
初めて持ったギターは思ったより軽くて、これをかき鳴らしていたレイジの姿が頭に浮かんだ。
「響は……これからどうするの?」
ギターを抱えてあたしは聞いた。
「今日はとりあえずバイト行く。ナベさんにレイジのこと話さなくちゃいけないから」
「そのあとは?」
「近いうちに、叔母さんの家に戻るよ。レイジに言われた通りに。いつまでもこの部屋にはいられないし」
「明日は……」
本当は明日のことなど、考えたくはなかったけれど。
「会えるよね?」
響はそれに答えなかった。
「もう帰りな。俺も出かけるから」
響が立ち上がって玄関に向かっていく。
その時ふと立ち止まり、思い出したようにポケットから何かを取り出した。
「ああ、そうだ。これも……」
響が振り向いて、あたしに握った手を差し出す。
あたしが駆け寄って手のひらを開いたら、響はその上にガラスのペンダントをのせた。
「レイジのだよ。最後の最後までそれを握ってたんだって」
「え……」
それはあたしが作ってレイジにあげたペンダントだった。
「親戚に持っていかれる前に、俺が預かってきた。本当は棺に入れてやろうと思ったんだけど、こういうのは入れちゃダメなんだって」
響はやっぱり淡々と、そんな話をする。
「だからつぐみが持ってなよ。レイジの代わりに」
あたしは手のひらをぎゅっと握りしめた。
冷たいガラスの感触が、じんわりと手に染み込んでくる。
「あんな約束……させなきゃよかったな……」
あたしの耳に、響のひとり言のような声が聞こえてきた。
「無理やり病院になんか縛り付けなきゃよかった。レイジの言う通り、やりたいことやらせてあげればよかった。そうすれば最後に三人で、歌えたかもしれないのに……」
響は足元に視線を落とした後、すぐに顔を上げて部屋を出ていく。
あたしはペンダントをバッグの中に入れ、ギターを抱えて響のあとを追いかけた。




