6-2
駅に着く頃、あたりはもう真っ暗になっていた。
この季節はすぐに日が暮れてしまう。糸ちゃんについてきてもらってよかったと思った。
駅前の広場は、今日も家に帰る人たちが忙しそうに行き交っている。
花壇の周りにはやっぱり何人かの人が待ち合わせをしていて、あたしはその中にヒビキの姿を見つけた。
ヒビキは花壇の淵に腰かけて、なんだかぼうっとしていた。
「ヒビキ」
あたしが呼んだら、ヒビキが顔を上げて立ち上がった。
そしてあたしに小さく手を振ってから、糸ちゃんに視線を移して軽く頭を下げる。
「こんばんは。あなたがヒビキくんね」
「はい。つぐみの……叔母さんですよね?」
「うん。ごめんね、突然お邪魔しちゃって。かわいい姪っ子が心配で」
ヒビキは少し笑うと、あたしに小声でささやいた。
「思ってたより若いんだな、つぐみの叔母さん」
「うん。あたしのお母さんより十二歳も年下だから、二十八歳なの」
「へぇ、レイジと同じじゃん」
「そうなんだ」
ヒビキは軽くうなずくと、糸ちゃんに向かって言った。
「こっちです。ライブハウス」
あたしと糸ちゃんは、人ごみの中を歩き出したヒビキのあとをついて行く。
「なんか緊張するね、つぐみちゃん。わたしライブハウスなんて初めて」
「あたしも」
こそこそ話していたらすぐに、この前レイジが指さしたビルに着いた。
中にはライブができるホールの他にも、バンド練習のできるスタジオもあるらしい。
入ってすぐのロビーのようなところには、ちょっと派手なバンドマンっぽい人が集まっていて、あたしたちのことをちらりと見た。
壁にはメンバー募集などと書かれたチラシがたくさん貼ってあり、あたしたちはその前をぎこちなく通り過ぎる。
ヒビキは迷わず受付に向かい、長い髪をひとつに束ね髭を生やした、なんだか怖そうな男の人と話している。
「入っていいよ」
「あの……チケットとかいらないの?」
「大丈夫。レイジが話しておいてくれたから」
ヒビキが慣れた様子で階段に向かう。ライブホールは地下にあるらしい。
受付の人があたしと糸ちゃんのことをじろじろ眺めていたから、ふたりでおじぎをして通り抜けた。
「そんな緊張しなくて大丈夫だよ。みんないい人だから。俺、ここでバイトしてるんだ」
「え、そうなの?」
「レイジが紹介してくれた。学校行かないなら働けって。あ、さっき受付にいた人はナベさんっていってここの店長。怖そうだけど全然怖くないよ」
ヒビキがふっと笑って狭い階段を下りていく。
あたしと糸ちゃんはその背中を見つめながらついていく。
「たぶん今出てるバンドの次に歌うと思う」
そう言ってヒビキが重い扉を開く。すると一気に空気が変わった。
暗い部屋の中。ライトの当たったステージ。
力強いドラムの音。低く響くベース。耳に残るギター。
その真ん中で歌っている人の声。
ぞくりと背中が震えた。
見たことも聴いたこともないアマチュアバンドの演奏だったけど、あたしの心は一気にステージに引き込まれた。
「すごい……」
激しい音の中であたしがつぶやいた。
ステージの前では観客が身体を揺らしている。空気もビリビリと揺れている感じがする。
「そう? 下手くそだよ」
前を見たままヒビキが言った。
そんなことはない。
今までテレビやスマホを通してしか聴いたことのなかったバンドの音。
生で聴くとこんなに迫力が違うんだ。
隣を見ると、糸ちゃんも目を丸くしてステージを見つめている。
そして曲が終わると、ふたりで夢中で手を叩いた。
「ありがとうございましたっ!」
ボーカルの人が挨拶をして、周りのお客さんも拍手を送る。
「次だよ」
ヒビキの声に胸がドキドキと騒ぐ。
ステージの上の機材が片づけられて、次のバンドの準備が始まる。
レイジが「昔の知り合いのアマチュアバンド」と言っていた人たちだ。
さっき歌っていた人たちは高校生か大学生くらいに見えたけど、この人たちはちょっと年齢層が高い。
準備が終わるとすぐに演奏が始まった。
「あ……」
さっきと違う。ギターの音もベースの音もドラムの音も、すべてが心地よく胸に響く。
髭を生やしたボーカルの人が歌い出した。よく見るとさっき受付にいた、ナベさんという人だった。
ちょっと驚きながら、歌を聴く。
やっぱりさっきとは違う。歌声も演奏も安定していて気持ちいい。
「すごい……」
つぶやいたあたしの隣でヒビキが笑う。
「すごいすごいって、それしか言えないの?」
「だって……すごいんだもん」
あたしの知らなかった世界。知ろうともしなかった世界。
こんなに心を揺さぶられて、こんなに心地よくなれる世界があったなんて……。
一曲目、二曲目と、どんどんあたしはその世界に引き込まれていった。
身体の中が熱くなり、言葉にできないこの気持ちを、大きく叫んで吐き出したい気分だった。
三曲目が終わったあと、ナベさんがマイクに向かって言った。
「今日は昔の仲間がゲストに来ています」
観客がざわっとさわぐ。背の高い黒ずくめの男がステージに現れる。レイジだ。
今夜ここに来ているお客さんは、レイジが出ることを知っていたのだろうか。
それとも知らずに来ているのだろうか。
そもそもレイジのことなど誰も知らないかもしれない。
だけどレイジがステージの真ん中に立っただけで、空気がピリッと引き締まった。
演奏が始まる。それは静かなバラードだった。五年前のアルバムに入っていた曲じゃない。
レイジがマイクスタンドをつかむ。声を出す。その声があたしの耳にまっすぐ届く。
「この歌は……」
それはあの夜、駅前の広場で、ヒビキがギターを弾きながら歌っていた曲だった。
「ヒビキ……」
あたしは隣のヒビキを見る。
ヒビキはにらむようにじっと、ステージを見つめている。
あたしはヒビキから目を離し、胸元で両手をぎゅっと握る。
レイジの歌が薄暗いホールの中に響いた。誰もが耳を澄ましてその声を聴いている。
ヒビキの声とレイジの声は、やっぱり似ていると思った。
だけど壊れそうなほど繊細なヒビキの歌とは違って、レイジは思いもよらないところであたしの心を抉ってくる。
そして力強く、あたしの心を引っ張り上げる。
このままじゃダメだって。前を向けって。一歩でもいいから進んでみろって。
そしてもし倒れそうになったら、俺が支えてやるからって。
レイジはあたしにそう言ってくれているような気がした。
その時ふと、隣に立つ糸ちゃんから何かの気配を感じた。
そっと隣を向くと、ステージに立つレイジをじっと見ている糸ちゃんの横顔が見えた。
糸ちゃんの頬に、淡い灯りが当たっている。そしてその頬を、涙がつうっとこぼれ落ちていく。
あたしはヒビキの歌うこの歌を聴いた夜を思い出した。
あの日のあたしも今夜の糸ちゃんのように、ヒビキの前で涙を流していた。
糸ちゃんがぐすんと鼻をすすった。あたしはすっと視線をそらし、ステージの上のレイジを見る。
この夜、この瞬間、この場所にいるすべての人の心を、レイジの声が奪い去っていった。




