第二話 賢者の背中、三つの祈り
聖都マイ・ルミナスの白亜の港。そこに停泊するのは、アルスがサンライト王国の魔導技術とエルフの聖樹結晶を組み合わせて「修復」した、最新鋭の魔導帆船『エターナル・リライト号』。
出航の汽笛が、重く、決然と響き渡りました。
【フィリアの視点:翻訳される愛の決意】
私、フィリアは、波止場に立つアルス様の背中をじっと見つめていました。
腰には『ソル・レイス』、手には『真理の辞書』の片割れ。かつて図書室の隅で怯えていた私を救い出してくれたその手は、今や一国の、いえ世界の命運を握る「伯爵」の手となりました。
(……アルス様。貴方の心音が、今までで一番激しく波打っているのが分かります)
彼から贈られたサプライズ、世界の理を聴く【真理の辞書】を通じて、私には彼の「覚悟」が音楽のように聴こえていました。それは、かつての「ゴミ拾い」という自虐ではなく、守るべきものを得た男の、鋼のような重低音。
「フィリア、行ってくるよ。……聖都の『情報防衛網』の鍵は君に預けた。……僕が海の向こうで理を直している間、この街の平和を、君の言葉で紡いでいてほしい」
「……はい。……必ず、最高の『おかえりなさい』という翻訳を用意して待っています」
私は彼の手を強く握りしめ、その温もりを辞書の頁に焼き付けました。これが、私たち「修復師と翻訳者」の、戦いへの誓いでした。
【リィナの視点:調律される慈愛の盾】
船の甲板で、医療資材の最終チェックをする私の目は、常に坊ちゃま……アルス閣下のバイタルを追っていました。
私のスキル『万象の調律』は、閣下が抱える精神的な負荷を「ノイズ」として捉えます。
(……ああ、坊ちゃま。また、自分一人の肩に世界の重みを載せようとなさって……)
閣下は、亡きマイ様の面影をその横顔に宿しながらも、かつて戦死したロイの父君や、自身の祖父上の無念までも「修復」しようとしています。その自己犠牲に近い純粋さが、私には誇らしく、そして何より危うく見えてしまう。
「リィナ、顔色が悪いよ。……僕の調律より先に、君が倒れちゃダメだ」
「……ふふ、閣下こそ。……私が側にいる限り、貴方の旋律を一音たりとも狂わせはいたしません。……さあ、背筋を伸ばして。帝国の連中に、最高に『正しい』ルミナスの姿を見せてやりましょう」
私は彼に、母から受け継いだ「修復された銀鈴」の音を聴かせました。それが、彼を現世に繋ぎ止める唯一の錨になると信じて。
【ミーナの視点:記録される英雄の真実】
私は、アルス様の少し後ろで、新しい記録帳を抱きしめて震えていました。
怖い。海の向こうにあるという、すべてを消し去る「帝国」が、私には底なしの闇のように見えて怖いんです。
でも、アルス様が振り返って私を見た時、その瞳に宿る黄金の光が、私の『真理の編纂者(真実の書庫)』のスキルを優しく震わせました。
「ミーナ。……僕がこれからやることは、歴史には残らないかもしれない。……存在を消去しようとする帝国との戦いは、誰の記憶からも消える可能性があるんだ」
「……だったら、私が! 私が絶対に忘れません! 私の瞳は、嘘も消去も通用しないって、アルス様が言ってくれたじゃないですか!」
アルス様は驚いたように目を見開き、それから今までで一番優しく笑って、私の頭を撫でてくれました。
「……そうだね。……君が書く僕の物語が、未来の唯一の『正解』だ。……頼んだよ、僕の小さな書記官」
船がゆっくりと動き出しました。
フィリア様の祈り、リィナさんの調律、そして私の記録。
三つの想いを乗せて、情報の賢者は、過去の亡霊が眠る帝国の海へと漕ぎ出しました。




