第32話:英雄の休日と、空の綻び
翌朝、僕は両腕の心地よい痺れと、窓から差し込む秋の柔らかな日差しで目を覚ました。
二日酔いで頭を抱えながら帰っていったシドを見送った後、僕たちは新居の庭とリビングを行き来して汗を流していた。
「アッシュ! こっちの板、押さえてるから釘打って!」
「分かった!ルナ…、少し斜めになってるからもう少し右側を上にできる?」
「もう!細かいんだから!」
文句を言いながらも、顔を木の粉だらけにしたルナが一生懸命にオーク材の板を支える。
昨晩、「いつか庭付きの家を買うのもいいな」という話で盛り上がった僕たちは、せっかくの休日を使って、ギルドから借りているこの新居のカスタマイズ(DIY)をすることに決めたのだ。
「ルナちゃん、お顔が真っ白ですよ。ふふっ」
「アイリスだって、エプロン泥だらけじゃない!」
庭の隅では、普段は巨大な重盾を構えるアイリスが、シャベルを持って花壇作りに精を出していた。
彼女の規格外の腕力にかかれば、固い土を掘り返すのも、重いレンガを運ぶのも朝飯前だ。あっという間に綺麗なレンガ造りの花壇が完成し、彼女が大事そうに花の苗を植えていく。
「よし、完成だ。寸分の狂いもない」
「わぁぁ……! すごい、お店で売ってるやつみたい! アッシュ、家具職人にもなれるよ!」
「アイリスの重盾で釘を打ち込んでもらおうかと思ったけど、家ごと粉砕されそうだったからやめておいて正解だったな」
「も、もう! アッシュ君、からかわないでください!」
花壇に水をやり終えたアイリスが、ぷんすかと頬を膨らませながら庭から戻ってくる。
僕たちは泥や木屑だらけになったお互いの顔を見て、思わず吹き出して笑い合った。
午後からは、ルナが買ってきたお気に入りの柄のカーテンを取り付け、アイリスが棚に食器を綺麗に並べた。殺風景だったAランク特区の借り物の家が、少しずつ、三人だけの温かい色に染まっていく。
泥水をすすっていた底辺時代には、雨風を凌ぐだけで精一杯で、壁を飾るだとか花を植えるだとか、そんな心の余裕は欠片もなかった。
「……すごく、いい家になったね」
すべての作業を終えた夕暮れ時。
僕たちは庭に面したウッドデッキに腰を下ろし、アイリスが淹れてくれた温かいハーブティーを飲んでいた。
王都の空は、燃えるような茜色に染まっていた。
冷たい秋の風が吹き抜け、アイリスが作った花壇の苗が小さく揺れる。部屋の中から漏れる魔力灯の暖かな光が、僕たちが今日一日かけて作り上げた本棚やカーテンを優しく照らし出していた。
「うん。なんだか、ずっとここに住んでいたみたいな気がする」
ルナがティーカップを両手で包み込みながら、嬉しそうに目を細める。
「ええ。帰ってくるのが楽しみになる、素敵な場所になりましたね。アッシュ君……私たち、この家をずっと大切にしましょうね」
「ああ。どんな依頼から帰ってきても、ここが僕たちの……絶対に守り抜くべき、帰る場所だ」
平和で、温かい僕たちの家。
ティーカップを置き、三人で夕焼け空を眺めながら大きく伸びをしようとした――その時だった。
「…………え?」
僕の隣に座っていたルナが、ふいに立ち上がった。
彼女はウッドデッキの手すりに身を乗り出し、ポカンと口を開けたまま、茜色の空を――正確には、王都の空をドーム状に覆っている『防衛結界』を見上げているようだった。
「ルナ? どうしたんだい、急に」
僕が声をかけても、彼女は微動だにしない。
ただ、彼女の若草色の瞳の奥で、万華鏡のような幾何学模様――『神眼』が、かつてないほどの異常な明滅を繰り返していた。ギリギリと、眼球そのものが悲鳴を上げているかのような、刺すような光。
「ルナちゃん……? 顔が、真っ青ですよ……?」
「あ……ああ……」
アイリスが心配そうに立ち上がるが、ルナの視線は空に釘付けになったままだ。
彼女の震える指先が、何もない虚空を指し示す。
「嘘、でしょ……。王都の、結界が……」
「結界が、どうしたって言うんだ?」
僕も彼女の視線の先を追うが、僕の目にはただの美しい夕暮れの空しか映らない。王都を外敵から守る透明な魔力障壁は、何百年もの間、一度たりとも破られたことのない絶対的な『常識』だ。
だが、神眼を持つルナの目には、恐るべき光景が映し出されていた。
「喰われてる……」
「喰われてる?」
「結界の、魔法陣を構成する『術式の数式』が……空の向こう側から、まるで虫に食われるみたいに……ドロドロに溶けて、崩れ落ちてる……!」
ルナがガチガチと歯の根を鳴らしながら、後ずさる。
「違う、物理的な攻撃じゃない……! 昨日、ガルド大峡谷で見た『変異亜種』の装甲と同じ……いや、それよりもっと純度の高い、巨大な『魔法を無効化する力』が……王都の結界を、外側から舐め溶かしてる……!!」
王都の結界が溶かされている?
そんなことはあり得ない。この結界は、何千人もの高位魔術師が何世代にもわたって魔力を注ぎ込み続けてきた、魔法の結晶だ。それを「外部から溶かす」などという事象は、過去の例を見ても起きたことがない。
だが、肌を刺すような冷たい秋風に乗って。
王都の大気中に満ちていたはずの濃密な魔力が、急速に……まるで巨大な掃除機に吸い込まれるように、みるみるうちに薄れていくのを、僕の肌も確かに感じ取っていた。
『――パリンッ』
不意に。
夕暮れの空の高いところから、薄いガラスが割れるような、ひどく乾いた音が一つ、王都中に響き渡った。
一般の市民たちは「何かの音がしたな」と首を傾げる程度だったかもしれない。
だが、僕たち三人は、その音が何を意味するのかを、本能で理解してしまった。
僕たちが今日、一生懸命に花を植え、家具を組み立てたこの美しい王都の空に。
取り返しのつかない巨大な『綻び(穴)』が開いた音だ。
「……アッシュ」
ルナが、恐怖で涙目になりながら僕の袖を強く握りしめた。
アイリスも、咄嗟に庭に立てかけてあった重盾に手を伸ばし、周囲を警戒するように身を強張らせている。
僕は漆黒のガントレットを強く握り込み、茜色から深い紫へと変わりゆく空を睨みつけた。
魔法を無効化する巨大な力。結界の崩壊。そして、大気中の魔力の異常な減少。
これが意味する事態は、ただ一つ。
「厄災が……来るぞ」
僕は乾いた唇を舐め、誰にともなく呟いた。
僕たちの幸福な休日は、終わりを告げた。
彼らが手に入れたばかりの、絶対に失いたくない温かい居場所を、理不尽な暴力で塗りつぶそうとする『厄災』が、今、静かにその口を開けようとしていた。




