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第26話:泥濘(ぬかるみ)を抜けた朝

 ふわりと、鼻腔をくすぐる柔らかな香りがした。

 陽光に透かした清潔なリネンと、微かに混じる乾いた花の匂い。


 重い瞼をゆっくりと押し上げると、まず視界に飛び込んできたのは、高く広々とした真っ白な天井だった。意匠の凝られた木製のはりが、規則正しく何本も渡されている。

 背中を包み込んでいるのは、喧騒にまみれた薄暗い安宿のせんべい布団でも、冷たい床の感触でもない。まるで雲の中に沈み込んでいるかと錯覚するほど、分厚くてふかふかの最高級のマットレスだった。

 掛け布団は驚くほど軽く、それでいて内側には極上の温もりが保たれている。


「……朝、か」


 掠れた声が、自分でも驚くほど静かに部屋に響いた。

 窓枠に取り付けられた遮光の厚手のカーテンの隙間から、王都の眩しい朝日が一本の光の帯となって床に落ちている。その光の中で、目に見えないほど小さな埃が、キラキラと金色の砂のように舞っていた。

 ゆっくりと上体を起こす。

 途端に、全身の筋肉と骨格から、軋むような鈍い痛みが訴えかけてきた。昨晩のレオンとの死闘――極限まで己の肉体を酷使し、致死量の運動エネルギーをゼロ距離で叩き込んだ『強制出力(イグニッション)』の代償だ。

 特に、砲身として酷使した右腕は、肩から指先にかけて分厚い包帯でぐるぐる巻きに固定されており、微かに指を動かそうとするだけで脳髄を焼くような激痛が走った。

 だが、その痛みすらも、今の僕にとっては「生きている」という何よりの証明だった。


 ここは、王都の一等地。冒険者ギルドが誇る特区に建てられた、瀟洒しょうしゃな二階建ての一軒家だ。

 昨日、あの化け物を僕たち三人だけの力で討伐した直後、駆けつけたシルヴィアさんと共にギルドへ戻った僕たちは、正式に『Aランク冒険者』への昇格を告げられた。

 そして、この家は、王都の防衛力の中核を担う特権階級にのみ与えられる、防護結界付きの専用拠点だった。


「……本当に、僕たちの家なんだな」


 真新しい木製のベッドの縁を左手で撫でながら、僕は小さく息を吐いた。

 ほんの数ヶ月前まで、僕たちは迷宮都市の底辺で、誰からも見向きもされない日陰の存在だった。

 僕たち3人は役立たずと後ろ指を指され、周囲からの冷たい視線と理不尽な扱いに耐えていた日々と比べれば考えられないくらいの幸せが、今、確かな現実としてここにある。


 ベッドから降り、備え付けのクローゼットから真新しいシャツを取り出し、痛む右腕を庇いながら不器用に袖を通す。

 すると、一階から「ある音」が聞こえてきて、僕の耳は自然と惹きつけられた。

 トントン、トトントン。

 小気味良い包丁の音。何かがフライパンでジュージューと焼ける音。そして、楽しげに弾む二つの足音と、鈴を転がすような笑い声だ。


『ああっ、ルナ! 卵の火加減、それくらいで大丈夫だよ! あんまり焼きすぎると固くなっちゃうから!』

『わかった! えへへ、王都のキッチンって凄いね、アイリス! 魔力コンロの火力が全然ブレないの!』


 階段を下りていくと、一階の広々としたリビングの奥から、最高に美味しそうな匂いが漂ってきた。

 こんがりと焼けたベーコンの脂の匂い。バターが溶ける甘い香り。そして、たっぷりの野菜を煮込んだブイヨンスープの芳醇な香りだ。

 リビングに隣接した真新しいシステムキッチンでは、アイリスとルナが、お揃いの真っ白なフリルのエプロンを着けて、忙しなく立ち働いていた。


「あ、アッシュ! おはよう!」


 振り返ったルナが、満面の笑みで僕に手を振る。

 彼女の万華鏡のように輝く神眼は、今は戦闘時の鋭さを完全に潜め、無邪気な年相応の少女の光を宿していた。手には木べらを握りしめ、鼻の頭には少しだけ小麦粉がついている。


「おはようございます、アッシュ君。体の具合はどうですか? 昨日の今日で、まだ痛むでしょう……?」


 アイリスが、火を止めたフライパンから手際よくベーコンエッグを皿に移しながら、僕の顔を覗き込んだ。

 彼女の大きな大盾は、今はリビングの隅に立てかけられている。常に最前線で僕たちを守り続けてくれた鉄壁の少女は、キッチンに立つと、途端にふんわりとした温かい空気を纏うのだから不思議だ。


「おはよう、二人とも。……凄いご馳走だね。匂いだけでお腹が鳴りそうだよ」


 僕が努めて明るい声で言うと、ダイニングテーブルに料理を並べていたルナが、不意にピタリと動きを止め、僕の右腕を見つめた。


「……アッシュ、その腕。すっごく痛そう……」


 ルナの神眼が心配そうに揺れる。包帯の隙間から滲む血の匂いと筋肉の異常を、彼女の鋭い感覚が捉えたのだろう。

 アイリスもまた、エプロンの裾をきつく握りしめ、俯き加減で唇を噛んだ。


「昨日のあのデタラメな反動……私たちがもっとうまく立ち回れていれば、アッシュ君にあんな無茶な撃ち方をさせずに済んだのに……」

「アイリス、違うよ。それは違う」


 僕は左手でアイリスの肩にそっと触れ、ルナに向かっても安心させるように微笑みかけた。


「大丈夫だよ。一晩ふかふかのベッドで寝たら、痛みもかなりマシになったし。これくらい、今まで散々浴びせられてきた冷たい言葉に比べたらどうってことないさ」


 もちろん、それは明らかな強がりだった。指を動かすだけで激痛が走る状態が「どうってことない」はずがない。

 だが、僕がここで痛みを訴えれば、優しすぎる彼女たちは自分の責任だと深く思い詰めてしまう。それは僕の望むところではなかった。


「……ほんと? 無理してない?」

「してないよ。ほら、お腹ペコペコなんだ。早く食べよう」

「もう……。でも、ご飯を食べたら、絶対に王都で一番腕のいい治癒院に行くからね! 私とアイリスで、絶対アッシュを引っ張っていくんだから!」

「わかりました。今日は報奨金もたっぷりありますし、最高の治癒術師に診てもらいましょうね」


 二人の強い言葉に、僕は苦笑しながら「わかったよ」と頷き、上質なオーク材で作られたダイニングテーブルの席に着いた。


「「「いただきます」」」


 声を揃えて挨拶をした後、僕はまず、湯気を立てるミネストローネのカップに左手で不器用に手を伸ばした。

 一口飲む。

 ――美味い。

 トマトの酸味と野菜の甘みが、極限まで疲労した内臓にじんわりと染み渡っていく。ただ温かいというだけで、どうしてこれほどまでに人は安心を覚えるのだろうか。

 続いて、白パンをちぎり、半熟の目玉焼きの黄身につけて頬張る。信じられないほど柔らかいパンの食感と、濃厚な卵の味が口いっぱいに広がった。


「んん〜っ!! 最高!! ほっぺた落ちちゃうよぉ……!」


 向かいの席で、ルナが両手で頬を押さえながら、幸せそうに目を細めている。彼女の口の周りにはパン屑がついていて、見ているだけで自然と笑みがこぼれてしまう。


「ふふっ、ルナったら。でも、本当に美味しいね。自分たちで作った料理を、安全な家で、ゆっくりと食べられる日が来るなんて……」


 アイリスが感慨深そうに息を吐く。

 その瞳の奥には、周囲から「無能」と蔑まれ、自分たちの居場所すら不確かだった悔しい日々の記憶がフラッシュバックしているのだろう。


「……ああ。全部、アイリスの盾と、ルナの目があったからだ。二人とも、ここまで僕を信じてついてきてくれて、本当にありがとう」

「何言ってるのさ、アッシュ。アッシュの頭脳と戦術がなかったら、私たちはとっくに心が折れてたよ。私こそ、アッシュについてきて本当によかったって思ってるんだからね」

「私もです。アッシュ君の背中を守ることが、私の誇りですから。……これからも、ずっと三人で、美味しいご飯を食べましょうね」


 朝日の差し込むダイニングで、僕たちはただひたすらに、ありふれた食事の時間を噛み締めた。

 食後はコーヒーを淹れ、今日の予定を話し合う。

 まずは僕の右腕を治癒院で診てもらい、その後は市場へ自分たちだけの家具や新しい私服を買いに行こうということになった。

 はしゃぐ二人を見送って「出かける準備をしてくる」と自室に戻った僕は、ドアを閉めた瞬間、表情から笑みを消した。


 静まり返った自室の窓辺に立ち、僕はゆっくりと、右腕に巻かれた分厚い包帯を左手で少しだけ解いてみた。

 白い布が外れるにつれ、隠されていた痛々しい現実が露わになる。右手のひらから肘にかけての皮膚は、内出血と極度の摩擦による火傷で赤黒くただれ、異常なほど腫れ上がっていた。


「……大丈夫なわけ、ないか」


 誰に聞かせるわけでもない独り言が漏れた。

 右手のひらから肘にかけての皮膚は、内出血と極度の摩擦による火傷で赤黒くただれ、異常なほど腫れ上がっていた。

 僕の絶対的な切り札である『強制出力(イグニッション)』。

 その前提にあるのは、僕の固有能力である『貯蔵』だ。自身の貯蔵庫ストックにあらかじめ蓄えておいた膨大な魔力を引き出し、まずは自身の肉体を強固にコーティングして保護する。そして次の段階で、貯蔵庫から引き出した魔力を純粋な『運動エネルギー』へと変換し、保護した肉体と手にした魔鉄に直接付与する。

 これによって、爆発的な加速や大砲のような凄まじい攻撃力を叩き出すことができる。


 だが、昨日のレオン戦では――あの規格外の魔力障壁を打ち破るために、僕は付与する運動エネルギーの出力をデタラメに引き上げた。

 その結果生じた莫大な反動リコイルは、ありったけを付与したはずの『魔力コーティングによる肉体の保護上限』をあっさりと凌駕してしまったのだ。

 生身の人間である僕の骨格と筋肉には、明確な「耐荷重の限界」が存在する。もしあの極限状態で、あと二発同じ威力の連射を強要されていたら、僕の右腕は内側から木端微塵に吹き飛んでいただろう。

 これから先、Aランクとして受ける依頼は、迷宮のより深い階層や、理不尽な力を持つ規格外の化け物たちとの戦いになる。

 僕自身の魔力コーティングだけでは、もう反動を殺しきれない。今のままの『使い捨ての砲身(みぎうで)』では、到底ルナやアイリスの隣で立ち続けることはできない。


 僕は痛む右腕を庇いながら、部屋の備え付けのデスクに向かった。

 引き出しから白紙のノートとペンを取り出し、左手で不器用に筆を走らせる。利き手ではないため、綺麗な設計図など引けるはずもない。ノートに描かれたのは、右腕を覆う筒状のいびつなスケッチと、余白に殴り書きされた『いくつかの無茶な要求』だ。


 この世界では、誰もが魔力を魔法陣に通し、炎や氷といった強力な現象として直接放つのが当たり前だ。武器に求めるのも「いかに強力な魔法を撃てるか」という機能ばかり。

 だが、僕が求めているのはそんなものじゃない。攻撃力は僕自身の力と魔鉄さえあればそれでいい。

 僕が欲しいのは、己の100%の火力を躊躇なく放つための、ただの頑丈な『制御装置』だ。

 その『大砲』を放った際に生じる、僕の右腕を粉砕しかねない莫大な『反動』をどう逃がすか。排気孔の角度、内部に組み込む強靭なバネ、あるいは高位の魔法陣そのものを『ただの衝撃吸収クッション』として使う強引なアイデア。

 とにかく反動を殺し、右腕を保護することだけに全振りした、ひたすらに無骨な鉄の筒。

(……僕の頭の中にあるのは、あくまで「こんな風に反動を逃がしてほしい」という物理的なロジックと無茶苦茶な理想だけだ)


 僕はペンを置き、ノートに殴り書きされた子供の落書きのようなスケッチを見つめた。

(問題は、魔法を直接的な攻撃手段とするこの王都の常識の中で、こんな『ただの自爆防止用の鉄の筒』を作ってくれといって、作ってくれる技術者がいるかどうか、だけど……)

 誰からも期待されなかった日陰の底を抜け、最高の仲間と絶対的な帰る場所を手に入れた。

 だからこそ、立ち止まるわけにはいかない。王都の常識を僕たちの計算(物理)で撃ち落とし、彼女たちの隣で笑い続けるために、僕はもっと強くなる必要があるのだ。


「アッシュくーん! 準備できたー? 早く治癒院に行こー!」


 一階から、ルナの元気な声が響いた。


「今行くよ!」


 僕はノートをパタンと閉じ、真新しいシャツの袖で痛む右腕を隠すと、眩しい日常が待つ一階へと向かって駆け出した。

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