56 お母ちゃんとお父ちゃん
ラーラが途中で息切れを起こした。
けれど触れる事が出来ないバルは、助ける事も出来ない。抱き上げて運べるならラーラに辛い思いをさせずに済むのに、バルにはしゃがみ込むラーラを見ているしか出来ない。
ラーラの行方が分からない間も、バルはトレーニングを欠かした事はなかった。
ラーラがいない不安を忘れる為に、また筋肉を増やして置いて筋肉好き疑惑のあるラーラが帰って来た時に喜ばせようとして、バルはトレーニング量を増やしたりもした。
筋肉の為に食事もしっかりと摂っていた。たとえ味が分からなくても、良く噛んで飲み込んだ。
休息だってしっかりと取っていた。眠れなかったけれど、それでも体を横たえて休めた。急に不安になって飛び起きたりはあったけれど、そう言う時は寝室内で出来るトレーニングを始めて、ラーラが帰って来た時の事を楽しく考える事で気持ちを落ち着けて、なるべく横になっていられる時間を増やした。
それなので、バルの筋肉はこの数日だって衰えていない。ラーラを抱き上げて運ぶのだって簡単な筈なのだ。
しかし、バルからラーラに触れる事はもう出来ない。
マスト上りをする時に、さり気なく見せようと思っていた胸筋や腹筋も、ラーラに見せる事はもう出来ない。バルが服を脱ぐなどしたら、ラーラはパニックを起こすだろう。
ラーラは服の上からも筋肉の付き方が分かるらしいから、これからも肌は見せずに鍛えた筋肉を楽しんで貰おう、と考える事でバルはラーラを助ける事が出来ない自分を宥めた。
途中で何度か息切れをしながらもバルを連れて、ラーラは使用人の私室の一つのドアの前に立つ。
ラーラがドアの前でも息を整えて、それから少し躊躇いもして、ノックをすると中から力のない声で返事があった。
「はい?」
ドアが少しだけ開かれ、室内が暗いことが分かる。ドアの隙間から廊下を覗く片目に、バルは生気を感じられなかった。
バルの手首を掴んだラーラの手に力が籠もる。ラーラの肩は小さく小刻みに震えた。
「え?お嬢様?」
ラーラがバルの手首を放し、ドアを押し退けて室内に押し入る。ドアが動かした空気の流れで、饐えた臭いがバルの鼻に届く。
ラーラはドアの傍に立っていた人物に抱き付いた。
「・・・お母ちゃん」
そう聞こえたラーラの上擦ったか細い声に、聞き間違えたとバルは思い、ラーラがなんと言ったのか考える。
室内の奥からも低い声で「え?お嬢様?」と聞こえた。
「お母ちゃん」
「え?あの、お嬢様?」
「あたし、お兄ちゃんと、お姉ちゃんを」
「キロとミリは今、その、急な用事で、出てます」
ラーラに抱き付かれたのは女性だった。
髪はパサパサで目を腫らし、服はヨレヨレで何日も着替えていないのが分かる。
着ているのは喪服だ。それを見てバルは、ラーラ付きの護衛だったキロとメイドだったミリの葬儀で見掛けた、二人の母親マイだと気付いた。
マイに抱き付きながらラーラは嗚咽を漏らす。そのラーラをマイは抱き返した。
開いたドアに暗い室内からもう一人が姿を見せる。
廊下からの明かりで見えたその人物は、ボサボサの髪で目の周りには隈が濃く出来て髭もかなり伸びて、やはりヨレヨレになった喪服を着ていた。
キロとミリの父親ガロンだった。
「もしかして、二人の事を聞いたのか?」
そう言ってガロンはラーラの髪を撫でる。ラーラは小さく肯くと、マイから片手を放してガロンも抱き締めた。
マイがラーラの髪に顔を埋め、ラーラに釣られる様に嗚咽を漏らし始める。ガロンはラーラとマイを抱き締め、目を瞑って涙を少し零しながら、何度も鼻を啜った。
「お父ちゃん、お母ちゃん、あたし、お兄ちゃんとお姉ちゃんを殺したの」
そう言うとラーラは小さく泣き声を上げた。
マイも泣き声を上げ、ガロンは嗚咽を漏らす。
しばらくしてラーラの体力が尽きた。
ガクンガクンと膝が震え、ラーラは立っていることが出来なくなる。
「ラーラ!」
バルはラーラに手を伸ばし掛けて止める。
その声にガロンとマイは廊下に立つバルに初めて気が付いた。
マイとガロンがバルに顔を向けながら、ラーラの体を支える。
「バル様?なんでここに?」
「取り敢えず横にさせるぞ」
そう言ってガロンはラーラを抱き上げた。
「あ、うん。バル様、失礼致します」
マイはバルに頭を下げてドアを閉めようとした。そこにラーラが声を出す。
「バル様に入って貰っても良い?」
「え?」
ドアを閉め切らない状態で止めて、マイは部屋の奥を見た。その視線の先にはラーラがいるはずだけれど、廊下に残されたバルからは見えない。
「こんな汚い所、貴族様に入って頂く訳には行かない」
奥から聞こえたガロンの声に、ドアの傍のマイも「そうよね」と肯いた。
ラーラの、上擦ってはいるが明るい口調の声が聞こえる。
「汚いよね。何日も掃除してないんじゃない?」
「謙遜して言ったんだ」
「汚いよ。お父ちゃんも汚いし臭いし」
「抱っこして貰いながら、良くそう言う事が言えるな?」
「謙遜して言ったの」
「なんでだよ」
そう言うとクスクスと笑う声が聞こえ、マイも微かに表情を緩めた。
「あたし、バル様にも話を聞いて貰わなきゃだから、廊下で話そう。お父ちゃん、廊下に連れてって」
「いやお前、体調悪いんだろ?」
「そうだよラーラ。少し休みなって」
ラーラとガロンの会話にマイが口を挟んだ。
「ダメ。早くしないといけない話だから」
ラーラの声にマイが困った様に眉尻を下げる。室内からはわざとらしいガロンの溜め息が聞こえた。
「はぁ全く。ラーラは仕方ないな」
「そうね。言い出したら聞かないんだから。バル様、少しお待ち下さい」
そう言うとマイはバルに頭を下げて、ドアを閉めた。
バルは手を伸ばし掛けた格好のまま、動けていなかった。
ラーラがマイに抱き付いたのも、ドランに髪を撫でさせたのも、ドランにも抱き付いたのも、ドランに抱き上げられて運ばれたのも、ドランとマイに名前を呼び捨てられているのも、そもそも二人をお父ちゃんお母ちゃんと呼ぶのも、見たり聞いたりする度にバルの思考を停止させていた。
バルの中に名状しがたい感情が渦巻く。
でも、ラーラのあたしって言う一人称は舌っ足らずで可愛い、などと言う気持ちも渦巻きの中にあった。




