第二話 追放の馬車と、ひとつの優しい色
追放される朝は、いっそ清々しいくらい、よく晴れていた。
わたしの荷物は、鞄ひとつに収まってしまった。侯爵令嬢の十八年分にしては、ずいぶん身軽なものだ。もっとも、ドレスも宝飾も、そのほとんどは「家のもの」であって、わたしのものではなかったのだけれど。
玄関ホールには、見送りの人が並んでいた。父も、義母も、使用人たちも。
けれど、そこに立ちのぼる色は、見事なまでに揃っていた。全員、判で押したような灰色。無関心と、早く厄介事が片づくことへの安堵の、濁った灰。
(見事なものね。誰ひとり、わたしを惜しんでいない)
前世で会社を辞めた朝を、ふと思い出した。引き継ぎ資料を作りきって、菓子折りを置いて、頭を下げて。そうして振り返ったオフィスの、あの「もう他人事」という空気。あれと、そっくり同じだ。
だから、湿っぽい気分にはならなかった。むしろ——やっと、この濁った家を出られる。
わたしは淑女らしく礼をして、くるりと背を向けた。この一週間で、ずいぶん様になった動作だ。
*
門の外に、迎えの馬車が停まっていた。
金の紋章も、けばけばしい装飾もない。頑丈さだけを考えて作られた、質実な馬車。そのかたわらに、男が一人、静かに立っていた。
初老の、背筋のまっすぐな男だった。皺の刻まれた顔に、糊のきいた黒い上着。どこからどう見ても、行儀のいい執事にしか見えない。
「お待ちしておりました。セレスティア様。ヴァルトハイム公爵家で家令を務めます、セバスと申します」
その名が出たとたん、背後の使用人たちが、そろって半歩、後ずさった。“氷の殺戮公”の名は、その手の者にまで恐怖を届かせるらしい。見送りの灰が、いっせいに強張った。
わたしは、というと。
セバスと名乗った男の全身をまとう色を見て、内心で首をかしげていた。
(……あれ。緑?)
穏やかな、深い森みたいな緑だった。安らぎと、長く積み重ねた忠誠の色。害意の黒紫なんて、ひとかけらも差していない。
おかしな話だ。血も涙もない化け物に仕えて、これほど凪いだ緑でいられる人間が、いるものだろうか。仕える主人が本当に噂通りなら、この爺の色は、とっくにすり切れて灰色に濁っているはずなのに。
——噂と、色が、揃っていない。
またこれだ。
「セレスティア・アーデンフェルトです。……セバスさん、と呼んでも?」
「セバス、で結構でございます、奥様」
奥様。
その一言に、ほんの少し、胸のあたりがくすぐったくなった。
セバスは馬車の扉を開け、わたしの鞄を——「荷物」ではなく、まるで割れ物でも扱うみたいに、そっと運び入れた。
*
馬車は、北へ向かった。
王都カレンディアを出て、街道をひたすら北上する。日を追うごとに、窓の外の景色から色が抜けていった。華やかな石畳の街は遠ざかり、畑が、森が、荒れた岩肌が流れていく。空気が、少しずつ冷たくなる。
そして、北へ近づくほど。宿場町で耳にする噂が、濃くなっていった。
「北へ行きなさるのかい。まさか、あの“氷の殺戮公”のところじゃあるまいね」
宿の女将が、声をひそめて言った。面白半分の灰が、その名を口にするたび、わずかに強張る。
「逆らった兵を、まるごと氷漬けにして砕いたって話だよ。魔物より、人を斬った数のほうが多いんだと。まあ、恐ろしい」
同じ卓の旅人たちも、我も我もと口を挟む。首を刎ねただの、笑ったところを見た者がいないだの。語れば語るほど、話は尾ひれをつけて膨らんでいく。
わたしは黙って、スープを口に運んでいた。
こういう「みんなが知っている噂」というやつを、わたしは前世からあまり信じない主義だ。大きな声で語られる話ほど、本人から遠いところで、勝手に育っているものだから。
隣で、セバスは静かにパンをちぎっていた。
主人がこれだけ好き放題に言われても、彼は眉ひとつ動かさない。反論もしない。弁明も、しない。ただ——その緑が、少しも濁らないままだった。
わたしは、その緑を横目に、そっと考える。
主人をこれだけ好き放題に言われて、ただ黙っている。反論も、弁明もしない。なのに、その緑は、波ひとつ立たない。怒りでも、諦めでもない沈黙だった。まるで、言い返す必要なんてどこにもない、とでもいうような。
色は、答えを教えてはくれない。人の心の“中身”までは、視えないから。ここから先は、自分の頭で考えるしかない。
だから、わたしは決めた。声高な噂よりも、この目に映った静かな緑のほうを、ひとまず信じてみる、と。
*
事件は、その翌日の宿場町で起きた。
北へ向かうなら防寒具が要る、とセバスが馬具屋に立ち寄ったときのことだ。店主が、わたしの身なりをちらりと値踏みして、毛皮の外套に、目玉が飛び出るような値をつけた。
「これは上物でしてね。都のお嬢様には、これくらいが釣り合いってもんでさ」
にこやかな、愛想のいい笑顔。けれどその下で、彼の色は——愛想笑いの灰に、べったりと黄濁が差し込んでいた。嘘と、いまのうちに吹っかけておこうという、せかされるみたいな強欲の焦り。
ふうん。貴族の令嬢なら世間知らずで、言い値で買うとでも思ったか。
生憎だけど。わたしの中身は、企画も総務も庶務も丸ごと押しつけられて、業者との値段交渉で毎日すり減っていた、佐倉澪なんだけど。
「まあ、素敵。……ところで、隣の店でも似た品を見かけたのだけど、こちらの半値でしたわ。同じ北の毛皮で、仕立ても悪くなかった」
嘘だ。隣の店なんて見ていない。でも、相場からすれば、そのくらいが妥当なところ。
店主の黄濁が、ぐらりと揺れた。「い、いや、それは質が」と口ごもる。綻びが出た。
「あら、では品を比べさせていただこうかしら。セバス、隣も見てみましょう」
「ま——待ってくだせえ、お嬢様! いや、奥様! よく見りゃ、これはそこまでの上物でも……ええと、この値でいかがでしょう」
つけ値は、あっさり半分以下に落ちた。
わたしは、にっこり微笑んで、正しい値の外套を受け取った。声を荒げる必要も、身分をかざす必要もない。ただ、相手の嘘の綻びを、静かに一つ突いてやればいい。
ふと隣を見ると、セバスが、目を細めていた。
その緑が、ほんの少しだけ、濃くなっている。
「奥様は」と、セバスは低く言った。「……噂で伺っていた“氷のお嬢様”とは、ずいぶん、違っておられる」
「あら。わたし、そんなに冷たいと言われていて?」
「表情が乏しく、何を考えているか分からぬ、と。……ですが」
セバスは、ほんの少し口の端を上げた。
「旦那様も、同じことを言われるお方でしてね」
*
その夜。宿の部屋で、セバスが一枚の外套を差し出した。
さっき買ったものではない。もっと上質な、深い色合いの、辺境の寒さをちゃんと知っている者が選んだとしか思えない外套だった。
「旦那様より、あらかじめお預かりしておりました。北の冬は、都の比ではございませんので。……お屋敷のお部屋も、日当たりのよい南向きに、整えてございます」
わたしは、その外套を受け取ったまま、しばらく言葉を失っていた。
会ったこともない。噂は、最悪だ。氷漬けだの、首を刎ねるだの、さんざん聞かされてきた。
なのに——この気遣いは、いったい何。
北の寒さを知る者なら、外套くらい用意するのかもしれない。南向きの部屋だって、たまたまだと思えなくもない。……そう思おうとして、うまくいかなかった。だって、あんまり的確すぎる。
外套の生地は、驚くほど暖かかった。
わたしは窓を開けて、北の空を見上げた。星が、王都よりずっと近くに、冷たく澄んで光っている。肩にかけた外套は、その冷気のなかで、呆れるくらい暖かかった。
顔も知らない。噂は、最悪。それなのに、この暖かさだ。
(“氷の殺戮公”。あなたは——いったい、どんな色をしているの)
お読みいただき、ありがとうございます!
迎えに来た家令セバスの“緑”、そして顔も知らない公爵からの妙に的確な気遣い……セレスの旅は、少しずつ「噂」と「本当」がズレていきます。
次回、いよいよ辺境ヴァルトハイムへ。“氷の殺戮公”の色を、セレスがその目で確かめます。
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