第三話 化け物の城と、あたたかすぎる色
十日の旅の果てに、ヴァルトハイムの城は現れた。
北の岩山を背にして、無骨な石造りの城が立っていた。飾りはほとんどない。華やかさで人を圧するのではなく、ただ「ここで守り抜く」という一点のためだけに積み上げられた石だ。都の、人に見せるための宮殿とは、まるで思想が違う。
——これが、“氷の殺戮公”の巣。
道中さんざん聞かされた噂が、いやでも頭をよぎる。逆らった兵を氷漬けにして砕いた。魔物より、人を斬った数のほうが多い。そんな男の城だ。血の匂いのする凍てついた場所で、仕える者はみな、鞭に追われるように怯えて暮らしているのだろう——と、わたしは半ば身構えていた。
門をくぐる。
そして、拍子抜けした。
城の内側は、思いのほか、生きていた。中庭では洗濯物がはためき、厩から馬の嘶きが聞こえ、どこかで薪を割る音がする。すれ違った下働きの少年が、物珍しそうにこちらを見て、あわてて頭を下げた。ごく当たり前の、人の暮らしの気配。
大広間に通されると、使用人たちがずらりと並んで、わたしを出迎えた。
わたしは、そっと身構える。ここで初めて、彼らの色を視るのだ。化け物に仕える者たちの色を。きっと、判で押したような灰——保身と、諦めと、ひび割れた忠誠の、濁った灰が並んでいるのだろう、と。
ところが。
広間に灯っていたのは、緑だった。
深く、穏やかな、森みたいな緑。安らぎと、長く根を張った忠誠の色。ひとりやふたりではない。居並ぶほとんどの者が、その緑をまとっていた。ところどころに、親愛の桃までまじっている。
——嘘でしょう。
順番が、まるで逆だ。恐怖で人を縛る主人のもとで、どうしてこんな色が育つというのか。鞭で従える城なら、灰がはびこっていなければおかしいのに。
「奥様。当家の侍女頭、ヨハンナでございます」
セバスに紹介されて進み出たのは、ふくよかな初老の女性だった。目尻に深い笑い皺。その全身は、温かい緑に、ふわりと桃を溶かしたような色をしている。作り物の愛想笑いにありがちな、灰の裏地は、どこにもない。
「ようこそおいでくださいました、セレスティア様。長い旅路、さぞお疲れでしょう。お部屋はすっかり整えてございますからね」
まるで、本当に孫でも迎えるような口ぶりだ。……これが演技だとしたら大したものだけれど。生憎、色は嘘をつかない。この緑と桃は、芯から本物だ。
「あの、公爵様は——」
と尋ねかけて、わたしは広間を見回した。それらしい人影は、どこにもない。
「旦那様は、ただいま城を空けておられます」とセバスが答えた。「北の砦にて、裂け目のお務めを。お戻りは、じきに、と」
裂け目。魔物の湧く、北の最前線。噂に聞く“殺戮”の、おおもとの場所だ。
——花嫁が来るというのに、当人は魔物退治で留守、と。ずいぶんな歓迎ね、と皮肉のひとつも言いたくなる。けれど、居並ぶ使用人たちの緑は、主人の不在をそしる色ではなかった。むしろ、「またあの方が、わたしたちの代わりに危ないところへ」と案じるような、揺れる緑。
この人たちは、主人を——恐れていない。案じている。
そのときだった。列の端に、ひとつだけ、色の違う子がいた。
まだ十四、五の、痩せた侍女の少女。その灰が、こわばっていた。びくりと縮こまるように、身を固くしている。ほかの緑のなかで、そこだけ強張った灰が、いやでも目に飛び込んでくる。
害意の黒紫ではない。嘘の灰でもない。——これは、身を守ろうとする強張りだ。何かに怯えて、必死に身構えている。
少女は、わたしと目が合うと、ますます灰を固くして、うつむいた。
……ああ、なるほど。この子が怖がっているのは、公爵じゃない。わたしだ。
中央から来た、貴族の令嬢。噂の“氷の令嬢”。表情が乏しく、何を考えているか分からない、冷たい女。道中でセバスが漏らした、わたしの評判。この子はきっと、意地悪な新しい奥様が来る、と身構えているのだ。
わたしの中身が本物の令嬢だったら、気にも留めなかっただろう。侍女の一人がびくついていようが、知ったことではない。
でも、生憎わたしは、佐倉澪だ。新入りの緊張なら、痛いほど覚えがある。初出社の朝、こわい先輩の機嫌を窺って、給湯室で手が震えた、あの感じ。
だから、わたしは列のほうへ歩いていって、その子の前で、少しかがんだ。令嬢が侍女に目の高さを合わせるなんて、たぶん行儀の悪いことだ。ヨハンナが、おや、という顔をする。
「お名前は?」
「……り、リーゼ、です」
「リーゼ。長い旅で、荷物が多いの。あとで、部屋まで運ぶのを手伝ってくれる? ……わたし、この城のことは何も知らないから。いろいろ教えてくれると、助かるのだけれど」
少女の灰が、ほんの少し、ゆるんだ。強張りがほどけて、代わりに、おずおずと桃が滲みはじめる。こちらを窺うような、淡い桃。
「……はい。はい、奥様」
うん。ひとり目の味方、確保。声を荒げる必要も、飴を握らせる必要もない。ただ、怖がらなくていいと、態度で伝えればいいだけ。
*
通された部屋は、城の南向きの一角にあった。
北国の城にしては、驚くほど日当たりがいい。暖炉には、もう火が入っている。窓辺には、旅の埃を払うための湯まで用意されていた。——セバスが道中で言っていた通りだ。「お部屋は、日当たりのよい南向きに整えてございます」と。
約束どおり、リーゼが鞄を抱えて、部屋までついてきてくれた。さっきの強張りは、もうない。淡い桃を滲ませて、それでも大役を任されたみたいに、唇をきゅっと結んでいる。
「奥様。この部屋、旦那様が——」と言いかけて、リーゼは、慌てて口をつぐんだ。
「旦那様が?」
「……その。お発ちになる前に、わざわざ言い置いていかれたんです。『北から嫁いでくる人じゃない、南から来る人だ。いちばん日当たりのいい部屋にして、薪も多めにしておけ』って」
——ふうん。
「リーゼは、旦那様が怖くないの?」
わたしが尋ねると、少女はきょとんとして、それから、心外そうに首を振った。
「お顔は、こわいですけど。……去年の冬、あたしの弟が熱を出したとき、旦那様、砦のお医者様を寄越してくださったんです。下働きの、名前もご存じないはずの弟に。都のお貴族様なら、そんなこと、なさらないでしょう?」
なさらない。断言できる。前世でも今世でも、そういう手合いの「上の人」を、わたしは嫌というほど見てきたから。
そして、気づく。リーゼの桃は、旦那様を語るあいだ、少しも濁らなかった。恐れの強張りも、嘘の灰もない。ただ、淡い桃に、誇らしげな金が、ちらりと差すだけ。
会ったこともないわたしのために、いちばん暖かい部屋を。上質な外套を。……氷漬けだの、首を刎ねるだの、さんざん聞かされてきた、あの男が。
噂と、この部屋の暖かさが、どうしても、ひとつに重ならない。
*
その夜。寝支度を手伝いながら、ヨハンナがぽつりと言った。
「旦那様のこと、道中でいろいろお聞きになったでしょう。恐ろしい噂ばかり」
「……ええ、まあ」
「みんな、あの方の“顔”しか見ていないんですよ」とヨハンナは、困ったように笑った。「こわい顔と、剣の腕しか。その奥まで見てくださった方が、都には、ついぞ、おられなかっただけ」
——中身を、見た人がいない。
その言葉が、妙に胸に残った。だってそれは、顔でも言葉でもなく、本当のところを、誰にも見てもらえなかった人、ということだ。それなら、わたしと、そう変わらない。
寝台に横になって、天井の梁を見上げる。
そう遠くない日に、その人は帰ってくる。都じゅうが恐れ、この城じゅうが慕う、まるで正反対の顔を持つ男。
どちらが、本当なのか。
——大丈夫。わたしには、それを確かめる目がある。
顔でも、噂でもなく。その人が本当はどんな色を灯しているのか、この目で、じかに視てやる。
そう思ったとき。理由もなく、心臓が、ひとつだけ、小さく鳴った。
お読みいただき、ありがとうございます!
辺境ヴァルトハイムの城は、噂とは裏腹の“あたたかい色”ばかり。セレスの理解者も、リーゼをはじめ少しずつ増えていきます。
そして——そう遠くない日、都じゅうが恐れる“氷の殺戮公”が、ついに城へ帰ってきます。セレスの目に、その人はどんな色で映るのか。
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