第一話 婚約破棄と、視えてしまった色
「セレスティア・フォン・アーデンフェルト。貴様との婚約は――破棄するッ!」
王家主催の夜会。何百というろうそくに照らされた大広間の中央で、婚約者であるユリウス王子が、腕をふりかざしてそう言い放った。
楽団が音を踏み外して止まる。数百の視線が、いっせいにわたしへ集まった。
――その瞬間だった。
こめかみの奥で、何かがぶつっと切れた。針で刺したような痛みが走り、視界がぐらりと傾く。シャンデリアの金も、貴婦人たちのドレスの緋も、磨いた床の白も、世界からいっさいの色がすうっと抜け落ちて。
かわりに、まったく別の色が滲み出してくる。人から。
ユリウス王子の全身が、どろりとした灰色に濁っていた。長く放置した水槽の水みたいな、濁った灰。
(……なに、これ)
めまいをこらえてまばたきをする。消えない。むしろ、はっきりしてくる。
――なんだか、この感じ。前世で見た気がする。
その一語をきっかけに、頭の底から別の記憶が浮かんだ。目に刺さる蛍光灯の白。冷めていく飲みかけのコーヒー。誰も減らしてくれない、積み上がったままの依頼メール。
佐倉澪、二十八歳。企画も総務も庶務も押しつけられて、終電で帰り始発で出て。ある朝、椅子から立とうとして、そのまま立てなくなった。
――ああ、あの朝の続きか。
なるほど。完全に理解した。理解した上で、ひとつだけ言わせてほしい。
(過労で死んで令嬢に転生した上に、今この瞬間、大勢の前で公開処刑されてる……ってコト!?)
我ながら、飲み込みが早い。社会人スキルというやつだ。
「聞いているのか、セレスティア!」
ユリウスがまた吠えた。声に合わせて、まとった灰がびりびりと震える。恥をかかされた、と思っている人間の色だ。そこにわたしへの想いなんてものは、もう一滴も残っていない。
まあ、もともと政略の婚約だ。こちらも、愛があったふりをする気はない。
「お前という女は、この心優しいミレイユを、陰でさんざん虐げていたそうだな。階段から突き落とそうとし、あろうことか、茶に毒を盛ろうとした!」
会場がどよめいた。
毒。へえ。ずいぶん派手な罪状を、よくもまあ盛ったものだ。前世なら「事実確認が取れておりません」で差し戻す案件なんだけど。
「わ、わたし……セレスティア様は、その、わたしがユリウス殿下と少しお話ししただけで……っ」
ミレイユが、消え入りそうな声で言う。長いまつげを震わせ、今にも倒れそうに胸を押さえて。誰の目にも、いじめられた儚い令嬢に映るだろう。
――ただ、わたしの目には。
その細い肩をまとう黄みの濁りが、言葉を重ねるほどに、こってりと濃くなっていくのが視えた。涙は本物みたいに濡れている。なのに、その下の色だけが、噓みたいに濃い。
言葉と、色が、まるで揃っていない。
以前のセレスティアなら、ここで凍りついただろう。身に覚えのない罪、味方のいない広間、婚約者の裏切り。俯いて、震えて、消えたいと願ったはずだ。現に、ドレスの脇に垂らした指先が、かすかに震えている。
でも、これはセレスティアの手の癖だ。わたし――澪の心は、驚くほど凪いでいた。
(他人の都合で人生を決められるのは、前世でもう、うんざりするほど味わった)
だから、すう、と息を吸う。背筋を伸ばして、できるかぎり優雅に微笑んだ。
「かしこまりました、ユリウス殿下」
「……なに?」
「婚約の破棄、謹んでお受けいたします。長らくお世話になりました。どうぞ、お幸せに」
しん、と広間が静まり返った。
やがて、ユリウスの灰色に、ぱっと赤が差した。怒りだ。想定と、まるで違ったのだろう。泣いてすがるか、無実を叫んで取り乱すか――そういう筋書きを、用意していたに違いない。
「な……開き直る気か! 自分の罪を認めるのだなっ」
「いいえ。ただ、これ以上ここに留まる理由がない、と申し上げているだけです」
ミレイユの黄濁が、ぐらりと揺れた。勝ったはずなのに、足元が崩れる――そんな揺れ方だった。
いい気味、なんて言わない。品のない言葉は使わない主義だ。ただ、視えてしまうだけ。飾りたてた言葉の、その下で。
わたしは裾をつまみ、二人にきっちりと淑女の礼をして、くるりと背を向けた。ヒールの音を、わざと一歩ずつ、ゆっくり響かせながら歩く。
背中に刺さる視線の温度が、みるみる下がっていくのがわかった。振り返って確かめる気にも、もうならない。
*
大広間を出た廊下で、わたしを待っていたのは、実の父――アーデンフェルト侯爵だった。
助けに来てくれた、なんて甘いことは期待していない。案の定、父の全身は隠しようもない灰色にべったりと包まれている。娘より、家名。わかりやすい人だ。おかげで、気は楽になる。
「セレスティア。よくも、家名に泥を塗ってくれたな」
「わたしは何も。殿下が勝手に婚約を破棄なさっただけですが」
「言い訳を聞きたいのではない」
父はハンカチで額を押さえた。まとった灰に、じわりと黄みが差し込む。世間体という毒に、ずっと浸かって生きてきた人の色だ。
「王家の顔を潰すわけにはいかん。このスキャンダルは早々になかったことにする。――お前を、辺境へやる」
「辺境?」
「北の、ヴァルトハイム公爵領だ。あの“氷の殺戮公”のもとへ嫁げ。話はもうつけてある」
その名が出た瞬間、廊下の隅で聞き耳を立てていた貴族たちが、そろって息を呑んだ。扇の陰で、ひそひそと囁きが漏れる。
「まあ……よりにもよって、あの方のところへ」
「戦場で幾人もの首を刎ねた、血も涙もない御方だと聞くわ。歯向かう者は凍らせて砕くのだとか」
憐れみを装った囁きの裏で、彼女たちの色は、うっすらと面白がる灰に濁っている。他人の不幸は蜜の味、というやつだ。前世でも、この色にはさんざん出くわした。
要するに、これは体のいい厄介払い。厄介事を遠くへ捨て、蓋をして、なかったことにする気だ。
――普通なら、絶望する場面なのだろう。
顔も知らない“殺戮公”のもとへ、追放も同然に嫁がされる。味方はなく、帰る家もない。
でも。人の本心が、こうも色で視えるようになってしまったわたしには、なぜだろう。この理不尽な流刑が、そう悪くない予感がしていた。
だって――この夜会を、この王都を、これほどびっしり埋め尽くす濁った灰色の海の中で。まだ会ったこともない、その人の色だけは。まだ、誰にも汚されていないのだから。
開いたままの大扉の向こう、北の空を見上げる。
(さて。“氷の殺戮公”さまは、いったい、どんな色をしているのかしら)
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追放された先で、セレスは“氷の殺戮公”とどんな色で出会うのか——次回、いよいよ物語スタートです。
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