49話 余火
ノエルは、ジェイクと共に魔海の入口へ立っていた。
風が止んでいる。
森も、霧も、
妙なほど静かだった。
曖昧だった境界線が、
今ははっきり分かる。
この霧の向こう。
そこだけ空気が違う。
まるで、
巨大な生物が息を潜めているようだった。
「……嫌な静けさだな」
ジェイクが低く呟く。
空を見上げる。
陽は、もう沈みかけていた。
「もうすぐ夜だ」
「本当に行くのか?」
ノエルは霧の奥を見たまま答える。
「学院生達は、まだ戻っていないらしい」
一拍。
「私の勘が、外れている事を祈るばかりだ」
ノエルは、霧の中に足を踏み入れた。
◇
「……助かった、んだよな?」
誰かが呟く。
「ああ……生きてる」
返事をした騎士の声は硬かった。
その視線の先。
地面へ倒れ伏している黒髪の少年。
ユウリの周囲だけ、不自然に地面が抉れていた。
「……人間が使っていい力じゃねぇ」
「おい、やめろ」
「だが実際見ただろ……!」
声が震えている。
恐怖を押し殺すような声だった。
「護衛対象に助けられるとは、複雑なんてもんじゃねぇな」
「アンセム! おい、生きてるか!」
「……なん、とか」
血に濡れたアンセムが、
苦しそうに息を吐く。
騎士達も教師陣も、満身創痍だった。
だが。
誰も、
先ほど起きた現象について口にしようとはしない。
いや。
口にする事を本能的に避けていた。
「……見たことがない」
ぽつりと、
エルヴィンが呟く。
「少なくとも、
我々の教わった降霊術じゃない」
その言葉で、
教師陣の空気が変わった。
セオドールが眉を顰める。
アルマリアは、
倒れているユウリを無言で見つめていた。
何かを考えるように。
何かを確かめるように。
そして――
「まだ敵がいないとも限らない」
「悪いが、すぐに移動を――」
イグナシオがそう言いかけた瞬間。
全員が、森の奥から近づいてくる気配を察知した。
騎士達が反射的に武器を構える。
だが。
「待て」
ノエルだった。
帰路の方から現れた彼女は、
周囲を見渡した瞬間、僅かに目を細めた。
ジェイクも言葉を失っている。
「……なんだ、これは」
焼け跡。
だが、
熱は残っていない。
それどころか。
魔影の死骸すら存在しなかった。
綺麗すぎる。
まるで、
最初から“何もいなかった”かのように。
ノエルはゆっくりと地面へ膝をつく。
指先で、
黒く焼けた土へ触れた。
「……魔力反応が、無い」
ジェイクが眉をひそめる。
「あり得るのか? こんな事が」
ノエルは答えない。
代わりに、
何かを探るように視線を巡らせた。
(消えている……?)
違和感。
いや、
異常だった。
夜の魔海。
本来なら、
濃密な魔力と魔影の気配で満ちているはずの場所。
なのに。
何も無い。
静かすぎる。
虫の音すら聞こえなかった。
そして。
ノエルの視線が、
倒れているユウリへ向く。
引き裂かれた衣服。
傷だらけの身体。
そして、
胸元で微かに熱を残す御守り。
「…………」
ノエルは目を細めた。
次の瞬間。
焼け落ちた地面を見た彼女の表情が、
初めて僅かに変わる。
「……まさか」
その呟きは、
誰にも届かなかった。
満月が、静かに戦場跡を照らしていた。
◇
全員で生還できたこと自体、
奇跡だったのだろう。
学院へ帰還した瞬間、
学年主任のエルドが駆け寄ってきた。
怒号。
悲鳴。
慌ただしく運ばれていく負傷者達。
意識の戻らない者は医務室へ。
動ける生徒達も、
ろくに説明を受けないまま解散となった。
リナ自身も、決して無傷ではない。
全身が重い。
魔力を使い切ったせいか、
指先の感覚すら曖昧だった。
それでも、
致命傷は無い。
だからリナは、
誰にも呼び止められないうちに、
自室へ戻った。
扉を閉めた瞬間。
張り詰めていたものが、
一気に緩む。
「……はぁ」
小さく息が漏れた。
ようやく一人になれた。
疲労がどっと押し寄せる。
脱ぎかけたローブに視線を落とし、
リナは少しだけ動きを止めた。
ユウリから借りたローブ。
破れ、
焦げ、
もうぼろぼろだ。
それでも。
なぜか捨てる気にはなれなかった。
リナはそれを丁寧に畳み、
静かにシャワールームへ向かった。
熱いシャワーが、
汗と血を洗い流していく。
瞼を閉じるたび、
脳裏に浮かぶ。
満月。
炎の形をした"何か"。
倒れていくユウリ。
「……バカ」
小さく呟く。
無茶ばかりする。
いつも、
自分の事を後回しにして。
なのに最後まで、
誰かを守ろうとしていた。
胸の奥が、
少しだけ痛かった。
そして。
短刀を握る右腕に刻まれていた、
あの刺青。
シャワーを止める。
静寂。
濡れた髪をかき上げながら、
リナは小さく息を吐いた。
その動きに合わせ、
腰元が僅かに覗く。
そこには。
ユウリのものと、
どこかよく似た刺青が刻まれていた。
第一章完結です。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
魔海での撤退戦、
そしてユウリの覚醒まで、
ずっと書きたかった場面をようやく描くことができました。
ただ、
物語としてはまだ序章に過ぎません。
ユウリの使う降霊術。
王国が隠している歴史の真実。
そして、ホノカとは何なのか。
第二章から、
少しずつ物語の核心へ踏み込んでいきます。
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