48話 守りたい
はなから限界だったのだ。
オレンジ色の霧が、タイムリミットを告げるかのように徐々に暗くなっていく。
学生二十名。
それに加え、負傷者を抱えたままの撤退戦。
戦力として数えられるのは、教師陣を含めても僅かだった。まともに戦えるのは、教師陣と騎士団を合わせても十五人ほど。
しかも、降霊術は魔力消費が激しい。
魔力が尽きた学生は、一人で歩くことすら困難になる。
守るべき人間は増え続けるのに、
戦える者は減っていく。
「なんで、アイツはまだ動けるんだ……」
レオナルドが、半ば呆れたように呟く。
「あの規格外アバターの加護がなければ、早々に我々の魔力も尽きていただろう」
担任のセオドールが、肩の上の小さな精霊を見ながら答える。
――それでも。
ここまで崩壊せずに撤退することができたのは、ある種の奇跡だった。
嬉しい誤算も、
確かにあった。
学院生の中に、
魔法師団の若手エース――エルヴィン・アーチバルドがいたこと。
そして、
学院生達が“降霊術”を専門に学んでいたこと。
防御。
火力支援。
即席の障壁展開。
学院生達の降霊術が、
崩れかける隊列を辛うじて支えていた。
だが――
それ以上に。
皆の視線を引いていたのは、
一人の少年だった。
マント代わりに、
ぼろぼろのローブを纏う黒髪の少年。
赤い瞳に、
不屈の意思を宿している。
二刀が閃く。
霧の中から飛び出した魔影が、
一瞬で崩れ落ちた。
止まらない。
疲弊しているはずなのに、
誰よりも前へ出続けている。
無言で敵を屠り続けるその姿は、
いつしか隊列全体に勇気を与えていた。
そして、夜が来た。
空から最後の夕焼けが消え、森は青黒い夜に沈み始めていた。
霧はいつの間にか無くなっていた。
少しだけ森のひらけた場所を月明かりが照らす。
朝に通った道だ。
「みんな! ここまで来ればあと少しだ!」
「一気に抜けるぞ!」
イグナシオの声が飛ぶ。
その言葉だけで、
止まりかけていた足に力が戻った。
生きて帰れる。
誰もが、
そう思いかけた瞬間だった。
「ピピッ!」
ピクルが鋭く鳴く。
直後。
ユウリの背筋を、
凄まじい悪寒が駆け抜けた。
「敵襲だ!!」
――音が無い。
闇の中から、
数え切れない影が飛び出した。
黒い四肢。
細長い尾。
木々を蹴り、
地を這い、
獣じみた速度で迫ってくる。
「クソっ、突破された!」
騎士の怒声。
「キャアアアッ!」
悲鳴。
「大丈夫か!? しっかりしろ!」
「なんだコイツら、攻撃が当たらねえ!」
魔影は、
これまで遭遇した個体とは明らかに違っていた。
速い。
いや、
“逃げる”のが異様に上手い。
草陰へ潜り、
死角から飛び込み、
一撃だけ加えて即座に離脱する。
まるで。
獲物が弱る瞬間を、
ずっと待っていたかのような動き。
(……囲まれてる)
ユウリが歯を食いしばる。
視界が悪い。
森のどこに何匹潜んでいるのか分からない。
しかも、
魔影同士が連携している。
木の上。
森の奥。
左右。
全方向から、
殺気だけが降り注いでいた。
「密集するんだ! 隊列を崩すな!」
イグナシオが叫ぶ。
だが。
その瞬間。
ユウリの背後。
森の中で、
赤い眼光が幾つも灯った。
――来る。
反射的に振り返る。
飛び出してきたのは、
猿のような異形だった。
異様に長い腕。
地を擦るほどの前肢。
そして、
人間を嘲笑うように歪んだ口。
エンキ。
浅層ではまず見ない、
群れで狩りを行う魔影。
その数――十を超える。
「チッ……!」
ユウリが二刀を構える。
だが、エンキ達は安易に近づいてこない。
間合いの外。
一定距離を保ったまま、
じっとこちらを観察していた。
疲弊した獲物を見定めるように。
そして。
群れの奥。
ひとまわり大きな影が、
ゆっくりと立ち上がる。
月明かりの下、
二つの赤い眼だけが爛々と輝いた。
低い唸り声。
巨大な陰は、
その場から動かない。
だが。
それを合図にしたかのように、
周囲の気配が一斉に揺れた。
「来るぞッ!」
「ここで迎え撃つ!」
次の瞬間。
木々の上から、
二体のエンキが飛び降りる。
「――ぐッ!」
前衛の騎士が盾で受け止める。
ほぼ同時。
別方向から飛び出した影が、
負傷者の列へ一直線に突っ込んだ。
「しまっ――」
アンセムが反射的に踏み出す。
剣閃。
飛び掛かったエンキの腕を斬り飛ばす。
だが。
(浅い――!)
致命傷ではない。
エンキは地面を転がりながら距離を取る。
その瞬間だった。
左右の茂みから、
さらに三体。
「なっ……!」
アンセムの動きが止まる。
速い。
どれを止めるべきか判断が追いつかない。
「アンセム! 下がれ!」
イグナシオの怒声。
しかし遅い。
一体が、
負傷した学生へ飛び掛かる。
「……っ!」
考えるより先に、
アンセムは身体を投げ出していた。
剣を捨てるように振り抜く。
エンキの牙が、
目前で弾かれる。
だがその代償に。
「ぐぁっ!?」
別個体の爪が、
アンセムの脇腹を深く裂いた。
鮮血。
身体が大きく揺れる。
「アンセム!!」
隊列が乱れる。
エンキ達は、
その瞬間を待っていた。
木々の上。
背後。
死角。
赤い眼が、一斉に動く。
「囲まれるぞ!」
「ここが正念場だ」
「なんとしてでも敵の数を減らせ!!」
叫び声が飛び交う。
だが、
一度生まれた綻びは大きい。
負傷者を庇うため、
騎士達の陣形が崩れ始める。
その光景を。
群れの奥に立つ巨大なエンキだけが、
静かに見下ろしていた。
◇
前線の綻び。
その穴を埋めるように、
降霊術の光が次々と灯る。
だが。
一つ消え、
また一つ消える。
魔力切れだ。
膝をつく学生。
顕現を維持できず霧散するアバター。
荒くなる呼吸。
もう、
誰も限界だった。
それでも。
隊列は、まだ崩れていない。
学生の中で、
いまだ立っているのはエルヴィンとリナ、
そしてユウリだけだった。
教師陣も消耗が激しい。
意識の戻ったアルマリアですら、
簡易魔法による牽制が精一杯のようだった。
エンキが飛び込んでくる。
ユウリは半歩踏み込み、
爪撃を紙一重で躱した。
肺が焼ける。
それでも止まれない。
二刀が閃く。
首筋。
心臓。
最小限の動きで急所だけを断つ。
崩れ落ちるエンキ。
(強くなってる……)
以前なら、
反応すらできなかった速度。
だが。
(まだ――足りない)
ユウリは息を荒げながら、
視線を横へ向けた。
リナがいた。
月明かりの中、
サムライ・フレームが静かに刀を構えている。
王国式の重装型とはまるで違う。
細身の装甲。
深紅の光を走らせる片刃。
最小限の動きから放たれる斬撃が、
エンキをまとめて両断していく。
――速い。
だが、
明らかに無理をしていた。
呼吸が乱れている。
刀を振るうたび、
アバターの輪郭が僅かに揺らいでいた。
リナの斬撃が、
飛び込んできたエンキをまとめて薙ぎ払う。
だが。
その隙間を縫うように、
別方向から新たな影が迫った。
「前が薄い!」
「アンセムの穴を埋めろ!」
騎士達の怒声。
負傷したアンセムは、
すでに後方へ下げられている。
だが、
一人欠けただけで隊列の負担が一気に増していた。
(……崩れる)
ユウリは即座に理解する。
今はまだ持っている。
だが、
このまま消耗が続けば、
どこかで必ず前線が破綻する。
そうなれば終わりだ。
負傷者も、
魔力切れの学生達も、
守り切れない。
エンキはそれを待っている。
群れの奥。
巨大な個体だけが、
じっとこちらを観察していた。
まるで。
誰が最初に倒れるか、
見極めているように。
「ユウリ!」
イグナシオの声。
「前へ出られるか!」
一瞬だけ、
思考が止まる。
疲労。
重くなる腕。
痺れる指。
もう余力なんて、
ほとんど残っていない。
だが。
ユウリは短く息を吐いた。
「……やります」
(全員で、生きて帰る)
返事と同時に、
地面を蹴る。
騎士達の隙間へ滑り込み、
アンセムの抜けた位置へ入る。
直後。
待っていたかのように、
二体のエンキが同時に飛び掛かってきた。
エンキの爪が、
鼻先を掠める。
紙一重。
ユウリは身体を捻りながら、
左の短剣で腕を弾いた。
直後。
左後方。
別個体。
木を蹴って飛び込んでくる。
「――っ!」
反射で二刀を交差。
激しい衝撃。
腕が痺れる。
だが止まらない。
ユウリは踏み込み、
至近距離から喉元を斬り裂いた。
黒い霧のように崩壊するエンキ。
だが。
休む暇はない。
「右だ!」
「後方二体!」
怒号が飛び交う。
隊列の至る所で戦闘が起きていた。
騎士達が前線を支える。
エルヴィンの雷撃が木々を焼く。
リナのサムライ・フレームが、
一瞬の踏み込みからエンキを両断する。
それでも。
数が減らない。
(速い……!)
エンキ達はまともに打ち合わない。
一撃入れて離脱。
隙を見て再突撃。
疲弊した隊列を、
少しずつ削っていく。
しかも。
(連携してる……)
一体が誘い、
もう一体が死角を狙う。
厄介なのは、
力よりもその狩り方だった。
ユウリは荒くなる呼吸を押し殺し、
再び地面を蹴る。
前線が崩れるわけにはいかない。
ここを抜かれれば、
後ろにいる負傷者達が終わる。
だから。
止まれない。
その瞬間だった。
「しまった」
死角から敵が迫っていた。
◇
リナの使うアバターは、王国の規格から独自の進化を遂げたものだった。
細長い片刃で反りのある剣を両手で構え、先ほどから敵を一太刀で真っ二つにしている。少しでも敵の数を減らして、騎士達の負担を減らすというリナの選択だった。
「倒しても、倒しても……キリが……ない」
肩で息をしながら、鋭い眼差しで戦況を観察している。
「もう限界」
額から汗で乱れた髪型が、この戦いの厳しさを物語っていた。
後方に下がるべく、状況を確認する。
その時、
リナの目は、ユウリの死角から襲いかかる敵の影を捉えた。
「間に合って」
ありったけの魔力を振り絞り、アバターに命令する。
(ユウリを、守って)
視界の端が白く染まり、耳鳴りがした。
立っている感覚が、ふと消えた。
「後は、任せた」
それが、最後に聞こえた自分の声だった。
◇
「しまった」
死角から敵が迫っていた。
チラリとピクルの位置を確認し、ピクルの物理障壁が間に合わないことを悟る。
「……こいつは刺し違えてでも倒す」
一瞬でそう判断し、二刀を握る拳に力を込めた。
その瞬間、自分の横を何かが通り過ぎ―――
目前に迫っていた敵の首は、消えていた。
いや、正確には“斬られていた”。
胴体だけになったそれが、重たい音を立てて地面に転がり霧散する。
(……?)
一拍遅れて、理解が追いつく。
剣閃。
見覚えのある、鋭く、無駄のない軌道。
「……リナの、アバター?」
ユウリを守るように位置取り、両手で剣を構えている。
王国の規格とはかけ離れた外見。
確かにリナのアバターだ。
だが――
動きが、鈍い。
いつものような切れはなく、
剣先はわずかに震え、
全身を覆う魔力の輪郭が、崩れかけている。
(……無理を)
そう思った瞬間、サムライ・フレームはもう一体を斬り伏せた。
それが、最後だった。
剣が、光の粒子へと崩れていく。
輪郭が溶け、形を失い、
まるで役目を終えたかのように、静かに消滅する。
同時に――
「……っ」
小さく、息が詰まる音。
視線の先で、
リナが膝を折った。
「リナ!」
返事はない。
エンキ達が、
ゆっくりと距離を詰めてくる。
騎士達も動けない。
前線を維持するだけで限界だった。
誰も、
間に合わない。
叫んだ声は、夜気に吸われていく。
「リナが倒れたぞ!」
「クソ、近づけない!」
「前を維持しろ! 崩れるぞ!」
リナは、倒れた。
無防備に。
戦場のど真ん中で。
魔力切れ――
それが、はっきりと分かった。
アバターを限界を超えて維持し、俺を助けるためだけに”無理をした結果だ。
(……なんで)
胸の奥が、強く締め付けられる。
(なんで、そこまで……)
答えは、分かっている。
ユウリは、
今この瞬間、最前線に立っている中で
“守る価値がある”存在じゃない。
それでも――
リナは、選んだ。
自分を削ってでも、
ユウリを生かすことを。
(……俺のせいだ)
また、その思考に戻る。
足元が、ぐらりと揺れる。
敵はまだいる。
数は多い。
教師と騎士団は、戦線を維持するので精一杯だ。
――倒れたリナが危ない。
武器を握り直す。
汗で、手が滑る。
(間に合わない)
距離。
敵の数。
守りきれない。
視界の端で、
ピクルがこちらを見ているのが分かった。
ユウリの焦りが伝わったのか。
判断を迷っているようだ。
それが、余計に胸を抉った。
(……頼む)
誰に向けた言葉かも、分からない。
(もう、誰も――)
言葉は、喉の奥で詰まる。
その瞬間、
胸元の御守りが、はっきりと熱を帯びた。
今までとは、違う。
呼んでいないのに。
願いとして整っていないのに。
それでも――
“繋がった”感覚だけが、確かにあった。
(……ホノカ)
名を、心の中でなぞる。
そして、ようやく辿り着いた。
飾りも、理屈もない。
ただ一つの、剥き出しの願い。
(リナを……)
(みんなを……)
「守りたい」
何かに導かれるように編み出した魔法陣が励起する。
(どうなろうが知ったこっちゃない)
「……出てきてくれ」
その瞬間――
夜の空気が、変わった。
風が止まった。
濃密な魔力の奔流。
魂を鷲掴みにされるような、
存在の格の違いを思い知らされるような感覚。
その場にいた全員が本能で理解する。
動いてはいけない、と。
展開していたアバターが次々と強制的に解除されていく。
最後に、ピクルの存在も維持できなくなり呆気なく消える。
胸元の御守りが、一際熱くなって輝く。
と同時に、
御守りを中心に溢れ出た炎が、意志を持っているかのように周囲一体を覆い尽くす。
炎は、燃え広がらなかった。
炎であって炎でない“何か”。
炎のような何かが“そこにあるべきでないもの”だけを、正確に舐め取っていく。
周囲のエンキ達が、一斉に、声にならない悲鳴を上げた。
否――
声を発する前に、焼き切られた。
骨も、肉も、形も残らない。魔石すら残らない超常。
炎が触れた瞬間、存在そのものが剥離し、夜気に溶けていく。
――違う。
これは、戦いじゃない。
浄化だ。
誰かがそう理解した瞬間、
炎はさらに“深く”沈み込んだ。
地表を這うように、
物陰に潜む気配を炙り出し、
逃げ場を断ち、
ただ、"浄化"していく。
エンキの群れを統率していた個体が、
最後に何か言葉を発した気がした。
だが、意味を成す前にその口ごと炎に飲み込まれた。
夜は満月の光だけを残して静まり返る。
――あまりにも、あっけなく。
◇
(……これが)
(ホノカ、なのか……?)
ユウリは、その中心に立っていた。
赤い瞳の中の炎が揺れる。
衣服は引き裂かれ、元々ぼろぼろだったマントはさらに大きく裂けている。
露出した肌には多数の生傷。
右腕が熱い。
短刀カミナギを握る手。
その腕には、
短刀の柄と繋がるかのように幾何学模様が彫り込まれており、淡く光を放っている。
足元に描かれた魔法陣は、すでに原型を留めていない。
炎の中に、“何か”があった。
姿は、見えない。
圧倒的な存在感だけが、そこにある。
言葉は、ない。
だが――
(……もう大丈夫)
そう“伝えられた”気がした。
声でも、思考でもない。
感情が直接流れ込んでくる。
それだけで、十分だった。
同時に、全身から力が抜ける。
視界が白く滲む。
魔力が枯渇した、という生易しい感覚じゃない。
根こそぎ、持っていかれた。
膝が崩れ、
そのまま、前のめりに倒れそうになる。
――その瞬間。
誰かが、ユウリの肩を掴んだ。
「……無茶、しすぎだ」
聞き覚えのある声。
だが、顔を確認する余裕はなかった。
炎が、収束する。
意志を失ったかのように、
ふっと、掻き消える。
夜が、戻ってきた。
満月の光。
冷たい空気。
戦場だった痕跡だけが、静かに横たわっている。
もう、敵はいない。
それを理解したところで――
ユウリの意識は、完全に途切れた。
最後に感じたのは、
胸元の御守りが、ほんのりと温かいこと。
そして、
(……また、守られたな)
そんな、どうしようもなく情けない思考だった。
闇が、落ちる。




