4話
エルド講師は、教卓に立ったまま、何も書かれていない黒板を背にしていた。
「まず、当学科のカリキュラムについて話します」
その一言で、数人の背筋がわずかに伸びる。
「授業は、大きく分けて三つです。
理論、実習、観測」
簡潔だった。
「理論では、降霊術を扱う上で最低限必要な“枠組み”を学びます」
淡々とした声。
「何が起き得るのか。
どこまでが安全で、どこからが危険なのか」
一瞬、言葉を選ぶような間。
「――そして、“触れていいものと、触れてはいけないもの”の区別です」
教室の空気が、わずかに引き締まる。
「理論科目には、
王国で共有されてきた降霊術の変遷や、過去の事例も含まれます」
そこで、はっきりと釘を刺した。
「使用する資料は、王国史編纂局の監修を受けたものです。
個人的な判断で原典に触れることは認めません」
誰かが、小さく息を呑んだ。
「必要な場合は、必ず担当教員の許可を取ってください」
理由は語られなかった。
黒板に、初めて文字が書かれる。
――観測記録。
「実習について話します」
エルドは振り返らずに続けた。
「実習は、その名の通りです。
ただし――」
一拍。
「一人で行います」
ざわ、と空気が揺れた。
「補助員は付きません。
術式も、原則として自分で組みます」
「え、それって――」
後列の男子学生が思わず声を上げる。
落ち着きがなく、視線が忙しい。
「危なくないんですか?」
エルドは、そちらを一瞥しただけで答えた。
「危険です」
即答だった。
「だから理論があります。
そして観測があります」
黒板の文字を指す。
「この学科では、結果よりも記録を重視します」
「成功したかどうかではない。
何を感じ、どこで違和感が生じ、どう判断したか」
教室は、静まり返っていた。
ユウリは、無意識にペンを握り直す。
(……思ってたより、ずっと実戦寄りだ)
「最後に」
エルドは、教室全体を見渡した。
「二十名全員が、卒業できるとは限りません」
誰かが喉を鳴らす。
「途中で降霊術に向いていないと判断された場合、
転科、あるいは退学の勧告が出ます」
淡々と、事務的に告げられる現実。
「逆に言えば」
一呼吸。
「最初の成績や出自は、評価に直結しません」
その言葉に、ユウリはわずかに目を伏せた。
――辺境出身。
――降霊術学科。
ほんの少しだけ、胸の奥が軽くなる。
「質問はありますか」
短い沈黙。
「質問いいっすか」
先ほどの男子が、再び手を挙げる。
「要するに、強い霊を降ろせたら有利、ってことですよね?」
教室の空気が、一瞬で冷えた。
エルドは、今度ははっきりとその学生を見る。
「名前」
「……ガルド」
「ガルドくん」
低く、名を呼ぶ。
「この学科で、“勝ち”という言葉は使いません」
声は静かだが、揺るぎがない。
「強いものに手を伸ばす者ほど、
判断を誤りやすい」
「その理由を理解できなければ、
三年を待たずに学院を去ることになるでしょう」
ガルドは口を閉じ、不満げに視線を逸らした。
(……目立ったな)
ユウリはそう思う。
一方で、前列中央の青年は一言も発していなかった。
背筋は伸び、ノートには要点がすでに整理されている。
動きに無駄がなく、エルドの言葉を先読みしているようにも見えた。
(……いかにも、だな)
成績上位。
王都育ち。
誰もが、そう直感するタイプ。
そして――
少し斜め前の席。
リナは、静かに話を聞いていた。
筆記具は持っているが、まだ紙には何も書かれていない。
それでも視線は一度も逸れず、エルドを捉え続けている。
覚えている。
そういう集中の仕方だった。
エルドは最後に言う。
「今日はここまで。
初回の実技演習から観測訓練を開始します」
ざわ、と小さく息が漏れる。
「――安心してください。
最初は“見るだけ”です」
その言い方が、逆に不安を煽った。
「……質問があるなら、今のうちに」
そう言ってから、わずかに間を置く。
「それでは、まずは入学式をお楽しみに……」
立ち上がる音が重なり、オリエンテーションは終わる。
ユウリも席を立ち、通路へ出た。
その時、すれ違いざまにリナと目が合う。
一瞬。
彼女は、ほんのわずかに口元を緩めた。
――笑った、というほどでもない。
だが。
(……今の、なんだ)
ユウリがそう思った時には、彼女はもう前を向いていた。
降霊術学科。
二十人。
問題児がいて、
優等生がいて、
何を考えているか分からない他国の少女がいる。
そして自分は、その中の一人だ。
◇
教室を出ると、廊下は一気にざわついた。
張り詰めていた空気が、ようやく解けたようだった。
「いやー、思ってたより本気だな?」
真っ先に声を上げたのは、赤髪の男子だった。
ラグナというらしい。
「一人で実習とかさ。普通、補助とか付くだろ」
「それが普通じゃない学科なんでしょ」
前列中央にいた青年――整った身なりの学生が、淡々と返す。
声は落ち着いていて、感情の起伏が少ない。
「危険性は最初から説明されていた。今さら驚く話じゃない」
「はいはい、優等生発言」
ラグナは肩をすくめて笑う。
「ま、面白そうではあるけどな」
そのやり取りを横目に、ユウリは少し距離を取ったまま歩いていた。
聞いているようで、深入りしない位置。
(霊的現象の観測……だけで終わるのか?)
そんなことを考えていると、隣に気配を感じた。
「……静かだね」
淡い声。
見ると、リナが並んで歩いていた。
視線は前を向いたまま、歩幅も自然に合っている。
「そうかな」
「うん。さっきから、誰とも話してない」
言われてみれば、その通りだった。
「……話すの、得意じゃない?」
「嫌いじゃない。ただ……」
一拍置いてから、言葉を探すように続ける。
「隔たりを、感じるんだ」
リナは一瞬だけこちらを見る。
「きっとみんな同じよ」
思いがけない言葉に、ユウリはわずかに目を瞬かせた。
「そうなのか?」
「全く同じ魂なんて存在しないもの……私はそう思う」
廊下の窓から、春の光が差し込む。
「……王都は少し寒いね」
当たり障りの無い一言。
「南の出身なのか?」
「そうね、列島諸国の島国」
「どうして学院に?」
短く返すと、リナは小さく息を吐いた。
「降霊術とは何なのか…知りたくて」
「当然だな」
「うん。」
それだけの会話。
だが、不思議と沈黙は重くなかった。
「……さっきの説明、どう思った?」
リナが、ふと話題を変える。
ユウリは少し考えた後、正直に答えた。
「……危険は無いと言われていた。けど……」
「けど?」
「……わからない」
リナは何も言わなかったが、歩く速度がほんの少しだけ遅くなった。
「私も、そう思った」
その声は、ほとんど独り言だった。
前方では、別の学生たちが控えめに言葉を交わしている。
教室からは、ガルドたちの笑い声が響いている。
二十人。
それぞれ違う温度で、同じ学科に集められた。
「……入学式、楽しみ?」
リナが言う。
「正直に言えば、少し」
「同じ」
ほんの一瞬、目が合った。
今度は、さっきよりもはっきりと。
「――静かだと思ったら、難しい話してるなあ」
後ろから、気の抜けた声が飛んできた。
二人は同時に、振り返る。
「お、なんだなんだ。もう仲良くなってんじゃん」
ガルドの声だった。
二人だけの会話はそこでいったん終わり、廊下のざわめきが戻ってきた。
「なあ、今の見た?」
ガルドが顎で示した先に、長身の青年がいた。
「明らかに年上だろ。あれ学生?」
「……たぶん」
その青年は、誰とも視線を合わせずに歩いていた。
だが、周囲の動きだけは、正確に把握しているように見えた。
「降霊術学科、……ほんと何でもアリだな」




