2話
事務室の中は、学院の他の建物と比べてもひどく落ち着いていた。
壁一面に並ぶ書架。整然と分類された書類棚。
装飾はほとんどなく、必要最低限の魔法陣だけが床と机に刻まれている。
カウンターの奥に座っていたのは、落ち着いた雰囲気の女性だった。
年齢は三十前後だろうか。黒髪を後ろでまとめ、無駄のない服装。
視線の動きが早く、ユウリの姿を一目見ただけで状況を把握したようだった。
「初めまして。王立魔導学院、事務局です」
柔らかいが、芯の通った声。
「今日、王都に到着された新入生ですね?」
「はい。ユウリといいます」
「確認しますね」
彼女はユウリの差し出した個人端末カードを受け取り、机に置いた小型の魔導端末にかざした。
淡く光る魔法陣が展開され、情報が空中に表示される。
事務員は一瞬だけ目を走らせ、頷いた。
「ユウリ・カミナギ。入学資格、確認できました。遠方からお疲れさまでした」
手際が良い。
余計な動作が一切ない。
「では、いくつか説明をします。多少長くなりますが、必要なことですので」
「はい」
ユウリが姿勢を正すと、事務員は淡々と続けた。
「まず、当学院は十五歳以上であれば年齢に関わらず入学可能です。高等教育機関に在籍している間は、国家労働義務は免除され、代わりに給金が支給されます」
「生活は……?」
「最低限は、すでに保証されています。学院で学ぶために困ることはありません」
当然のように言う。
「次に学科についてです」
空中の表示が切り替わり、学院の学科一覧が浮かび上がった。
「攻撃魔法学科、補助魔法学科、錬金術学科、魔術理論学部――こちらは研究系ですね」
そこまでは、特に問題はない。
だが。
「……そして、降霊術学科」
事務員は、その項目に視線を落としたまま、ほんの一拍だけ間を置いた。
ユウリは、それを見逃さなかった。
「降霊術学科は、当学院でも特別な位置づけになります」
声の調子は変わらない。
だが、説明の仕方が明らかに違った。
「定員は他学科より少なく、履修内容も個別対応が多い。安全管理の観点から、実技は制限されることがあります」
「制限……?」
「ええ。降霊術は理論上、危険性が高い分野ですから」
事務員は事実だけを述べる。
「そのため、学内でも理解者は多くありません。これは事実として、お伝えしておきます」
フォローも、感情もない。
だが、それがかえって重く響いた。
「就職先についても、選択肢は限られます。国家管理下での研究職、もしくは特殊任務に就くことが多いでしょう」
そこまで言って、事務員は初めてユウリの目を見た。
「……それでも、希望は変わりませんか?」
一瞬だけ、静寂が落ちる。
ユウリは、ゆっくりと息を吸った。
「はい」
迷いはなかった。
「降霊術学科を希望します」
事務員は、ほんの僅かに目を細めた。
驚きでも、疑念でもない。
――評価だ。
「分かりました」
すぐに頷き、手続きを進める。
「では、降霊術学科として登録します」
端末が淡く光り、手続きが完了する音が響いた。
「これで正式に、王立魔導学院の学生です。制服と教科書類の支給は明日以降になります。学生寮の紹介も兼ねてこれから学院内の主な施設を案内します」
事務員は書類をまとめながら、淡々と締めくくる。
「最後に一つだけ。降霊術学科の学生は、良くも悪くも目立ちます」
言葉を選んでいるようで、選んでいない。
「覚悟だけは、持っておいてください」
ユウリは、小さく頷いた。
「……はい」
事務員は書類を一式まとめると、ユウリに向き直った。
「これで正式に、王立魔導学院の学生です。
制服と教科書類の支給は明日以降になります」
一呼吸置いて、続ける。
「入学式までは、まだ一週間ほどあります。
その間に生活環境に慣れてもらうのが学院の方針です」
その言葉に、余裕と自信がにじんでいた。
「それでは学院内を見て回りましょう。
初日から放り出すようなことはしませんので、ご安心を」
ユウリは軽く頭を下げ、事務員の後に続いた。
⸻
学院の内部は、昼間とはまた違った顔を見せていた。
授業が行われていない時間帯にもかかわらず、完全な静寂ではない。
廊下の先から微かに聞こえる話し声。
資料を抱えて足早に移動する学生の姿。
すれ違う生徒たちは、皆制服姿だった。
紺色を基調としたローブに、胸元の銀色のバッジ。
学科ごとに紋様が異なるらしく、いくつかの意匠が目に入る。
中には、ユウリに一瞬だけ視線を向ける者もいた。
制服ではない私服姿。
それだけで、「新入生」だと分かるのだろう。
好奇の視線。
無関心な視線。
そして、ごく稀に――わずかな警戒。
事務員はそれらを意に介した様子もなく、淡々と歩き続ける。
「この時期は、在校生の自主研究期間です。
新学期前に課題を進める者もいれば、実家に戻り休養をすることを選ぶ者もいる」
何気ない説明だが、
学院が常に稼働している場所であることが伝わってくる。
演習場の前を通り過ぎると、かすかに魔力の揺らぎを感じた。
研究棟の一角では、灯りがまだ消えていない部屋もある。
「必要であれば、指導教員の面談も調整します。
学科に関わらず、初年度は特に手厚く対応しますから」
その“学科に関わらず”という言い回しに、
ユウリは小さく胸の内で頷いた。
――降霊術学科も、例外ではない。
少なくとも、制度の上では。
⸻
やがて、生活区画へと入る。
空気が変わる。
研究や演習の緊張感とは違う、生活の匂い。
「こちらが学生寮です」
建物は学院の他の施設に比べれば控えめだが、造りはしっかりしている。
無駄な装飾はなく、実用性を重視した設計。
「原則として一人部屋。
生活魔導具、寝具、最低限の家具は備え付けです」
通路を進みながら、事務員は続ける。
「食事は共用食堂。
時間外は簡易配給に切り替わりますが、生活に支障は出ません」
扉の前で立ち止まり、鍵を差し出した。
「本日は仮室ですが、正式な割り当てと設備は同等です。
入学式後に部屋の移動が必要になる場合は、こちらから連絡します」
ユウリは鍵を受け取る。
「何かあれば、部屋内の呼び出し符を使用してください。
新学期前の期間中は、事務局も常時対応しています」
それだけ告げると、事務員は軽く一礼した。
「では、今日はゆっくり休んでください。
学院へようこそ」
足音が遠ざかり、廊下に静けさが戻る。
扉を開け、中に入る。
簡素で、整った空間。
“学生の生活”が、すでに用意されている部屋だった。
ユウリは荷物を置き、ベッドに腰を下ろす。
「お腹……空いたな」
◇
部屋に戻ると、腹の奥がようやく落ち着いていた。
派手さはないが、温かくて、妙に安心する味だった。
――学院の食事、か。
悪くない。
灯りを落とすと、部屋は一気に静かになった。
学院の寮は、防音の結界が施されているらしい。
外の気配はほとんど感じられず、残っているのは自分の呼吸音だけ。
ユウリはベッドに横になり、天井を見上げた。
――本当に、来てしまった。
王立魔導学院。
降霊術学科。
名前だけを思い浮かべても、まだ実感が湧かない。
期待よりも、不安の方が先に立つ。
例外。
異端。
制度としては存在しているが、選ぶ者は少ない学科。
事務員は淡々としていた。
配慮も、距離も、過不足なく。
それが余計に現実感を強める。
ここでは――
特別扱いも、免罪符もない。
ただ「学生」として、結果を求められる。
ユウリは目を閉じた。
無意識に枕元に置いた荷物に触れると、微かに温もりを感じた。それだけで、なぜか故郷の家の灯りが脳裏に浮かぶ。
――明日、手紙を書こう。
そう思ったところで、意識は静かに眠りへと沈んでいった。
――風の音。
低く、長く、どこまでも続く音だった。
耳元ではなく、世界そのものが鳴っているような――そんな音。
ユウリは立っていた。
足元は見えない。
地面があるのか、空中なのかも分からない。
ただ、落ちる感覚はなかった。
周囲は暗い。
夜というより、光そのものが存在しない空間だ。
それでも、不思議と恐怖はなかった。
(……ここは)
声に出そうとして、やめる。
言葉にした瞬間、この場所が壊れてしまう気がした。
風が、また吹く。
その風に、熱が混じっていた。
肌を焼くほどではない。
焚き火のそばに立ったときの、あのじんわりとした熱。
やがて、視界の奥に“揺らぎ”が現れる。
光ではない。
影でもない。
ただ、そこだけが――在る。
巨大だった。
形は定まらず、輪郭は曖昧で、それでも圧倒的な存在感がある。
見上げているはずなのに、距離感が狂っていた。
それは、動かない。
だが、見られていると分かる。
視線ではない。
意識そのものを、こちらに向けられている感覚。
(……知ってる)
理由は分からない。
名前も思い出せない。
それでも、ユウリの中で確信だけがあった。
――これは、初対面じゃない。
熱が、少し強くなる。
揺らぎの奥で、何かが瞬いた。
炎のようで、そうではない。
感情のようで、違う。
言葉が、頭の奥に直接流れ込んでくる。
だが、それは“声”ではなかった。
意味を持たない。
ただ、理解だけが生まれる。
――まだだ。
――今ではない。
ユウリは、なぜか頷きそうになる。
問いも、反論も浮かばない。
そうなのだと、自然に受け入れてしまう。
揺らぎが、わずかに近づく。
距離が縮んだのか、世界が歪んだのかは分からない。
ただ、熱が胸の奥にまで届いた。
心臓の鼓動が、妙に大きく聞こえる。
(……呼ばれてる?)
その瞬間。
風が、止んだ。
音が消え、熱も引く。
揺らぎは、急速に遠ざかっていく。
いや――違う。
自分が、引き離されている。
視界が白く染まり、輪郭が崩れる。
足元の感覚が戻り、重力が戻る。
最後に、あの“存在”が、ほんの一瞬だけ――
安堵したように見えた。




