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1話 はじまり


この国では、十五歳で成人になる。

生活は保障され、働かなくても生きていける。

だから誰も疑問を持たない。


魂に触れることが、学問として許されている理由を。

 

 


 燃える匂いがした。


 最初は、それだけだった。

 鼻の奥に残る、木と土が焦げたような匂い。

 それが何を意味するのか、考えるより先に、足が竦んでいた。


 夜だった。

 空は暗く、星は見えない。

 赤い光が、あちこちで揺れている。


 叫び声。

 大人の声。子供の声。

 混ざり合って、何を言っているのか分からない。


 ――逃げろ。


 誰かがそう言った気がした。

 でも、体が動かなかった。


 視界の端を、黒い影が駆け抜けた。


 速い。

 低く、しなやかで、獣の形をしている。

 その影が通った場所だけ、空気が変わる。

 重苦しかった夜が、一瞬だけ裂けるような感覚。


 次の瞬間、遠くで何かが倒れる音がした。


 見えない。

 ただ、分かる。

 ――あれは、味方だ。


 胸の奥が、少しだけ緩んだ。


 しばらくして、その気配はふっと消えた。

 まるで、最初から存在しなかったみたいに。


 代わりに、静けさが落ちてくる。


 赤い光も、叫び声も、遠ざかっていく。

 自分だけが、その場に取り残されたみたいだった。


 足音がする。


 ゆっくり。

 こちらに向かってくる。


 怖いはずなのに、不思議と逃げたいとは思わなかった。


 影の中から、人の輪郭が現れる。

 顔はよく見えない。

 背が高いのか低いのかも、分からない。


 ただ、その声だけは、はっきり聞こえた。


「……もう大丈夫」


 その一言で、張りつめていたものが、音を立てて崩れた。


 力が抜ける。

 膝が落ちる。


 あたたかい何かに包まれる感覚がして――


 そこで、目が覚めた。


 ◇

 

 窓の外に流れる景色は、淡い春の陽射しに包まれていた。ユウリは列車の揺れに身を任せながら、まだ夢の余韻に浸っていた。


「夢か、またあの光景を……」


 小さく呟くと、向かいの座席に置いた荷物が揺れる。

 王国が誇る魔導技術の結晶――魔導列車は、故郷の小さな集落を後にし、王都の目前へと迫っていた。


 ユウリは春から、ここ王都ウルクにある王立魔導学院へ入学することが決まっている。

 そのために、単身で故郷を離れ、この長い旅路を進んできた。


 この国では十五歳で成人として扱われる。成人すれば労働の義務が生じるが、魔導学院のような高等教育機関に在籍している間は、その義務が免除される。

 それどころか、僅かではあるが給金まで支給される。


 すべての国民には、衣食住をはじめとした最低限の生活が保証されている。個人情報はカード状の端末に集約され、各都市に設置された巨大な管理サーバーによって管理されている。

 このカードがあれば、国営の店で生活に必要な物を自由に購入できる。もっとも、発行される権利の多くは期限付きで、使わなければ自然と失効する。

 悪用する意味も、余地もない仕組みだった。


 列車の中は落ち着いた空気に満ちている。

 学生らしい若者の姿もあれば、商人や旅人も多く、雑談や笑い声が静かに混じっていた。


 ユウリは荷物を抱え、窓の外に視線を向ける。

 広がる草原、小川、遠くに連なる森と丘――故郷とはまるで違う景色が、春の光を受けて輝いていた。


 どれも見慣れないものばかりで、胸の奥が自然と高鳴る。


 やがて列車は、高くそびえる塔と城壁の影が見える地点へと到達する。

 長い歴史を誇るヴァルトラント王国の首都は、城壁の外にまで街並みが広がっており、平和な時代が続いてきたことを雄弁に物語っていた。


「あれが、王都ウルク……」


 思わず息を飲む。

 旅立ちの実感が、ゆっくりと胸を満たしていった。


 魔導塔、整然と並ぶ建物、行き交う人々の華やかな装い。

 すべてが新鮮で、少しだけ眩しすぎる光景だった。


 列車が駅に滑り込み、乗客たちが降りていく。

 ユウリもホームに足を踏み出す。


 長い旅路の果てに辿り着いた王都。

 その第一印象は、眩しく、そして確かな希望に満ちていた。


 王都の街並みは、不思議と統一感がなかった。

 石造りの建物が並ぶ通りは一見整然としているが、壁の色も装飾も、屋根の形も微妙に異なる。


 無駄に思える曲線、用途の分からない彫刻。

 実用性だけを考えれば、不要なものばかりだ。


 それでも、街は美しい。

 通りにゴミはなく、裏通りですら落書きひとつ見当たらない。石畳は作られたばかりのように磨き上げられている。


「もっと……ゴチャゴチャしてると思ったんだけどな」


 歩きながら、ユウリはそう感じた。

 豊かさに満ちた王都の風景は、辺境育ちの彼にとってどこか奔放に映る。


 辺境の村では、建物は“必要だから”建てられる。

 頑丈で、修理しやすく、無駄がない。それが精一杯だった。


 だが、王都は違う。


 店の看板は、必要以上に凝っている。

 文字がなくても、何の店か一目で分かるほどだ。


 建物の壁には、意味があるのか分からない装飾が刻まれている。


(……意味、あるのか?)


 そう思って、すぐに気づく。


 違う。

 意味を求めること自体が間違いなのだ。


 この街の人々は、合理性や効率だけで物事を測ってはいない。


 人々の表情も同じだった。

 忙しそうではあるが、追い詰められてはいない。

 働いてはいるが、擦り切れてはいない。


 やりたいから、そうしている。

 それ以外に説明がつかないほど、生き生きとして見えた。


(余裕が……あるんだろうな)


 生きるために必死である必要がない。

 最低限は、すでに満たされている。


 だから人は、

「カッコいいから」

「好きだから」

「やってみたいから」

そんな理由で行動できる。


 この国では、遠回りを楽しめること自体が豊かさなのだろう。


 ユウリは、街並みをもう一度見渡した。


 この場所なら、自分のやりたいことを実現できるかもしれない。

 そんな根拠のない期待が、胸の奥に小さく灯った。


 


 父の話では、王都に着いたらまず魔導学院へ向かえばいいらしい。入学手続きも、必要な説明も、すべてそこで済むという。


 ユウリは大通りを抜け、街の中心から少しずつ離れていった。

 屋台の声が遠ざかり、通行人の数も減っていく。


 やがて、視界の先に城壁が現れた。


 高く、厚いが、威圧感は薄い。

 門は常に開かれ、門番も最低限しかいない。


 止められることもなく、ユウリはそのまま中へ入った。


 城壁を越えた瞬間、空気が変わる。


 音が減り、人の気配が薄れる。

 繁華街とは異なる、静かな重さ。


 どこか寂しくもあり、同時に、人混みに少し疲れたユウリの心を落ち着かせた。


 城壁の内側には、魔導学院をはじめとする重要な公的機関が集約されていると聞いている。

 住宅街とも商業区とも違う――機能のための場所。


 だが。


「……え?」


 思わず声が漏れた。


 そこにあったのは、想像とはまるで違う建築だった。


 白を基調とした巨大な校舎。

 左右非対称の塔。複雑な曲線を描く回廊。

 窓の形も高さもばらばらで、壁には魔法陣を思わせる装飾が刻まれている。


(……やりたい放題だ)


 美しいが、統一されていない。

 王都の街並みをさらに突き詰めたような場所だった。


「魔導学院……だよな?」


 敷地は広く、木々に囲まれている。

 建物同士の間隔も無駄に広い。


――効率は悪い。

――でも、誰も気にしていない。


 ここは学ぶ場所だ。

 最短で答えに辿り着くためだけの場所ではない。


 遠回りも、寄り道も、失敗すら許される場所。


(……面白い)


 胸の奥が、少しだけ軽くなる。


 ユウリは正門へと歩き出した。

 装飾過多で、どこか気取った門の向こうに、これから三年間を過ごす世界がある。


 空はまだ明るいが、陽は西へと傾き始めていた。

 火が落ちる前――一日の終わりを告げる時間帯。


 学院の中には、放課後を迎えた生徒たちの姿があった。

 統一されたローブ姿で談笑する者、本を読みながら歩く者。


 門をくぐってすぐの場所に、巨大な校内マップが立っている。


(……広いな)


 しばらく見上げていると、背後から声がかかった。


「君、新入生?」


 振り返ると、制服姿の青年が穏やかに笑っていた。


 青年に案内され、ユウリは学院の敷地をさらに奥へと進んだ。


 外から見た以上に、学院の内部は入り組んでいる。

 建物同士をつなぐ回廊は緩やかに曲がり、視線の先には必ず次の目的地が見えるよう設計されているらしい。無駄に見えた配置が、歩いてみると不思議と迷わない。


「初めて来る人は、だいたいここで道に迷うんだけどね」


 青年は軽い口調で言いながら、迷いなく歩く。


「……慣れてるんですね」


「まあ。三年もいれば、嫌でも」


 その言葉に、ユウリは少しだけ驚いた。

 ――三年。

 自分がこれから過ごす時間と、同じ長さ。


 すれ違う生徒たちは、皆ローブ姿だった。

 紺色を基調とした制服は男女共通で、丈は膝下まである。動きやすさを重視した作りで、派手さはないが、生地は明らかに上質だ。


 胸元には、銀色に輝くバッジ。

 刻まれた紋様は、生徒ごとにわずかに異なっている。


(学科……かな)


 詳細は分からないが、見ただけで「所属」が分かるようになっているのだろう。

 辺境では考えられないほど、洗練された仕組みだ。


 しばらく歩いたところで、青年がふと横目でユウリを見た。


「北の辺境って言ってたよね」


「はい。ノースヴェルグ辺境伯領の、」


「ああ……なるほど」


 それだけで、何かを察したように頷く。


「じゃあ、森と寒さと静けさには慣れてるんだ」


「……まあ、はい」


 曖昧に答えると、青年は小さく笑った。


「そんな君に王都は刺激が強そうだ。最初は疲れるかもしれないけど、この辺りはまだマシだよ」


 確かに、城壁の外とは違い、ここは静かだった。

 人の気配はあるのに、騒がしくない。


 歩きながら、青年は特に自己紹介をするでもなく、学院の説明を続けた。


「事務室は管理区画の一角にある。今は放課後だから、担当が残っていればラッキーだね」


「もし、いなかったら……?」


「明日でいい。入学は確定してるんでしょ?」


「はい」


「なら問題ない。焦る必要はないよ」


 その言葉は、妙に安心感があった。

 まるで、この学院の空気そのものを代弁しているかのようだった。


 やがて、一際落ち着いた雰囲気の建物の前で、青年は足を止めた。


 白い壁に、控えめな装飾。

 学院の中では珍しく、実用性を優先した造りだ。


「ここが事務室」


 扉の前で、青年は一歩だけ後ろに下がる。


「中に入れば、あとは案内されると思う。書類も説明も、全部ここだ」


 ユウリは扉を見上げ、深く息を吸った。


 旅の終わりであり、同時に――始まりだ。


「案内、ありがとうございました」


「どういたしまして」


 青年はそれだけ言って、くるりと踵を返した。


「……あの」


 思わず呼び止める。


「名前、聞いてもいいですか?」


 青年は一瞬だけ立ち止まり、振り返らずに答えた。


「また、そのうち」


 それだけ言って、回廊の向こうへと消えていった。


 ユウリは少しの間、その背中を見送ってから、扉に手をかけた。


 重みのある感触。

 ゆっくりと押し開く。


 中は静かで、紙の匂いと微かな魔力の気配が混じっていた。


「……失礼します」


 声をかけた瞬間、奥から返事がある。


「はい、どうぞ。入学手続きですね?」


 その一言で、ユウリははっきりと理解した。


 ――もう戻れない。

 そして、それでいい。


 王立魔導学院での日々が、ここから始まるのだ。

 

 

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