表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/4

知子


 「はじめまして。愛美と申します」


「はじめまして。ええと……」


 今の若い子は、自己紹介と言えば下の名前なのかしら?


「あっ、えっと、田中! 田中愛美です!」


「そう……田中さん」


「はい! あ、ほら、田中ってありふれてて……何だか恥ずかしいじゃないですか」


「そんなことないわよ。ご自分のお名前には自信を持って。歴史とご両親の願いが詰まっているんだし。ね? 私は、草野知子です」


 理由は何であれ、文化が同じで良かったわ。いくらなんでもあれは、まるでお水の人みたいだものね。


「そしてご存知、わたくし、山口彩香です」


「やまぐ……」


 慌てて口を塞ぐ。そうだった。今日は「山口さん」なんだった。

 昨日、「好きな芸能人の名字を1日だけ借りてみたいから、協力して」とかいうメールが入ってたもの。すっかり忘れてたわ。

 ごめんなさい、と目で謝ると、彼女は私に微笑みかけた。……何かがいつもと違う気がするけど、気のせいよね?


「さて、早速行きましょ。素敵なレストランを予約してあるの」


「そうね。楽しみだわ」


「あ、あの! ……本当に奢って頂いて良いのでしょうか?」


「良いのよ。あんまり何度も訊くと怒るわよ?」


「……はい」


 あらあら、やっぱりダメね。彩香さんは相変わらず人の扱いに長けていないわ。


「田中さん……? と言ったかしら?」


「あっ、は、はい」


「気にしなくて良いのよ。この人お金持ちだから」


「そ、そうなんですか?」


「そうよ。ねぇ? だからほら、行きましょ」


「はい」


 やっと笑ってくれた。……ここまでしないと笑わないってのも、大変ね。どうして私が気を使わないといけないのかしら。

 全く、今の子は。


◇◇◇


 「それにしても彩香さん、こんなに若い人とどうやって知り合ったの?」


「それがね、素敵な出逢いだったのよ。ね」


「そうなんです! まるで、少女漫画のオープニングみたいで……」


 話を聞いてみれば、道でぶつかって、彩香さんがカバンの中身をぶちまけちゃったらしいのね。それで、拾うのを手伝ってくれたんだとか。


「……普通じゃないかしら?」


「私は運命だと思ったわ。今しかない、って」


「……そう」


 何かがいつもと違う気がするのよね……気のせいなら良いのだけれど。

 使う言葉がつっけんどんだったり、思ったことがそのまま表情に出てしまうのはいつもの彼女と同じ。でも、何かが確実に違うのよ……何かしら。


「それでね、私……今日は相談があって2人に来てもらったの」


「相談」


「そう」


 田中さん……とか言う子も聞いていて良いのかしら。2人、と言っていたからそうよね。

 見てみると、「相談」と聞いて嬉しそうな表情をしている。……なんだ。私の知らない間に随分仲良しになっていたのね。ちょっと妬けちゃうわ。


「私、ご存知の通り、結婚してるでしょ?」


「ええ」


「はい」


「それが……最近旦那がね、浮気……してるみたいなの」


「浮気……」


 何年か前に1度お会いしたことがあるけれど、そんなことをする旦那さんには見えなかったわ。……人って変わってしまうものなのね。

 私が男性だとするなら……確かに、彩香さんと年中一緒なのはちょっときついかも知れないわ。完璧主義だし、根に持つ方だし。

 大学時代もかなりのものだったわ。同じサークル内に素敵な先輩がいらっしゃるとかで、完全にその方にお熱になっていた時も、その先輩に恋人がいると分かった瞬間の怒りったら、凄かったもの。私でも手が付けられなかった程よ。

 そうそう。彼女は自身に絶大な自信と誇りがあるの。……あ、駄洒落じゃないわよ? だから一緒に暮らすのは大変なのよ、きっと。


「……知子、何か失礼なこと考えてない?」


「な、何言ってるのよ。そんなはずないじゃない~」


 そして、そう。

 昔から、やけに鋭い。


「ふーん? まぁ、良いけど」


 ……そういえば、田中さんの声をさっきから全く聞いていないわ。どうしたのかしら。


「田中さん?」


「あ、いや……結婚って大変だなって思って……」


「あら、田中さん、素敵なお相手がいらっしゃるの?」


「素敵って言うか……まぁ……素敵です」


 真っ赤になって瞳を伏せて……やっぱり若いってのは良いものね。


「そりゃあ素敵でしょう。お付き合いされてるの?」


 彩香さんの声が、いつも以上に高圧的。本当にどうかしたのかしら。……もしかして、ヤキモチ? 相変わらずいじらしいわね。


「いえ、まだお付き合いまでは……でも、いつか、あの方と一緒になれたら……なんて」


「歳はいくつなの?」


「8つ上の、28歳なんですけど……」


「離れ過ぎじゃない?」


「私も始めはそう思ったんですけど、私には彼しかいないって思って……」


「どうしてそう言い切れるの?」


「え……?」


「あ、お料理が来たわ。田中さん、その幸せがいつまでも続くと良いわね。……さ、いただきましょう」


 危なかった。それにしても本当にどうしたのかしら。体調を壊していたりするのかしら……。


「ごめんなさい、ちょっとお手洗いに」


「あら、行ってらっしゃい」


 そそくさと席を立つ彩香さん。視線を戻すと、幸せオーラ満開の田中さん。


 彩香さんも変だけれど、田中さんもおかしいわよね。旦那さんの浮気の相談をしている人の前で、それもその人の話を遮って。……あ、そのきっかけを作ってしまったのは私だったかしら。気をつけましょ。


「美味しいわね、このパスタ」


「はい! でも、こんなに美味しいものをご馳走になるなんて……」


「良いのよ良いのよ。何なら、働き出してから、お礼にって彩香さんを誘ってあげたらどう?」


「そ……そうですね! 知子さん、最高です!」


「あら……ありがとう。ほら、冷めないうちに食べちゃって」


「はい! いただきます!」


 元気なのは良いけれど、こういう雰囲気のお店でエクスクラメーションマークは誉められたもんじゃないわね。……ま、良いでしょ。まだ若いんだし。


「ごめん、遅くなっちゃって」


「おかえりなさい。込んでたの?」


「そう……なの。珍しいわよね」


 こほん、と咳をした彼女は、「さ、食べよ食べよ」とフォークを持った。


◇◇◇


 『今日は楽しかったです。ありがとうございました。愛美』


 田中さん……? あぁ、そうだった。そういえばあの後、連絡先を交換したのよ。

 私も楽しかったわ。久しぶりに若い頃に戻ったみたいだったもの。彼ともお幸せにね。……若い頃に戻った、なんて、ちょっと大袈裟かしら? 私もまだ20代だし、おかしいわよね。つくづく、主婦ってものは、所帯染みて若くなくて……良いことはあまりないのよ。


「ただいまー」


「あらあら、おかえりなさい。今日は早かったのね」


 携帯を閉じ、机に放置したまま夫のところへ急ぐ。


「今日は珍しく順調でさ」


「良かった」


 ……あぁでも、主婦ってものは、確かに幸せ。幸せなのよ。

 そう。彩香さんは、相手を間違えただけ。


「あ、そうだ。健太が帰って来てるぞ。さっき、車で追い越したんだ」


「そうなの?」


 どうせまた、自転車のかごにドッジボールを入れて、立ちこぎでもして急いで帰って来ているんでしょう。この通りは、細い割に裏道として使う人が多く、危ないから歩きなさいと言っても聞きはしません。そして、玄関のドアを開けて叫ぶのです。


「ただいまー! 今日ご飯なに?!」


 6時には帰りなさい、という約束はなかなか守ってくれませんが、遅れると言っても10分かそこらですし、かわいいものだと思います。


「多分もうすぐ見えるぞ」


 夫が鞄を私に預け、道路の方を向いたとき、確かに自転車に乗った健太の姿が見えました。よほど急いでいたのか、頬が真っ赤に染まっています。


「健太、……」


 おかえり、と言おうとした、その時です。健太の後ろから、車が来ました。


 ――キイィ、ドン、


 そんな音もしました。


 まさか。

 そんな。


 そんなことがあって良いわけがない。


「健太!」


 夫が道路に走って行きます。私も、夫の声で目が覚めました。そうだ。怪我をしただけで、生きているかも知れません。

 あの車だって、私には、ゆっくり動いていたように見えましたし、軽い打撲で済んでいるかも知れません。


 健太、と声を出して呼んだつもりでしたが、掠れた声しか出ません。喉が自分のものではないみたいです。


 スリッパのまま框を降り、何段かの階段を駆け下りました。足がからまって、何度も転びそうになりました。


「知子……」


 夫が、健太を抱き上げています。涙の溜まった目でこっちを見詰めています。……良かった。生きていたんだ……。


「早く救急車を! 知子! 血が、」


 血が、血が、と繰り返す夫は、しきりに健太の頭を手で押さえつけようとしています。


 ……血?


 夫の真っ白なカッターシャツは、赤黒く汚れていました。健太は、健太は、


「早く! 携帯は俺の鞄の中だ!」


 健太は、死んでしまったのでしょうか――。


「知子! 健太の命に関わるんだぞ!」


 健太の命。

 そうです。まだ助かるかも知れません。

 絡まる足をどうにか動かし、玄関にたどり着きました。鞄の中を探るのももどかしく、ひっくり返してしまいました。ガコン、と鈍い音を立てて落ちたのは――携帯電話です。


 110、違う、119。

 震える指で、必死で番号を打ちました。


 あぁ、どうか、健太が助かりますように……。


◇◇◇


 健太はダメでした。車にぶつかった後、コンクリートの階段の角に頭をぶつけたのが原因だそうです。

 健太に必死で、車のナンバーも車種も覚えていない私たちは犯人を探す手立てもなく、そんな気力もありませんでした。

 私たちはこれから、どうやって生きて行ったら良いのでしょう。今は、次の子を作るなどと言うことは考えられません。


「ちょっと、ごめん」


 病院の待合室に、死んだように座っていた私たちですが、夫が席を立ってしまいました。

 怖くて、怖くて、今日見たものが全て怖くて、夫さえもいなくなりそうで怖くて、でも、引き留めて良いことがあるようには思えませんし、確かに私も、1人になりたい気はしていました。

 でも、やっぱり、心細いのです。

 我慢が出来ずに、私は、今日会ったばかりの若い友人に電話することにしました――。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ