知子
「はじめまして。愛美と申します」
「はじめまして。ええと……」
今の若い子は、自己紹介と言えば下の名前なのかしら?
「あっ、えっと、田中! 田中愛美です!」
「そう……田中さん」
「はい! あ、ほら、田中ってありふれてて……何だか恥ずかしいじゃないですか」
「そんなことないわよ。ご自分のお名前には自信を持って。歴史とご両親の願いが詰まっているんだし。ね? 私は、草野知子です」
理由は何であれ、文化が同じで良かったわ。いくらなんでもあれは、まるでお水の人みたいだものね。
「そしてご存知、わたくし、山口彩香です」
「やまぐ……」
慌てて口を塞ぐ。そうだった。今日は「山口さん」なんだった。
昨日、「好きな芸能人の名字を1日だけ借りてみたいから、協力して」とかいうメールが入ってたもの。すっかり忘れてたわ。
ごめんなさい、と目で謝ると、彼女は私に微笑みかけた。……何かがいつもと違う気がするけど、気のせいよね?
「さて、早速行きましょ。素敵なレストランを予約してあるの」
「そうね。楽しみだわ」
「あ、あの! ……本当に奢って頂いて良いのでしょうか?」
「良いのよ。あんまり何度も訊くと怒るわよ?」
「……はい」
あらあら、やっぱりダメね。彩香さんは相変わらず人の扱いに長けていないわ。
「田中さん……? と言ったかしら?」
「あっ、は、はい」
「気にしなくて良いのよ。この人お金持ちだから」
「そ、そうなんですか?」
「そうよ。ねぇ? だからほら、行きましょ」
「はい」
やっと笑ってくれた。……ここまでしないと笑わないってのも、大変ね。どうして私が気を使わないといけないのかしら。
全く、今の子は。
◇◇◇
「それにしても彩香さん、こんなに若い人とどうやって知り合ったの?」
「それがね、素敵な出逢いだったのよ。ね」
「そうなんです! まるで、少女漫画のオープニングみたいで……」
話を聞いてみれば、道でぶつかって、彩香さんがカバンの中身をぶちまけちゃったらしいのね。それで、拾うのを手伝ってくれたんだとか。
「……普通じゃないかしら?」
「私は運命だと思ったわ。今しかない、って」
「……そう」
何かがいつもと違う気がするのよね……気のせいなら良いのだけれど。
使う言葉がつっけんどんだったり、思ったことがそのまま表情に出てしまうのはいつもの彼女と同じ。でも、何かが確実に違うのよ……何かしら。
「それでね、私……今日は相談があって2人に来てもらったの」
「相談」
「そう」
田中さん……とか言う子も聞いていて良いのかしら。2人、と言っていたからそうよね。
見てみると、「相談」と聞いて嬉しそうな表情をしている。……なんだ。私の知らない間に随分仲良しになっていたのね。ちょっと妬けちゃうわ。
「私、ご存知の通り、結婚してるでしょ?」
「ええ」
「はい」
「それが……最近旦那がね、浮気……してるみたいなの」
「浮気……」
何年か前に1度お会いしたことがあるけれど、そんなことをする旦那さんには見えなかったわ。……人って変わってしまうものなのね。
私が男性だとするなら……確かに、彩香さんと年中一緒なのはちょっときついかも知れないわ。完璧主義だし、根に持つ方だし。
大学時代もかなりのものだったわ。同じサークル内に素敵な先輩がいらっしゃるとかで、完全にその方にお熱になっていた時も、その先輩に恋人がいると分かった瞬間の怒りったら、凄かったもの。私でも手が付けられなかった程よ。
そうそう。彼女は自身に絶大な自信と誇りがあるの。……あ、駄洒落じゃないわよ? だから一緒に暮らすのは大変なのよ、きっと。
「……知子、何か失礼なこと考えてない?」
「な、何言ってるのよ。そんなはずないじゃない~」
そして、そう。
昔から、やけに鋭い。
「ふーん? まぁ、良いけど」
……そういえば、田中さんの声をさっきから全く聞いていないわ。どうしたのかしら。
「田中さん?」
「あ、いや……結婚って大変だなって思って……」
「あら、田中さん、素敵なお相手がいらっしゃるの?」
「素敵って言うか……まぁ……素敵です」
真っ赤になって瞳を伏せて……やっぱり若いってのは良いものね。
「そりゃあ素敵でしょう。お付き合いされてるの?」
彩香さんの声が、いつも以上に高圧的。本当にどうかしたのかしら。……もしかして、ヤキモチ? 相変わらずいじらしいわね。
「いえ、まだお付き合いまでは……でも、いつか、あの方と一緒になれたら……なんて」
「歳はいくつなの?」
「8つ上の、28歳なんですけど……」
「離れ過ぎじゃない?」
「私も始めはそう思ったんですけど、私には彼しかいないって思って……」
「どうしてそう言い切れるの?」
「え……?」
「あ、お料理が来たわ。田中さん、その幸せがいつまでも続くと良いわね。……さ、いただきましょう」
危なかった。それにしても本当にどうしたのかしら。体調を壊していたりするのかしら……。
「ごめんなさい、ちょっとお手洗いに」
「あら、行ってらっしゃい」
そそくさと席を立つ彩香さん。視線を戻すと、幸せオーラ満開の田中さん。
彩香さんも変だけれど、田中さんもおかしいわよね。旦那さんの浮気の相談をしている人の前で、それもその人の話を遮って。……あ、そのきっかけを作ってしまったのは私だったかしら。気をつけましょ。
「美味しいわね、このパスタ」
「はい! でも、こんなに美味しいものをご馳走になるなんて……」
「良いのよ良いのよ。何なら、働き出してから、お礼にって彩香さんを誘ってあげたらどう?」
「そ……そうですね! 知子さん、最高です!」
「あら……ありがとう。ほら、冷めないうちに食べちゃって」
「はい! いただきます!」
元気なのは良いけれど、こういう雰囲気のお店でエクスクラメーションマークは誉められたもんじゃないわね。……ま、良いでしょ。まだ若いんだし。
「ごめん、遅くなっちゃって」
「おかえりなさい。込んでたの?」
「そう……なの。珍しいわよね」
こほん、と咳をした彼女は、「さ、食べよ食べよ」とフォークを持った。
◇◇◇
『今日は楽しかったです。ありがとうございました。愛美』
田中さん……? あぁ、そうだった。そういえばあの後、連絡先を交換したのよ。
私も楽しかったわ。久しぶりに若い頃に戻ったみたいだったもの。彼ともお幸せにね。……若い頃に戻った、なんて、ちょっと大袈裟かしら? 私もまだ20代だし、おかしいわよね。つくづく、主婦ってものは、所帯染みて若くなくて……良いことはあまりないのよ。
「ただいまー」
「あらあら、おかえりなさい。今日は早かったのね」
携帯を閉じ、机に放置したまま夫のところへ急ぐ。
「今日は珍しく順調でさ」
「良かった」
……あぁでも、主婦ってものは、確かに幸せ。幸せなのよ。
そう。彩香さんは、相手を間違えただけ。
「あ、そうだ。健太が帰って来てるぞ。さっき、車で追い越したんだ」
「そうなの?」
どうせまた、自転車のかごにドッジボールを入れて、立ちこぎでもして急いで帰って来ているんでしょう。この通りは、細い割に裏道として使う人が多く、危ないから歩きなさいと言っても聞きはしません。そして、玄関のドアを開けて叫ぶのです。
「ただいまー! 今日ご飯なに?!」
6時には帰りなさい、という約束はなかなか守ってくれませんが、遅れると言っても10分かそこらですし、かわいいものだと思います。
「多分もうすぐ見えるぞ」
夫が鞄を私に預け、道路の方を向いたとき、確かに自転車に乗った健太の姿が見えました。よほど急いでいたのか、頬が真っ赤に染まっています。
「健太、……」
おかえり、と言おうとした、その時です。健太の後ろから、車が来ました。
――キイィ、ドン、
そんな音もしました。
まさか。
そんな。
そんなことがあって良いわけがない。
「健太!」
夫が道路に走って行きます。私も、夫の声で目が覚めました。そうだ。怪我をしただけで、生きているかも知れません。
あの車だって、私には、ゆっくり動いていたように見えましたし、軽い打撲で済んでいるかも知れません。
健太、と声を出して呼んだつもりでしたが、掠れた声しか出ません。喉が自分のものではないみたいです。
スリッパのまま框を降り、何段かの階段を駆け下りました。足がからまって、何度も転びそうになりました。
「知子……」
夫が、健太を抱き上げています。涙の溜まった目でこっちを見詰めています。……良かった。生きていたんだ……。
「早く救急車を! 知子! 血が、」
血が、血が、と繰り返す夫は、しきりに健太の頭を手で押さえつけようとしています。
……血?
夫の真っ白なカッターシャツは、赤黒く汚れていました。健太は、健太は、
「早く! 携帯は俺の鞄の中だ!」
健太は、死んでしまったのでしょうか――。
「知子! 健太の命に関わるんだぞ!」
健太の命。
そうです。まだ助かるかも知れません。
絡まる足をどうにか動かし、玄関にたどり着きました。鞄の中を探るのももどかしく、ひっくり返してしまいました。ガコン、と鈍い音を立てて落ちたのは――携帯電話です。
110、違う、119。
震える指で、必死で番号を打ちました。
あぁ、どうか、健太が助かりますように……。
◇◇◇
健太はダメでした。車にぶつかった後、コンクリートの階段の角に頭をぶつけたのが原因だそうです。
健太に必死で、車のナンバーも車種も覚えていない私たちは犯人を探す手立てもなく、そんな気力もありませんでした。
私たちはこれから、どうやって生きて行ったら良いのでしょう。今は、次の子を作るなどと言うことは考えられません。
「ちょっと、ごめん」
病院の待合室に、死んだように座っていた私たちですが、夫が席を立ってしまいました。
怖くて、怖くて、今日見たものが全て怖くて、夫さえもいなくなりそうで怖くて、でも、引き留めて良いことがあるようには思えませんし、確かに私も、1人になりたい気はしていました。
でも、やっぱり、心細いのです。
我慢が出来ずに、私は、今日会ったばかりの若い友人に電話することにしました――。




