彩香
旦那の浮気――言葉にすれば5文字で済む、もっと簡潔にするなら漢字2文字の熟語で済むこの事柄を、私はどう受け止めれば良いのだろう。
たまにはデートっぽく外で落ち合おう、なんて約束に浮き足立ち、待ち合わせ場所に早く着き過ぎてしまった私は、仕方なく駅の近くの喫茶店に入って、時間を潰すことにした。
まだ早すぎるし、仕事途中だったらと思うと、連絡するのも気が引ける……そんなことを考えつつ珈琲を頼み、何気なしに店内を眺めた時だった。
――あれ? 充くん?
なーんだ、同じ喫茶店内にいたんだ。偶然。でも、ちょうど良かった。
「充く……」
半分腰を浮かせて手を上げ、彼を呼びかけ、……凍った。
……誰?
かなりナチュラルな化粧の女。まるで、朝帰りの彼女みたいな。彼女? まさか。妹? ……いや、兄弟はいないと言っていた。じゃあ、職場の人? それにしては若すぎるか……ううん、所属なんかどうでも良い。誰であろうと、あの人絶対、充くんのこと、好きだ。充くんはどうなんだろう。違うと言って欲しい。
「珈琲になります。ごゆっくりどうぞ」
小さく会釈を返しつつ、私の目線は彼女から離れない。
誰? 誰? どこの女? まさか、充くんが浮気なんて。昔から女っ気のない人だったのに。
どうして?
私から告白したから? 結婚したのも仕方なく? 本当は私のことなんか、好きじゃない?
やけに楽しそうな女。時々顔なんか赤らめやがって。「これは私の男だ」と言ってやろうか。ひっぱたいてやろうか。
珈琲を一気に煽る。
熱い。舌がじんじんする。でも、そんなのどうだって良い。
ごめん、急用入った。
彼にメールを送り、私は早々と店を出た。
◇◇◇
私に飽きたのだろうか。私が子どもも作れない不良品だからだろうか。
生理が来る度に襲う絶望と虚無感は、男性には分からないものなのだろう。……いや、そんなことは関係ないのか。不良品な私と一緒にいなければ、彼は子どもを授かれるのだから。
子どもが欲しいのは彼だけではないのに。私だって辛い思いをしているのに。
「ただいまー。……あれ、帰ってたのか」
「うん。おかえり」
きっとあの女はただの職場の新入りで、彼はその指導係に任命されただけ。
私服で喫茶店でも、きっとそう。そうに違いない。
「ごはん、食べる?」
「あー、いや、今日は良いよ。ちょっと体調悪いから」
「そっ……か」
夜8時。
何も食べていなければ、お腹が空いて堪らないはずだ。……ううん、彼は具合が悪い。それだけ。
「……早くお風呂入って寝なきゃね」
「あぁ。沸いてる?」
「うん」
「じゃ、入ってそのまま寝るわ」
「……うん。おやすみなさい」
パタン、とドアが閉まる。
大丈夫、大丈夫。彼は具合が悪いだけ。
お粥を作って部屋に持って行くのはどうだろう? ……いや、夕飯を食べて来たなら迷惑なだけだ。……食べて来たなんて、私は何を考えて…………。
もし私が今、お風呂に乱入したら、彼はどんな反応をするだろう。具合が悪いと言っていたが、誘えば乗ってくれるだろうか。子どもが欲しいと言えば、同意して一緒に考えてくれるだろうか。
確かめるのも怖い。
私は既に、彼を信じてないのかも知れない。
……ごはん、食べよう。
◇◇◇
「みーくん、大好き」
「ぼくもだよ」
夕日を背に、歩く2人。公園で遊んだ帰りだろうか? 青いボールを右手に抱えている。
「手、つなご?」
「……うん」
きゅっと握りしめた手は、少し砂で汚れていた。
「大人になったら、けっこんしようね」
「うん」
夕日が沈んでゆく。夕飯の香りのする住宅街に入り、私たちは別れる――。
「……っ」
夢、か……。
最近、この夢ばかり見る。
あの頃が1番幸せだったかも、なんて。あの頃の私を恨む。簡単に結婚なんて言うもんじゃない。しかも、充くんしか男を知らない時期に。
「2時……」
こんな中途半端な時間……。最悪だ。
隣を見ると、安らかな寝顔の彼。
今、私が彼にキスしたら、……。
……馬鹿なことを考えるのはよそう。新婚じゃないんだから。そもそも私たちに、新婚の時期なんてあったのだろうか?
何だか目が冴えて来てしまった。馬鹿なことを考えるからだ。
そっと起き上がる。彼はびくともしない。
「……充くん」
どうして、名前を呼ぶだけでこんなに緊張するのだろう。こんなに声が震えるのだろう。
「みーくん」
私は、何のプレッシャーに押し潰されそうなのだろう。
返事をしない彼の横顔。昔からかわいらしく、大人にもよく可愛がられていたが、いつからか少女マンガに出てきそうな爽やかさが相まり、イケメンと呼ばれる部類になった。
もう28なのに、あんな小娘と浮気なんて、バッカみたい。自分が少し並みより格好良いからって、調子に乗らないでよね。
「みーくん、ねぇ、」
こっち向いてよ。馬鹿。
私だって馬鹿だけど、絶対にみーくん程じゃないから。
「…………、何泣いてんだ?」
「…………っ……起きた」
「お前が起こしたんだろうが。なんかあったのか?」
「……っ、馬鹿」
「ちょっと待てよ……マジか……電気つけるぞ」
「つけなくて良い」
「え? でも、」
「正直に答えて」
あぁ……私は馬鹿だ。
でも、例えここでこの関係が終わってしまったとしても、私はきっと後悔しない。このまま暮らすより、絶対に幸せだから。
「……何だよ」
「今日の昼」
「そうだ。お前、何の急用だったんだ?」
「誰といたの?」
「おい、質問に答えろよ」
「私が先に質問してるの」
「……誰と、って……」
最低。最悪。
せめて流暢に何か言い訳してよ。どうして言い淀むの?
「見てたのか?」
「答えて」
「あれは……妹だよ」
「嘘よ。1人っ子だって言ってたじゃない」
「……なぁ、夜遅いし、寝ようぜ」
「勝手にすれば?」
「お前なぁ……」
「ごめん、出てくる」
逃げるように寝室を出た。
◇◇◇
携帯忘れた。
財布も忘れた。
ついでに言うなら、上着も忘れた。
滑稽だなぁ。笑いが出てくる。
この部屋着は、春先の夜の気温には薄すぎるようで、身震いした。
乱暴に拭った目元が痛い。こりゃ、明日は腫れるな。
星空が綺麗なんて、誰が言ったのだろう。こんな冷たいものはないのに。
……私は何を悩んでいるんだろう。彼は浮気だった。それだけじゃない。たったそれだけ。何を悩む必要があるって言うの?
浮気されたら別れるのが普通? もうしないって約束する? それとも……。
あぁ、それが良いかも。
彼を殺して、私も死ぬ。
ははは、バッカみたい。どうして私が彼の為に命投げ出さなきゃいけないの?
足元が覚束ない。夜中だからだろうか。なにげに寝不足が続いているのかも知れない。
「馬鹿! お前、死ぬ気か?!」
腕を思い切り引っ張られる。
「充くん……」
クラクションを鳴らしながら車が横切って行く。
「昼のことは謝る。ごめん。何なら殴って。何発でも」
「……どうして?」
「え?」
「どうして私じゃダメなの? 不良品だから?」
「そんなの……あるわけないだろ? 馬鹿だなぁ」
「でも、実際充くんは……」
「彩香」
急に抱きしめられる。久々に嗅ぐ充くんの香り。
「……ずるい」
「ごめん」
「もうしない?」
「……もうちょっと待ってくれないか」
「どうして?」
肯定的な返事を待っていただけに、その衝撃は大きかった。
思わず彼を突き放す。
「頼む、待ってくれ。違うんだ」
「何が違うの?」
「待て、彩香」
「嫌! 触らないで」
「彩香!」
両手首を掴まれ、身動きが取れなくなった。やっぱり男だったんだな、なんて思った。浮気なんて、簡単にやってのけるんだろう。
「……なに」
「俺は、お前が好きだ。ちゃんと戻る。だから、ちょっとの間だけ」
本当なら、今ここに包丁があれば、私は彼を刺していただろう。致命傷は与えられなくても、何らかの形で傷を付けていただろう。
どうして私は女なんだろう――。
手首を掴んだ手は、離れない。
どんなにもがいても、離れてはくれない。
どうして私は、彼の浮気を公認しなきゃいけないの? 子どもが出来ないから?
「良いな?」
「……分かった」
怒りで声が震える。
「良かった」
何が「良かった」だ。
死んでやる。ううん、もっと残酷な方法で、復讐してやる。
私が便利な家政婦なんかじゃないことを、証明してやる。




