第9話 誰が数を間違えたか
商店街のいちばん奥の惣菜屋で、澪はパックの蓋を順に持ち上げていた。
陽織が「三日ぶんくらいは押さえておく」と言った十八日の夜から、二日たっている。十九日の木曜はどこも戻らなかった。押さえが切れたのは今朝——二十日の金曜で、切れた場所がここだった。六軒目がこの店になることは、澪の紙の上では二日前から分かっていた。並びの次がここだった、というだけで、それ以上の理由はない。だから開店前に来た。
「六十五ありました」
レジの内側で、店主が帳面を開いたまま言った。シャッターは腰の高さで止まっている。
「今朝作ったのは二十四です。ほんで棚には六十五。四十一、多い」
「昨日の売れ残りは」
「十二。一昨日が二十九」
吉岡さんは、何を聞いても先に数で答えた。二十九と十二。足すと四十一になる。捨てたぶんが、そっくり揃って戻っていた。
「売れたぶんは」
「合うとります。売れたぶんは一つも戻っとらん」
乾物屋では逆だった。売った数だけが朝にふえていて、捨てたものの話は一度も出なかった。戻ってくるのは、店から出ていったものだ。あちらは売って出ていき、ここでは捨てて出ていく。
捨てたものには、捨てるだけの理由がある。
棚のパックは、どれも同じ透明の蓋で、同じ手書きの値札が貼ってあった。ひじきと切り干しと、鶏の甘辛いの。見た目では、今朝のものと一昨日のものの区別がつかない。指で押してみても、へこみ方まで同じだった。
「並べたのは」
「朝いちの人です。私やない」
言い方に、うっすら角があった。吉岡さんはそれを自分でも聞いたらしく、帳面のほうへ目を落とした。
「今日は、その四十一を棚に出さないでください」
吉岡さんは帳面から顔を上げた。
「一万一千円ぶんですよ」
「一日で済むかどうかは、明日の朝に分かります。それまで、分けておいてください」
「……考えます」
考えます、は、やらない人の言い方だった。澪はシャッターの下をくぐって、駅のほうへ歩いた。
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昼休みの前に、中村あかりが背もたれの上から顔を出した。
「ねえ、この前の『順番』って、まだ話してもらえないの?」
「橋から遠いほうへ、一軒ずつ動いてるの。今はいちばん奥」
あかりは口を半分開けたまま、二秒ほど止まった。
「……それ、ほんとに順番があるの」
「あるわ」
「じゃあ、奥まで行ったらどうなるの」
答えは持っていなかった。あかりは、えー、と言ったきり、今日は次の噂へ移らなかった。
午後、西野課長が机の横に立った。
「青木さん。六月ぶんの照合、月曜の朝いちで要ります。今日中にできますか」
「できます」
「助かります。ほかは止めてもらって構いません」
用件だけ言って、そのまま戻っていった。悪気はない。この人は澪の夜の予定を知らないし、知る理由もない。仕事のあとと休みの日だけ、と決めたのは澪のほうだった。
六時を回ったころ、佐藤結衣が澪の机の端に紙を置いた。コーヒーではなかった。手で描いた地図だった。
「明日の店。看板が小さいから」
「地図まで描いたの」
「二回通り過ぎた人間が描いてるんだから、間違いないよね」
「六時ね」
「先に座って待ってる」
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惣菜屋の前に着いたときには、八時を回っていた。シャッターは下りている。
路地の奥で何かが動いて、膝の高さのまるい影が出てきた。
「今日は来ないかと思ったぞ」
「玉助。あの店、何時に閉めるの」
「七時だ」
一時間、遅かった。澪は看板の下にしゃがんで、聞いたことを順に並べた。戻ってきているのは店から出ていったもので、乾物屋では売った数、ここでは捨てた数だということ。
「捨てたぶんだけってのは、おかしいだろ」玉助は前足を揃えた。「売れたぶんも戻ってるはずだ。あっちはそうだった」
「数が合わないの。二十九と十二で四十一。捨てたぶんだけが、ぴったり」
「……ふん」
二十九と十二、と口の中でもう一度言ってみた。千夏なら、この手の数字を面白がる。大阪へ発ってから半月と少し、電話はしていない。
「で、どうする」
「呼ぶわ。『これは大きい』とわたしが言ったら出てくる、という約束になってるの」
「そんな約束をさせたのか」
「向こうが呑んだのよ」
澪は立ち上がって、路地の真ん中で声に出した。
「これは大きい」
何も起きなかった。もう一度、少し強く言ってみた。シャッターの向こうで冷蔵庫が唸っているだけだった。
玉助が鼻を鳴らした。
「お前、呼び方を聞いたのか」
「……聞いてないわ」
「約束だけして呼び方を聞かんやつがあるか」
「言われなくても分かってるわ」
「言づけといてやる。あの女神は屈むのは嫌いだが、呼ばれるのは好きだ。来るぞ」
「取り分は」
「油揚げ二枚。……いや、三枚だ。夜は足が冷える」
「足の話は関係ないでしょう」
「関係あるさ。歩くんだからな」
玉助は路地の奥へ入っていって、途中で一度だけ振り返った。それから、シャッターの列の影に紛れて見えなくなった。澪は自分の紙のことを考えた。六軒目の欄はもう埋まっている。その下に、まだ何も書いていない行がある。
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土曜の朝、シャッターは上まで上がっていた。
「昨日、二件ありました」
吉岡さんは、もう帳面を開いていた。開くのが早い。
「四十一のうち、三十四売れました。安うしたので、すぐでした。昼に一人、返しに来ました。夕方にもう一人、電話で」
七時に間に合っていれば、と一度だけ思った。思っても仕方がないので、そこで止めた。
「それと」吉岡さんは帳面の端を指で押さえた。「みっちゃんが、今月で辞めると言うとります」
「みっちゃん」
「二十年、朝いちの棚を任せとる人です。数が合わんのはあの人が来てからや、とは、私、言うてないんです。言うてないんですけど……三日ぶん、帳面を見せてくれとは言いました」
乾物屋の店主は、戻りが止まったとき、落ち着かんと言った。それだけだった。同じものがここへ来て、人が一人、二十年勤めた店を辞めようとしている。
大きくなったわけではなかった。当たった相手が、数を合わせる人だっただけだ。
昨日の夜、路地の真ん中で言ったことは、間違いだった。要るのは神ではない。
澪は鞄から袋を出して、レジの横に置いた。輪ゴムだった。
「今夜から、売れ残りに一本ずつかけてから片づけてください。朝は、輪ゴムのあるものを外す。それだけです」
「……戻ってくるほうに、輪ゴムが付いとるということですか」
「出ていったものが戻るなら、印も一緒に戻ります」
「……なんで、そんなことが分かるんですか」
「数えたからです」
それ以上は言わなかった。誰にどこまで話すかは自分で決める、と決めてある。決めたときは、こんなに早く使うとは思っていなかった。
吉岡さんは帳面に線を二本引いて、二列にした。手が速い。
「棚に出す前に数える。輪ゴムのぶんを引く。……これなら、みっちゃんに帳面を見せてくれと言わんで済みます」
「言わないんじゃなくて、間違えてなかったって言ってあげてください」
吉岡さんは、帳面を持ったまま黙った。
外したぶんは、路地の端の箱に入れてもらうことにした。片づける者がいます、とだけ言った。
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店は両国橋を渡ってすぐの、二階だった。ほつれが動いていくのとは、ちょうど逆の向きになる。
六時に着いたときには、結衣がもう窓の内側から手を振っていた。地図は要らなかった。
四人で二時間ほどいた。仕事の話は最初の十分で終わって、あとは店と電車と、誰かの家の犬の話だった。
「結衣ちゃん、休みの日って何してるの」
「電車。終点まで行って、そのまま帰ってくるの。降りないのよ」
「降りないの」
「降りると、帰る用事ができちゃうでしょ。何もしない日が欲しいだけだから」
そういう休みの取り方があるのか、と澪は思った。手帳に書いておこうかと本気で考えた。
店を出て、四人で駅のほうへ歩きかけたところで、澪だけが足を止めた。
看板の灯りの届かないところに、女の人が立っている。結衣たちはその前を通り過ぎていった。誰も横を見なかった。
「先に行ってて。忘れ物」
三人が角を曲がってから、澪は引き返した。
「昨日の夜、呼んだのよ」
「聞こえたわ」
「……来なかったでしょう」
「行かなくても済んだじゃない」
「それ、答えになってないわ」
陽織は笑って、橋の向こうへ目をやった。商店街のある側だった。
「明日の朝は、あなたの紙に新しい行が要るわね。……あの通りは、あそこで終わりでしょう」




