第8話 湿った紙と、青い石
商店街のアーケードの下で、澪は湿ったチラシの裏を広げていた。
外は雨で、路地の入口だけが白くけぶっている。屋根を叩く音が頭の上に乗っているせいか、店先の声だけがやけに近く聞こえた。紙は指で押さえていないと、端からゆっくり丸まってくる。
四晩ぶんの数字が、右下がりの字で並んでいた。
「一行目が十四日の朝な。売った数と、朝にふえとった数」
乾物屋の店主が、レジの脇から身を乗り出して、紙の上をなぞった。
十四日は、鷲の門の石垣で青石をもらった日だった。あれから三日たっている。
駅前の角で人が半歩よけるのを数えたのが六日前。千夏が大阪の現場へ発ってからは、半月になる。電話はしていない。
「六と六。次の朝が五と五。ぴったりやろ」
「三行目から合わなくなってますね」
「そうなんよ。七つ売ったのに、四つしかふえとらんかった。ほんで今朝は、ひとつもふえとらん」
四行目のゼロだけ、ほかの字より丸が大きかった。書いた人の気分が出ていた。
「止まった、ってことですよね」
「そうなんやけど、変な気持ちやわ。気持ち悪いのが無うなったら、それはそれで落ち着かんのよ」
店主はカゴの縁を撫でた。梅雨は乾きものに厳しいらしく、椎茸の袋も昆布の袋も、置いてあるだけで表面がしっとりしている。奥で除湿機が低く唸っていた。
「毎晩、助かりました。数えてもらってなかったら、何日の朝に止まったのか、誰にも分からなかったので」
「なんぼでもするけんね。……そのかわりでもないけど、隣の花屋さん、昨日の朝から同じこと言うとるよ。捨てた花が、朝には桶に戻っとるって」
澪の指が、紙の上で止まった。
三行目。この店の数が欠けはじめたのと、同じ朝だった。
「油揚げのほうは、どうですか」
「毎晩一枚、表に出しとる。朝には無うなっとるわ。……一昨日、昆布にしてみたんよ。あれは残っとった」
「ぜいたくですね」
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雨は小降りになっていた。傘を開くほどでもない降り方で、アーケードを出ると、髪の表面だけがすぐに湿った。
花屋のシャッターはもう下りていて、その脇に空の桶が伏せてある。通り過ぎようとしたら、シャッターの下で何かが動いた。膝の高さのまるい影が、濡れた路面に足跡を四つ残して出てくる。
「玉助。花屋にまで行ってるの」
「行ってねえ。見てただけだ」玉助は前足で顔を拭って、鼻を鳴らした。「花は食えん」
「乾物屋は止まったわ。今朝で」
「知ってる。俺の取り分も止まった」
「一枚、出てるでしょう」
「あれは約束の一枚だ。減らねえ一枚とは別物だぞ」
言い方が細かい。澪は紙を鞄にしまってから、順番に並べて聞かせた。乾物屋の戻りは今朝で終わっていること。花屋は昨日の朝から始まったこと。始まったのは、乾物屋の数が欠けはじめたのと同じ朝だったこと。
玉助は尻尾の先を一度だけ振って、それから胸を張った。
「戻りってのはな、水のあるほうへ寄るんだ。俺は毎晩この路地にいるんだぞ。次は橋のほうだ」
「今朝、どこかで始まってない?」
「豆腐屋だな。パックが揃って戻ってたと」
「豆腐屋って、橋から見てどっち」
玉助の鼻先が、ゆっくり路地の奥を向いた。しばらく止まっていた。
「……逆じゃねえか」
「逆ね」
「俺は情報屋であって、占い師じゃねえ」
「そう言うと思ったわ」
澪は路地を奥へ歩いた。乾物屋、花屋、豆腐屋。三軒が、橋から遠ざかる向きにきれいに並んでいる。並べてみると、乾物屋だけが妙に長かった。この店の戻りが始まったのは、先週の金曜に玉助が四日前だと言っていた日——九日の朝だから、今朝で一週間以上になる。花屋は十六日に始まって、二晩で欠けはじめた。
短くなっている、と澪は思った。
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翌日の昼、中村あかりが椅子ごと寄ってきた。
「澪さん、商店街の話、また増えてるよ」
「どこ」
「今朝は二軒いっぺんだって。豆腐屋さんの先の、お茶屋さんと、その隣の靴の修理のとこ。両方とも、片づけたのに朝には元どおりだったって聞いた」
「ありがと。順番が分かったわ」
「順番?」
「そのうち話す」
あかりは、えー、と言いながらも、そのまま次の噂の話に移っていった。仕事中のあかりは言葉がきれいで速い。噂を持ってくるときだけ、少し身を乗り出す。
佐藤結衣が、コーヒーのカップを二つ持って通りかかった。片方を澪の机の端に置く。
「澪ちゃん、土曜の話だけど」
「土曜」
「言ったからね、って私が言ったの、覚えてる? 次は誘って、って言ったの澪ちゃんだからね」
十二日前、六日の昼だった。あのとき断ったのは自分で、そのあとに一言足したのも自分だった。
「……覚えてるわ」
「じゃあ六時ね。逃がさないから」
「その店、結衣ちゃんが選んだの」
聞いたのが間違いだった。結衣は道順から話しはじめて、看板が小さくて二回通り過ぎたこと、一度目は満席で入れなかったこと、それでも諦めなかったことまで、昼休みが終わるまで話していた。悪い気はしなかった。ただ、この人に店の話をさせると終わりが来ない。
昼のあいだに、澪は手帳の見開きに店を並べて書いた。乾物屋が九日から、花屋が十六日から、豆腐屋が十七日から、お茶屋と靴の修理が今朝の十八日から。左から右へ、橋から遠ざかる向きに矢印を引く。
一週間以上、二晩、一晩、そして今朝は二軒。
速くなっていた。
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その日の帰り、雨は上がっていた。アーケードの端まで来ると、屋根の切れ目から水が線になって落ちていて、路面にちいさな溝ができている。
その手前に、女の人が立っていた。
濡れていなかった。傘も持っていない。街灯の下にいるのに、足元に影がない。
「あら。ちゃんと働いているのね」
「あなたが置いていったぶんよ」澪は言った。「陽織」
「置いた、と言ってくれるのね。うれしいわ」
澪は鞄からハンカチの包みを出して、開いた。中の青石が、街灯の光を浅く返す。
「これ、留めじゃないのよね」
陽織は指先で石をつついて、笑った。
「似ていないでしょう」
「わたしには、どっちも青い石にしか見えなかったの」
言ってから、駅前でしゃがんだ夜のことを思い出した。あれは、見えないのに冷たくて重かった。ボタンほどの大きさで、縁がわずかに反っていて、陽織の手のひらにのせて初めて形になった。こちらは逆だ。最初から見えていて、持ち上げるとがっかりするほど軽い。石垣と同じ色をしているのに、割れ口だけが新しくて、角が三つ、同じ幅で落としてある。
「けれど、これを作った人は、本物を見たことがあるわね。寸法が近いもの」
「見たことがある、って」
「さあ。私は屈まないから、誰が何を拾ったのかも知らないの」
澪は石を包み直した。それから、手帳を開いて見せた。
「戻りが、ひと晩ずつ隣へ動いてる。橋から遠ざかる向きに、だんだん速く。……これ、何」
「ほつれよ」陽織はあっさり答えた。「片方が抜けた場所から、もう片方のあるほうへ寄っていくの。糸だって、引かれているほうへほどけるでしょう」
「進んでいく先に、持っていった誰かがいるってこと」
「そうとも限らないけれど、そう遠くもないわね」
雨のあとの湿った空気が、路地の奥から流れてきた。放っておけば、明日は二軒か三軒。そのうち、気持ち悪いでは済まない店に当たる。
「小さいところは、あなたに任せるわ」陽織が先に言った。「大きいところは、こちらでやるの」
「引き受けるわ」
陽織の目が、わずかに開いた。
「条件は三つ。一つ、わたしが動くのは仕事のあとと休みの日だけ。本業を落とすつもりはないから」
「まあ」
「二つ、わたしが『これは大きい』と言ったら、あなたが出る。屈むのが面倒でも」
「三つ目は」
「わたしが数えたことは、わたしのものよ。誰にどこまで話すかは、わたしが決める」
陽織はしばらく澪を見ていた。それから、ゆっくり首を傾けた。
「……少し、要領がよくなったわね」
「褒めても何も出ないわ」
「約束よ」
陽織は指先を、目の高さで横へすべらせた。それだけだった。路地の奥で、何かの音がやんだ気がしたが、やんだのが何の音だったかは分からなかった。
「三日ぶんくらいなら、押さえておくわ。明日の朝は、どこも戻らないはずよ。……たぶん」
「たぶん」
「本気を出すと、後始末が重いのよ」
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部屋に戻って、澪は新しい紙を広げた。
店の名前を上から順に書き、横に日付を入れて、下へ矢印を引いた。乾物屋、花屋、豆腐屋、お茶屋、靴の修理。五軒。六軒目の欄は、まだ空けてある。
湿気で紙の端がすぐ反り返るので、鞄から青石を出して重しに置いた。神が持ち歩いていたものが、座卓の上でただの文鎮になった。それでちょうどよかった。
窓の外で、樋がまだ水を落としている。
紙の端が、青石の下からゆっくり持ち上がってきた。




