第7話 六月、まだ誰もよけない
藍場浜公園の園路で、街灯が三本続けて、影を別々の方へ投げていた。
一本目の下では、澪の影はきちんと後ろへ伸びた。二本目では右へ折れた。三本目に立ったとき、影は街灯のほうへ向かって伸びていた。光のあるほうへ、まっすぐに。
駅前のあの角で人が半歩よけはじめるまで、あと一週間もなかった。
澪は一度、息を止めた。止めてから、止めたことに気づいた。
一月の夜は、部屋に戻ってから玄関で震えた。三月は、線の内側で歯を噛んだ。六月の澪がしたのは、ポケットからスマホを出すことだった。震えは来なかった。来なかったことには、そのときは気づかなかった。
日付と、場所と、何がどうだったか。それだけでいい、と言った人がいる。
メモを新しく開いて、六月五日、と打った。それから園路を端まで戻って、街灯を数えた。
十二本あった。
一本ずつ、真下から二歩ぶん離れて立って、自分の影の向きを見る。合っているのが七本。合っていないのが五本。
五本のずれ方には、斜めが一本もなかった。真横へ折れたのが三本、光のほうへまっすぐ伸びたのが二本。どちらかへきっちり振り切れている。几帳面だった。几帳面で、まったく合っていなかった。
新町川の水面に、対岸の灯りが細長く落ちている。園路のベンチには誰も座っていなくて、川べりの手すりのそばに自転車が一台だけ停めてあった。ジョギングの人が二人、澪を追い越していく。二人とも足元など一度も見なかった。見る理由がない。誰も困っていない。
澪は五本と打ち込んで、公園を出た。
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翌日の昼、佐藤結衣が机の端にコーヒーを置いていった。
「澪ちゃん、これ。淹れすぎちゃった」
「ありがと。……いつも悪いわね」
「いいのいいの。私が飲みたいだけだから」
結衣は自分のカップを両手で持ったまま、机の横に立って動かなかった。
「ねえ、明日みんなでごはん行くんだけど、澪ちゃんも来ない?」
「明日は、ちょっと用があるの」
「えー。澪ちゃん、いっつも用があるよね」
「……次は誘って。ほんとに」
「言ったからね。私、覚えてるからね」
結衣はうれしそうに言って、それから思い出したように自分の指先を見た。爪の先が薄い桃色に塗ってある。
「その爪、自分でやってるの」
「そう! 気づいてくれた?」
聞いたのは澪のほうなのに、結衣は聞かれたこと自体がうれしいらしく、道具の値段と乾かす時間の話を三分ほどした。聞き方をひとつ間違えたと澪は思った。この人に爪の話をさせると三分では終わらない。
それでも、悪くはなかった。
「……ねえ、結衣ちゃん」
「うん?」
「街灯の下って、影は光と反対側に出るものよね」
結衣はカップを口の手前で止めて、少し考えた。
「出るでしょ。理科でやったやつ」
「よね」
「なに、影がどうかしたの?」
「夜に見たら、変な向きに見えて」
「疲れてるんじゃない? 目、悪くなってない?」
「かもね」
澪はコーヒーを持ち上げて、そこで終わりにした。渡せるのはここまでだった。この先は、どこから始めても、話し終わるころには相手が別の心配をしている。
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その日の帰り、澪はもう一度、園路の端に立った。
十二本のうち、合っていないのは三本だった。
五本のうち、三本が直っている。同じ場所に二晩続けて立ってみて、澪はそれを確かめた。ただし、昨日は合っていた七本目が、今夜は左を向いていた。
直しながら、一本ずつ、新しく壊してもいる。
しかも順番どおりだった。端から二本目、四本目、六本目、と律儀に進んでいる。誰かは知らないけれど、その誰かは仕事が遅くて、几帳面で、一度に一本しか触れないらしい。
三本、と打ち込んだ。
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部屋に戻って、澪は電話をかけた。
自分からかけたのは初めてだった。三回鳴って、出た。
「みお!? どないしたん、何かあったん」
いきなり音量が大きかった。後ろで金属を叩く音がして、遠くで誰かが何かを怒鳴っている。
「大丈夫よ。……そっち、うるさいわね」
「現場やもん。今、飯」
千夏はそのまま飯の話を始めた。量だけはある、味が無い、寮の風呂が狭くて肩まで浸かれない、洗濯機が三台しかなくて夜中に並ぶ。聞かれてもいないことを、順番に全部渡してくる人だった。
「ちゃんと寝てるの」
一拍、向こうが黙った。
「……なんやの。気持ち悪いな」
「切るわ」
「うそうそ。寝とる寝とる」
澪は街灯の話をした。十二本のうち五本で、翌日は三本で、ずれ方が同じ向きで、端から順番に直っていくこと。話しながら、自分の声が仕事の電話と同じ調子になっているのが分かった。
千夏は最後まで聞いて、それからいつもの速さで断定した。
「それ、街灯のほうが傾いとるんちゃう?」
「見たわ。まっすぐよ」
「ほな、球が二つ入っとる。片っぽ切れとって、もう片っぽが横から照らしとるんや」
「一つよ。下から覗いたもの」
向こうで、箸を置く音がした。
「分からんもんは分からんな」
謝らなかった。外しても引かない。この人はいつもそうで、澪はそこに助けられているところがあった。
「うちが持っとるのは書いてあるもんだけやし、その書いてあるもんは徳島の蔵にあるんよ。兄貴に聞いたる。……あー、無理やわ。今月は帰れん」
「いいわ。急がないから」
「急がんの? あんた、そんな人やったっけ」
「誰も困ってないもの」
「困ってから行くのは、遅いんやで」
すぐには返せなかった。
「ねえ、千夏。あのね」
「千夏さーん、荷ぃ来たー」
向こうで名前が呼ばれた。
「あ、ごめん。呼ばれた。またかけて。ぜったいかけてよ」
切れた。
澪はスマホを座卓に置いて、しばらくそのままにしていた。
またかけて、と言われた。
かけなかった。その夜も、次の週も、その次も。千夏が現場を終えて徳島に戻ってくるまでの半年、澪は一度もかけなかった。
理由なら、そのとき自分で用意していた。言いたいことは電話の三分では渡らない。渡らないものを無理に渡そうとすれば、向こうの手が止まる。千夏は現場にいて、両手がふさがっている。
一人で持っておくほうが早い。
そう決めたのはこの夜だった。決めた覚えはないのに、決まっていた。
澪はメモを開いて、二行目を打った。六月六日、十二本のうち三本。
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土曜の夜、澪は三度目に園路の端へ行った。
十二本のうち、合っているのは十一本だった。
残る一本は、いちばん端の、いちばん暗いところに立っていた。近づいて見上げると、球が切れている。そこだけ園路が黒く抜けていて、足元のタイルの継ぎ目も見えない。
影ができない。影ができないので、合っているのかどうか、確かめようがなかった。
澪はしばらくその下にいた。何も起きなかった。両隣の街灯の光がぶつかるあたりに、自分の影が薄く二つ出ているだけだった。
三晩かけて十一本を直して、最後の一本で球が切れている。誰かは知らないけれど、その誰かは今ごろ、たぶんかなり困っている。
「……困ってるの、そっちのほうじゃない」
言ってから、少しおかしくなった。おかしくなったことのほうが、自分では意外だった。
三行目を打つ。六月七日、一本。判定できず。
判定できず、というのは事務の仕事で覚えた書き方だった。分からないものを、分からないままの形で残しておく。あとで読み返したときに、そこだけ嘘になっていないように。
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帰りに、駅前を通った。
ロータリーのバスは客を降ろし終えて、放送だけがまだ二台ぶん重なっていた。信号が変わって、横断歩道の上を人が渡っていく。誰も、どこでも、半歩ぶんもよけなかった。灰色のタイルが四角く並んでいるだけの、ごくふつうの一角だった。
澪はそこを、何とも思わずに通り過ぎた。
信号が赤に戻る。次の人たちが横断歩道の前に溜まりはじめて、四人になり、六人になり、七人になった。ロータリーへバスがもう一台入ってきて、放送が三つ重なる。七人は同じ幅で並んだまま、青が来るのを待っていた。




