第6話 みお、それ何回目や
「澪さん、あの川の話、まだ聞きたい?」
会社の駐輪場で、中村あかりが自転車のスタンドを蹴り上げた。五月の夕方はまだ明るくて、澪の上着は朝から鞄の中に丸めたままだった。
夜の川で人を呼ぶ声がする、という噂だった。三月に同じ話をされたときは、聞かずに終わらせている。あれから二か月。駅前のあの角のことを澪が知るまでは、あと一か月足らずだった。
「聞きたいとは言ってないけど」
「言うてる顔しとるよ」
あかりは自転車を押して隣に並んだ。
「おじいさんが一人、堤防から落ちかけたんやって。吉野川の、野球場の裏のとこ。夜に名前呼ばれて、返事したら、気ぃついたら水際におったって」
澪は鍵を差し込む手を止めた。
「歩いた覚えは」
「無いって言うとるらしいよ。やけん足腰かなあって、みんな言うとる」
あかりはそれを笑い話の形で置いていった。笑い話にできる範囲だったからだ。落ちかけただけで、落ちてはいない。
「ね、聞いてよかったでしょ?」
「よくないわ。……ありがと」
自転車を押して駅の側を抜けた。横断歩道は青のあいだに全員が渡りきって、誰も途中で足を止めなかった。澪もその一人だった。
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部屋に戻って三十分もしないうちに、原付の音が近づいてきて、玄関のすぐ外で止まった。
「みお。おるんやろ。電気ついとるもん」
ドアを開けると、宮田千夏がヘルメットをかぶったまま立っていた。大学のころからこうで、この人は脱ぐより先に喋る。
「三月から『そのうちね』の一点張りやけん、来た」
「その理屈、通ると思ってるの」
「通っとるやん。今、開けたやろ」
千夏は靴を脱ぎながら喋り、廊下を歩きながら喋り、冷蔵庫を開けながら喋った。
「うわ、なんもない。あんた飲むもん買わんの。……あ、麦茶あるやん。もらうで」
「まだ何も言ってないけど」
「言うたらもらうんやから一緒やん」
座卓に、輪ゴムでまとめた紙の束が置かれた。コピーの端が黄ばんで、角が丸くなっている。千夏の実家は北田宮の住宅地にある古い社で、北筋天神社という。継いだのは兄で、千夏は逃げた。逃げたわりに、この手の紙だけは十年ぶん集まっている。
「吉野川の話、聞いた? 呼ばれて返事したら水際に立っとったやつ」
「今日、聞いたところ」
「うちんとこにも来た。氏子のおばさんが兄貴に言うてきてな」
千夏は麦茶を半分飲んでから、紙を一枚めくった。
「子どものころに聞かされた話でな。名前を呼ばれても返したらいかん、返した分だけ持っていかれる、っていうのがあんねん」
「似てるけど、それ、川の話?」
「山や」
「……」
「まあ、そういうこともある」
謝りもせずにもう一枚めくった。千夏は言い切ってから外す。外しても引かない。そのせいで澪は、この人の断定を半分だけ信じる癖がついていた。
「うちの見立てを言うで。これは川のもんやない。山から下りてきたやつが、たまたま川で人を待っとる。せやから呼ばれる場所は毎回ちゃうはずや。賭けてもええ」
「賭けないわ」
「明日、見に行こ」
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翌朝、澪は自転車で堤防の道を上った。千夏は原付を歩くのと変わらない速さで並べて、ヘルメットの中から喋り続けた。
河川敷の草は膝の高さまで伸びて、歩くと靴の先に露が残った。川は濁って幅が増している。田に水を入れる時期やけん、と千夏が言った。それが合っているのかどうかも、澪には分からない。
野球場の裏に着いた。金網に沿って、斜面を下りる細い道がある。足元注意、と書かれた立て札が、根元から少し傾いていた。
千夏が紙の束を広げて地形と照らし合わせはじめたので、澪はその横を通り過ぎ、水際のほうへ数歩だけ下りた。
呼ばれた。
自分の名前だった。知らない声でもなく、知っている誰かの声でもない。澪、という二文字が、後ろから普通の高さで置かれた。
はい、と言いかけた。
言いかけて、澪は自分の口を手で押さえた。押さえてから、押さえる必要があったことのほうに背中が冷えた。心臓が耳の下で鳴っている。振り返ると、千夏は紙を見ていて、こちらを見てもいなかった。
それから澪は、自分の靴の位置を見た。
半歩、下りている。下りた覚えがない。
「千夏」
「ちょお待って、今ええとこ。……この曲がり方やと、ここは違うわ。もっと上流や。堰のとこまで行こ」
千夏が立ち上がって、原付のほうへ歩き出した。
「行かないで」
「なんで」
言わずに済ませる道を、澪は二か月ぶん持っていた。母にも、職場の誰にも、目の前で困っていた母親にも言わなかった。その二か月が、立て札の傾きくらいの角度で、ゆっくり傾いた。
「ここよ。ここで呼ばれてる」
おじいさんが呼ばれたのも、この場所だった。毎回ちがうはずだと、昨日の夜に賭けようとしていた人が、黙って引き返してきた。
千夏がヘルメットを脱いだ。
「聞こえたんか」
「聞こえた。……たぶん、わたしだけ」
それから澪は、一月の駐輪場のことを話した。自分にだけ温かかった鉄のこと。沸かした湯の色をした小さな明かりが、自転車のカゴから出られなくなっていたこと。三月のことも話した。外の音が入ってこない一角に子どもが座っていて、見てもいないのに丸い形だと分かってしまったこと。
話しはじめると、思っていたより短かった。二か月かけて抱えていたものが、五分もかからずに終わった。
千夏は一度も口を挟まなかった。聞き終えると、鞄から手帳を出して、ボールペンの尻をノックした。
「一月と、三月と、今日やな」
「そう」
「みお、それ何回目や」
「……三回目でしょ」
「ちゃう。三回目やと思とるだけやろ。数えとらんのやから、ほんまは分からんやん」
澪は答えられなかった。数えていなかった。数えるという思いつきを、そもそも持っていなかった。一月より前にも同じことがあったのかどうか、いま確かめる手はどこにもない。
「これからは数えとき。日ぃと場所と、何がどうやったか。それだけでええ」
「……信じるの」
「信じるで」
千夏はペンを止めずに言った。
「うちは書いてあるもんを信じる人間や。あんたのは、まだ書いてないだけやろ」
書き終えると、千夏は手帳を閉じて、いきなり立ち上がった。
「よし。兄貴に聞いたる。氏子さんにも回したる。あと、祖母さんの代の帳面がまだ蔵にあるけん、あれ出さな」
「待って。名前は出さないで」
「出さん出さん」
「千夏」
「出さんて。……たぶん」
原付のミラーの角度を直しながら言うので、目が合わなかった。
澪はそのとき初めて、言ったものは戻せないのだと分かった。黙っているあいだ、この話は澪の中だけで止まっていた。今は、千夏の手帳の上にもある。止め方を、澪はまだ知らない。
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その日の夕方、澪は机に紙を広げた。
夜、ここで名前を呼ばれても返事をしないでください。
書いてから、読み返して、破った。誰が書いたのかと聞かれる。なぜ知っているのかと聞かれる。答えられないものを堤防に貼るわけにはいかない。
もう一枚に、足元注意、と書いてみた。それはもう立っている。立っているのに、おじいさんは水際まで行った。
書けることには効き目がなく、効き目のあることは書けなかった。澪は二枚とも小さく折って、捨てた。
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千夏は日が落ちてから帰った。玄関で、ヘルメットをかぶり直しながら、思い出したように言った。
「うち、六月から半年ほど大阪の現場やねん。せやから昨日、無理やり来た」
「……先に言ってよ、それ」
「言うたら、あんた今日会わんかったやろ」
そのとおりだったので、澪は黙った。
「お兄さんは、元気なの」
「元気やで。ようできた人や。うちよりずっと」
千夏はそこだけ声を落として言って、すぐいつもの音量に戻した。
「向こうからでも電話は出れるけん。夜中でもかけてええで」
「かけないわ」
「かけなさい」
原付の音が遠ざかって、階段の下の道でいちど大きくなって、それきり聞こえなくなった。夜になっても上着はいらない。腕に蚊が止まったので、澪は払った。
言わなきゃよかった、とは思わなかった。思わなかったことのほうが、少し落ち着かなかった。
「……あの人、絶対いつか大声で言うわ」




