第5話 聞こえないところ
乾燥機の唸りの向こうで、女の人が同じ名前を三度呼んだ。
コインランドリーのガラス戸は内側だけ白く曇っていた。三月の夜で、外はまだ冷えるのに、上着の前を開けていても平気になっている。息が白くならなくなったのはいつからかと思い出しかけて、澪は二か月前の駐輪場に行き当たり、やめた。
「そうた。そうた!」
四度目だった。
澪はベンチから腰を浮かせた。ガラス越しに外の駐輪スペースが見える。自転車の列の端、自販機の明かりが届くか届かないかのところに、小さい背中がしゃがんでいた。泣いているのでもなく、両膝を抱えて動かない。
女の人が戸を開けて外へ出た。澪も出た。夜の風はまだ冬の匂いで、そのぶん洗剤の甘さが背中から追いかけてきた。
「すみません、あの子……さっきから返事しなくて」
三十代くらいの人で、焦っているのに丁寧な話し方をした。それが余計に焦って聞こえた。
「そうた! 帰るよ!」
声はよく出ていた。届いていないほうがおかしいくらいの声だった。子どもは自販機の下を見たまま、指で地面をこすっている。
「耳、悪いんですか」
「ぜんぜん。……小さい声でも振り向く子なんです」
澪も呼んでみた。すみません、と断ってから、そこの子、と声を張る。肩は動かなかった。
そこで、澪は自分の声のほうを聞いた。
出た声が途中で終わっている。返ってくるでもなく、遠くへ伸びるでもなく、口から二、三メートルのところでふつりと無くなる。
一歩、前に出た。
自転車の三台目のあたりで、耳の奥が詰まった。飛行機が降りるときのあれに近い。乾燥機の唸りも通りの車も自販機のぶうんという音も、まとめて一枚向こうへ行った。自分の靴が砂利を踏む音だけが、やけにはっきり残っている。
半歩下がった。音がぜんぶ戻ってきた。
もう一度入る。消える。出る。戻る。
何度か繰り返してから、澪は靴の先を線の上に置いたまま止まった。自販機の前で缶を選んでいた人が、選ぶのをやめて行ってしまった。あとで考えることにした。
「あの、どうかされました」
「線があるみたいなんです」
説明になっていないと気づいて、澪は指で地面を差した。
「ここから、あそこの三台目の自転車まで。丸く抜けてます。中に入ると、外の音が入ってこないんです」
言葉が出てから、自分で驚いた。
丸い、と言った。形も広さも確かめていない。歩いたのは一本の線の上だけで、向こう側がどこまで続いているかなど見えるはずがなかった。それなのに口が先に答えを出していた。ただ、そこがそういう形をしていると知っていた。
「……見えるんですか」
「いえ」
見えない。見えないけれど分かる、と言ってそのあとどうなるかは、二か月前に見当がついていた。今日は、目の前に困っている人がいる。
「たぶん、聞こえてないだけです。呼んでも無駄なので、連れてきます」
乱暴だと自分でも思ったけれど、母親は、お願いします、と言った。子どもが動かないという事実のほうが、澪の言い分より重かったらしい。
念のため、スマホの録音を始めた。事務の仕事で覚えた癖だった。
線をまたいだ。
耳がまた詰まって、音の届く範囲が自分の体のまわりだけになった。息の音がうるさい。心臓まで数えられそうで、澪は歯を噛んだ。怖いと思うより先に、この静けさを心地よく感じたことのほうが怖かった。
しゃがんでいる子どもの横に、同じようにしゃがんだ。
「こんばんは」
子どもが顔を上げた。小学校の二年か三年くらいで、まったく驚いていない顔だった。
「聞こえる」
「聞こえるよ。おばちゃんの声は聞こえる」
おばちゃん、と澪は口の中で繰り返した。
「お姉さん、ね」
「ふうん」
そうたは地面に戻って、また指で砂をこすった。膝の前に、丸が三つ描いてある。
「お母さん、呼んでるよ」
「呼んでない」
「呼んでる。四回」
「聞こえんもん」
そうたは澪を見ずに言った。それから、少し声を落とした。
「ここな、しずかやけん」
壊れているとも怖いとも思っていない。静かで居心地がいいから座っている。子どもが押し入れに入るのと同じだった。
「静かなのはいいけど、お母さんの声も入ってこないのよ、ここ」
「ええやん」
「よくないでしょ。心配してる人が外で困ってるの」
「……ほんまに?」
「ほんとに。手、貸して」
そうたは砂の丸を三つとも手のひらで消して、立ち上がった。差し出した澪の手を、握らずに袖のほうを掴んだ。子どもの掴み方だった。
二歩で線を越えた。
音がまとめて戻ってきて、そのなかに母親の声があった。名前を呼んで、早口で心配を伝えて、澪へ何度も頭を下げた。澪は、大丈夫ですよ、とだけ言った。あそこは今夜は近づかないほうがいいです、とも。理由は言わなかった。言えることが何もなかった。
二人が歩いていく先の電柱に、藍場浜公園の春の催しのポスターが貼ってあった。来月の日付が去年の紙の上に重ねてある。
コインランドリーに戻ると、洗濯機は止まっていた。
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部屋で洗濯物を畳んでから、澪は録音を再生した。
入っていた。母親の呼ぶ声も、そうたの返事も、澪自身の「線があるみたいなんです」という、我ながら間の抜けた説明も。音が消えるはずのところで、消えていなかった。
もう一度聞いた。同じだった。
一月の夜は、たまたまで済ませられた。寒さで頭が回っていなかった、疲れていた、勘違いだった。二度目になると、それが全部効かなくなる。
支柱は自分にだけ温かかった。あの一角は自分にだけ静かだった。共通しているのは支柱でも一角でもなく、自分のほうだった。
そして今夜は、もう一つあった。
丸い、と言ったのは自分の口で、確かめたのはそのあとだった。順番が逆になっている。知らないことを知っていた、というのは、考えるほど気持ちが悪かった。澪はタオルを棚に押し込んで、電気を消した。
暗い部屋で、スマホが光った。宮田千夏だった。大学のころからの腐れ縁で、この手の話をいちばん面白がる相手だ。
画面を伏せて、鳴りやむのを待った。少しして、今度飲もう、と一行だけ来た。澪は、そのうちね、とだけ返した。
言わないと決めたのは二か月前だった。決めたときは、言わずに済ませられる話だと思っていた。
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翌日の昼、給湯室で、中村あかりがマグカップを洗いながら振り返った。
「澪さん、川のほうで夜に人を呼ぶ声がするって聞いたことある?」
湯呑みを持つ手が、一拍止まった。
「聞いたことないわ」
「私も又聞きなんだけどね。散歩の人が、誰か呼んどるなあ思て見に行ったら、誰もおらんかったって。何回もあるらしいよ」
「へえ」
「気になるでしょ?」
なる、と言えば、あかりは知っていることを全部くれる。もらってしまえば、澪は今夜そこへ行く。行けば何か分かって、分かったことは誰にも言えない。言えないものを増やすために、夜の川まで行くことになる。
「ならないわ。夜は寒いもの」
「えー。澪さん、そういうとこ現実的すぎるよ」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
あかりは笑って、来月の連休の話に移った。澪は相槌を打ちながら、湯呑みの底の茶葉を見ていた。
聞かなかったのは、これが初めてだった。
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その日の帰り、澪は自転車を押して遠回りをした。
駅の側を抜けたほうが早い。それでも通り沿いへ折れたのは、確かめてどうするのかも分からないまま、確かめたかったからだ。放っておくと、あとがもっと面倒になる。理由はそれで足りた。
日が延びていた。二か月前なら真っ暗だった時間に、空の西側がまだ明るい。
コインランドリーの前で自転車を停めて、靴の先を昨日の位置に合わせた。半歩、前に出る。
耳の奥が詰まった。まだあった。
線の位置は昨日とまったく同じだった。誰も困っていない場所が、誰にも直されないまま、そこにある。
「おばちゃん」
線の外から声がした。そうたが、ランドセルを背負ったまま自転車の列のところに立っている。
「お姉さん、でしょ」
「お母さんが、お礼言うとけって」
「聞いておくわ。……こんなところで何してるの」
「見に来た」
そうたは線のあるあたりを指さした。指の先は、澪が靴で覚えた位置とほとんど狂っていなかった。この子には見えていない。ただ覚えているだけだ。それでも澪は、その指先を目で追ってしまった。
「入っちゃだめよ」
「入らん」
「ほんとに?」
そうたは肩紐を握り直して、少し考える顔をした。それから、まったく困っていない声で言った。
「おばちゃん。あそこ、まだ静かやで」




