表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/15

第4話 五か月前、そこだけあたたかい

駅前のあの角で人が半歩よけるようになるのは、まだ五か月も先のことだった。


駐輪場の蛍光灯の下で、澪は自転車のライトのねじを回していた。


手袋のままでは指が滑るので外したら、金属が皮膚に貼りつくくらい冷たかった。夜の十一時。吐いた息が、蛍光灯の光を白く横切って消えていく。


三度目に吐いたとき、白くならなかった。


もう一度、ゆっくり吐いてみる。白い。半歩ずれて吐く。白い。元の位置に戻って吐くと、口の先の、ちょうど手のひら一つぶんくらいのところで、息はほどける前に消えた。


寒さで頭が回っていないだけだと思うことにして、澪は自転車のラックの支柱に手をついた。


温かかった。


指を離して、隣の支柱を握る。氷みたいだった。その隣も、その隣も同じで、三本目で指の付け根が痛くなった。戻ってさっきの支柱を握ると、風呂上がりに触る洗面台くらいの温さが、鉄の中にあった。


澪はしばらく、自分の手のひらを見ていた。それから外したライトをポケットに入れて、階段を上がった。部屋の鍵をかけて、暖房をつけて、やかんを火にかけた。マグカップを持ったまま、あの温さを思い出そうとしたけれど、もう思い出せなかった。


配管でも通ってるんでしょ、と口に出した。言ってしまえば、そういうことになる気がした。


---


翌日の昼休み、澪は管理会社に電話をかけた。


「駐輪場のラックのことなんですけど、一本だけ温かいんです。……はい、温かい。夜に触ると、そこだけ」


受話器の向こうが、ほんの少し止まった。それから、点検に伺いますね、という返事が、慣れた速さで返ってきた。


事務の仕事を何年かやっていると、こういう電話は上手くなる。困っていることを短く言って、いつ来られるかだけ聞く。相手を責めない。責めると日程が遅くなる。


業者は同じ日の夕方に来た。近くの物件のついでですから、と言って、作業着の人が二人。ラックの下を覗き、壁の点検口を開け、何かの数値を測る道具を支柱に当てていった。


「異常ないですねえ」


「触ってみてもらえますか。この一本」


年上のほうが、手袋を外して素手で握った。握ったまま少し首をかしげて、それから、笑った。


「冷たいですよ、これ」


澪も握った。温かかった。同じ鉄を、二人で同時に持っていた。


「……そうですか。すみません、勘違いでした」


そう言うほうが早いと分かったので、そう言った。業者の人は気を悪くする様子もなく、ついでにと言って蛍光灯の球まで見てくれた。ありがとうございました、と頭を下げて、車が路地へ出ていくのを見送った。


見送ってから、駐輪場に戻って、もう一度その支柱を握った。


まだ温かかった。


そこで初めて、背中のほうが冷えた。壊れているなら直せる。直せないなら、壊れていない。壊れていないのに温かいものを、温かいと言っているのは自分だけだった。


誰かに話す場面を、一度だけ想像した。どこから始めても、言い終わる前に相手の顔が変わるのが見えた。そのあと相手が探すのは、支柱ではなく自分のほうになる。


その日は、誰にも言わなかった。


---


夜、ごみを出しに下りたところで、明かりを見た。


駐輪場の奥、ちょうどあの支柱のあたりに、豆電球ほどの小さな明かりが浮いていた。白でもオレンジでもない、沸かしたばかりの湯の色に近かった。地面から一メートルくらいの高さで、ゆっくり上下に揺れている。


澪はごみ袋を提げたまま止まった。


蛍、と思って、一月だと思い直した。誰かのスマホかとも思ったけれど、持っている人がいなかった。


明かりが近づいてきた。


一歩下がる。明かりも一歩ぶん進む。もう一歩下がると、同じだけ来る。ごみ袋の口を握る手に力が入りすぎているのが、自分でも分かった。


「こっち」


声だった。


耳から入ってきた感じがしなかった。それなのに、はっきり言葉だった。


明かりは駐輪場の奥へすっと動いて、澪が動かないでいると、戻ってきて、また「こっち」と言った。それから、なぜか澪の自転車のカゴの中へ入った。


カゴの中で、明かりは丸を描いた。二周、三周。網の目からいくらでも出られるはずなのに、そうとは思っていないらしく、律儀に縁に沿って回り続けている。四周目に入ったところで、澪の口が先に動いた。


「……そっちは行き止まりよ」


言ってしまってから、口を押さえた。


明かりが止まった。カゴの縁を越えて出てきて、澪の顔の高さまで上がってくる。近くで見ても、熱は届かなかった。輪郭はぼやけていて、目も口もない。それなのに、こちらを向いているのが分かった。


「まだ」


何が、と聞き返せなかった。声が喉のところで止まっていた。


明かりはあの支柱まで戻ると、そこで小さくなった。膨らんで、また小さくなる。息をしているみたいだった。三度目に小さくなったとき、それは膨らまずに、そのまま下へ落ちた。


落ちるものに手を出すのは、たぶん癖だった。澪は考える前にしゃがんで、両手で受けた。


軽かった。軽い、ではなく、重さが無かった。手のひらの上で、湯の色がひとつ、静かに揺れている。温かい。あの鉄と同じ温さだった。


そこで、体が動かなくなった。


振り払いたいのに腕が言うことを聞かなかった。叫ぼうとしたのに、息だけが出た。手のひらの上のものは、まったく重くないのに、確かにそこにあった。あるものは、たいてい重い。重くないのにあるものを、澪はこの日まで一つも知らなかった。


明かりは一度だけ強くなって、それから、消えた。


---


階段を上がる音が、自分のものだと分からなかった。


部屋に入って、鍵を回して、もう一度回した。靴も脱がずに玄関へ座り込んだ。膝の上に置いた手が、はっきり震えていた。怖かったのが、いま来ていた。


暖房をつけていなかったので、部屋は外とさして変わらなかった。ごみ袋は、まだ握ったままだった。


スマホが鳴った。母だった。


「もしもし。まだ起きとった?」


「起きてた」


「お米、送ろか思て。この前のと同じでええ?」


「いい。ありがとう」


「あんた、声が変やで。風邪ひいたん」


言ってしまえば、たぶん十秒で済む話だった。駐輪場に明かりがいて、手に乗って、消えた。十秒。そのあと母がどうするかも、だいたい想像がついた。心配して、伯母に電話して、どこの病院がいいか調べる。信じないのではなくて、信じたうえで、そうする人だった。


「寒いだけよ。玄関に座ってるから」


「なんで玄関におるん」


「靴を脱ぐところ」


そういうことにしておいた。米の礼をもう一度言って、電話を切った。


それから澪は立ち上がって、部屋の明かりを全部つけた。ごみは明日でいい。手はもう震えていなかったけれど、指先だけが温いままで、洗っても取れなかった。


窓を開けると、冷たい空気が一度に入ってきた。建物の切れ目の向こうに、眉山(びざん)の黒い形が、いつもより近くに見えた。冬の夜は、遠いものが近くなる。


下では、駐輪場の蛍光灯がいつもどおりの白さで光っていた。自転車が並んでいる。カゴの中には何もない。ラックの支柱はどれも同じ形で、同じ間隔で立っていた。そのうちの一本の先にだけ、朝が来ても霜は下りなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ