第4話 五か月前、そこだけあたたかい
駅前のあの角で人が半歩よけるようになるのは、まだ五か月も先のことだった。
駐輪場の蛍光灯の下で、澪は自転車のライトのねじを回していた。
手袋のままでは指が滑るので外したら、金属が皮膚に貼りつくくらい冷たかった。夜の十一時。吐いた息が、蛍光灯の光を白く横切って消えていく。
三度目に吐いたとき、白くならなかった。
もう一度、ゆっくり吐いてみる。白い。半歩ずれて吐く。白い。元の位置に戻って吐くと、口の先の、ちょうど手のひら一つぶんくらいのところで、息はほどける前に消えた。
寒さで頭が回っていないだけだと思うことにして、澪は自転車のラックの支柱に手をついた。
温かかった。
指を離して、隣の支柱を握る。氷みたいだった。その隣も、その隣も同じで、三本目で指の付け根が痛くなった。戻ってさっきの支柱を握ると、風呂上がりに触る洗面台くらいの温さが、鉄の中にあった。
澪はしばらく、自分の手のひらを見ていた。それから外したライトをポケットに入れて、階段を上がった。部屋の鍵をかけて、暖房をつけて、やかんを火にかけた。マグカップを持ったまま、あの温さを思い出そうとしたけれど、もう思い出せなかった。
配管でも通ってるんでしょ、と口に出した。言ってしまえば、そういうことになる気がした。
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翌日の昼休み、澪は管理会社に電話をかけた。
「駐輪場のラックのことなんですけど、一本だけ温かいんです。……はい、温かい。夜に触ると、そこだけ」
受話器の向こうが、ほんの少し止まった。それから、点検に伺いますね、という返事が、慣れた速さで返ってきた。
事務の仕事を何年かやっていると、こういう電話は上手くなる。困っていることを短く言って、いつ来られるかだけ聞く。相手を責めない。責めると日程が遅くなる。
業者は同じ日の夕方に来た。近くの物件のついでですから、と言って、作業着の人が二人。ラックの下を覗き、壁の点検口を開け、何かの数値を測る道具を支柱に当てていった。
「異常ないですねえ」
「触ってみてもらえますか。この一本」
年上のほうが、手袋を外して素手で握った。握ったまま少し首をかしげて、それから、笑った。
「冷たいですよ、これ」
澪も握った。温かかった。同じ鉄を、二人で同時に持っていた。
「……そうですか。すみません、勘違いでした」
そう言うほうが早いと分かったので、そう言った。業者の人は気を悪くする様子もなく、ついでにと言って蛍光灯の球まで見てくれた。ありがとうございました、と頭を下げて、車が路地へ出ていくのを見送った。
見送ってから、駐輪場に戻って、もう一度その支柱を握った。
まだ温かかった。
そこで初めて、背中のほうが冷えた。壊れているなら直せる。直せないなら、壊れていない。壊れていないのに温かいものを、温かいと言っているのは自分だけだった。
誰かに話す場面を、一度だけ想像した。どこから始めても、言い終わる前に相手の顔が変わるのが見えた。そのあと相手が探すのは、支柱ではなく自分のほうになる。
その日は、誰にも言わなかった。
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夜、ごみを出しに下りたところで、明かりを見た。
駐輪場の奥、ちょうどあの支柱のあたりに、豆電球ほどの小さな明かりが浮いていた。白でもオレンジでもない、沸かしたばかりの湯の色に近かった。地面から一メートルくらいの高さで、ゆっくり上下に揺れている。
澪はごみ袋を提げたまま止まった。
蛍、と思って、一月だと思い直した。誰かのスマホかとも思ったけれど、持っている人がいなかった。
明かりが近づいてきた。
一歩下がる。明かりも一歩ぶん進む。もう一歩下がると、同じだけ来る。ごみ袋の口を握る手に力が入りすぎているのが、自分でも分かった。
「こっち」
声だった。
耳から入ってきた感じがしなかった。それなのに、はっきり言葉だった。
明かりは駐輪場の奥へすっと動いて、澪が動かないでいると、戻ってきて、また「こっち」と言った。それから、なぜか澪の自転車のカゴの中へ入った。
カゴの中で、明かりは丸を描いた。二周、三周。網の目からいくらでも出られるはずなのに、そうとは思っていないらしく、律儀に縁に沿って回り続けている。四周目に入ったところで、澪の口が先に動いた。
「……そっちは行き止まりよ」
言ってしまってから、口を押さえた。
明かりが止まった。カゴの縁を越えて出てきて、澪の顔の高さまで上がってくる。近くで見ても、熱は届かなかった。輪郭はぼやけていて、目も口もない。それなのに、こちらを向いているのが分かった。
「まだ」
何が、と聞き返せなかった。声が喉のところで止まっていた。
明かりはあの支柱まで戻ると、そこで小さくなった。膨らんで、また小さくなる。息をしているみたいだった。三度目に小さくなったとき、それは膨らまずに、そのまま下へ落ちた。
落ちるものに手を出すのは、たぶん癖だった。澪は考える前にしゃがんで、両手で受けた。
軽かった。軽い、ではなく、重さが無かった。手のひらの上で、湯の色がひとつ、静かに揺れている。温かい。あの鉄と同じ温さだった。
そこで、体が動かなくなった。
振り払いたいのに腕が言うことを聞かなかった。叫ぼうとしたのに、息だけが出た。手のひらの上のものは、まったく重くないのに、確かにそこにあった。あるものは、たいてい重い。重くないのにあるものを、澪はこの日まで一つも知らなかった。
明かりは一度だけ強くなって、それから、消えた。
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階段を上がる音が、自分のものだと分からなかった。
部屋に入って、鍵を回して、もう一度回した。靴も脱がずに玄関へ座り込んだ。膝の上に置いた手が、はっきり震えていた。怖かったのが、いま来ていた。
暖房をつけていなかったので、部屋は外とさして変わらなかった。ごみ袋は、まだ握ったままだった。
スマホが鳴った。母だった。
「もしもし。まだ起きとった?」
「起きてた」
「お米、送ろか思て。この前のと同じでええ?」
「いい。ありがとう」
「あんた、声が変やで。風邪ひいたん」
言ってしまえば、たぶん十秒で済む話だった。駐輪場に明かりがいて、手に乗って、消えた。十秒。そのあと母がどうするかも、だいたい想像がついた。心配して、伯母に電話して、どこの病院がいいか調べる。信じないのではなくて、信じたうえで、そうする人だった。
「寒いだけよ。玄関に座ってるから」
「なんで玄関におるん」
「靴を脱ぐところ」
そういうことにしておいた。米の礼をもう一度言って、電話を切った。
それから澪は立ち上がって、部屋の明かりを全部つけた。ごみは明日でいい。手はもう震えていなかったけれど、指先だけが温いままで、洗っても取れなかった。
窓を開けると、冷たい空気が一度に入ってきた。建物の切れ目の向こうに、眉山の黒い形が、いつもより近くに見えた。冬の夜は、遠いものが近くなる。
下では、駐輪場の蛍光灯がいつもどおりの白さで光っていた。自転車が並んでいる。カゴの中には何もない。ラックの支柱はどれも同じ形で、同じ間隔で立っていた。そのうちの一本の先にだけ、朝が来ても霜は下りなかった。




