第3話 代わりの青石
石垣の上で、男が一人、青い石を隙間に押し込もうとしていた。
押し込んで、手を離す。石は落ちる。拾って、袖で拭いて、また同じ隙間に押し込む。三度目まで見たところで、澪は数えるのをやめた。石垣の下の園路では、犬を連れた人が同じ角を三度曲がっていた。
土曜の朝の徳島中央公園は、体操の集まりがちょうど解けた時間だった。散歩の靴音と、ベビーカーの車輪と、どこかの部活の掛け声。木が多いぶん、音が低いところで湿る。歩いている人のうち何人かが、鷲の門をくぐってしばらく行ったあたりで、ゆるい輪を描いて門へ帰ってきていた。
「あれだ」
膝の高さで、玉助が鼻先を上げた。
「ちゃんと先に知らせただろ。俺は約束を守るタヌキだぞ」
「今朝の六時に、玄関の前でね。近所の人に見られたらどうするの」
「猫だと思われた」
「太すぎるでしょ」
玉助は聞こえないふりをして、後ろ足で耳の裏を掻いた。
「乾物屋さんのほうは、まだ元どおりになってるの」
「なってる。あっちは変わらん。……油揚げ、まだ来てねえぞ」
「今日の帰りに話すわ。忘れてない」
「忘れてなくても、腹は減る」
「で、こっちは何なの」
「入った奴が出てこねえ。出てこねえのに、また入ってくる」
澪は門のほうを見た。ちょうど、ベビーカーを押した人が門をくぐって、木の陰へ消えていくところだった。
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鷲の門は、思っていたより小さかった。
くぐると、足の下で砂利の音が変わる。澪は歩数を数えることにした。印を置いて人を数えるより、今日は自分の足のほうが早い。
園路は緩く左へ曲がって、木の陰へ入る。右手に博物館の建物が見えて、その先で庭園の塀が切れる。
三十二歩目で、体が右を向いた。
曲がるつもりはなかった。道はまだまっすぐ続いていたのに、右の靴だけが先に内側へ入っていた。そのまま行くと、見覚えのある柱が視界の端に入ってきて、澪はまた門の前に立っていた。
もう一度、今度は数えながら、三十二歩目で立ち止まった。
足の下を見る。砂利の色が、そこだけ一本の筋になって違っていた。幅は靴一つぶん。園路を横切って、木立の奥へ抜けている。目でたどると、石垣の隅の、草に埋もれた古い基礎の石と、きれいに一直線だった。
ジャージの高校生が、澪の横を走り抜けていった。少し先で速度を落として、頭を掻きながら戻ってくる。
「すんません。ここ、一周どんくらいでしたっけ」
「今日は測らないほうがいいと思う」
「そうっスか? さっきから三周目なんスけど、ずっと一周目のとこにいる気がして」
「門から入った?」
「入りました」
「次はバラ園の側から入って。そっちなら大丈夫だから」
高校生は、はあ、と気の抜けた返事をして、それでも素直に走っていった。澪は自分でも確かめた。道路沿いをすこし歩いて、バラ園の側から入り直す。百歩数えても、靴は勝手に内を向かなかった。
門をくぐった人だけが、帰ってきている。
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石垣の上の男は、まだ同じことをしていた。
「見えているな」
上から声が降ってきた。石を持った手はそのままで、顔だけがこちらを向いている。背が高くて、服の形がこの街のものではなかった。
「ならば都合がいい。そこで見ていろ」
「その前に、名前を聞いてもいい?」
「建だ。覚えておけ」
「青木澪です。それで、何をしてるの」
「見て分からんか。門の格を戻している」
建は石を隙間へ押し込み、また落とした。石は草の上で二回はねた。
「昔はこの門をくぐるのに、それなりのものが要った。今は皆、軽い顔で通る。門が軽くなったからだ」
「その石、ここのものなの」
「……もらった」
「誰に」
「名は聞いておらん」建の声が一段はずんだ。「俺を見込んで渡してきた。目のある奴だ」
「顔は」
「覚えておらん。細かいことだ」
澪は手を出した。建は少し迷ってから、石を放った。受け取ると、軽かった。
「これ、ただの石よ」
「……知っている」
知らなかった顔だった。
足元で玉助が鼻を鳴らして、小声で言った。
「褒めとけ。そのほうが安く済む」
澪は石を握ったまま、門と、砂利の筋と、石垣の隅の基礎を順番に見た。三つは一直線に並んでいる。
「ねえ。あなたが触ってるのは、門だけ?」
「門と、この石垣だ。同じ一つのものだからな」
「昔、この筋のところに塀があった?」
建は初めて手を止めた。
「あった。門を入って、まっすぐには進めん。塀に沿って右へ折れて、囲いの中でもう一度曲がる。城の門というのは、まっすぐ入れんように作るものだ」
「なるほど。今それ、完璧に効いてるわ」
「……効いているか」
建の顔が明るくなりかけた。
「褒めてないの。散歩の人が出られないのよ」
戻っているのは門ではなかった。塀は一枚も立っていないのに、曲がるところだけが生きている。門から入った人の足が、昔の順路を律儀になぞって、そのまま門まで帰ってくる。
半分だけ戻す、というのがいちばん質が悪い。見えるものは何も変わらないから、避けようがない。
「それで、どこまで戻すつもりだったの」
「全部だ」
「全部って、どこからどこまで」
建は口を開いて、閉じた。石垣の端から端まで目で追って、それから息を吸った。
「いいだろう! 俺の力が届くのは、鷲の門から数寄屋橋までだ! それ以上は出さん!」
「はい、決まりね」澪はその場で声に出して繰り返した。「鷲の門から数寄屋橋まで。そこから外は、あなたの範囲じゃない」
「そう言っている」
「じゃあ、その内側の道は今の形のままにしておいて。半分だけ戻されると、人が帰れなくなるから」
建は石垣の隙間をもう一度見て、それから、手を離した。
砂利の筋の色が、周りとゆっくりそろっていった。
門のところで、ベビーカーの人が今度はまっすぐ奥へ入っていった。犬を連れた人が、四度目の角を曲がらずに通り抜けた。バラ園の側から走ってきた高校生が、門をくぐって道路へ出ていく。出るときに一度だけ振り返って、首をかしげた。
「見たか」建が胸を張った。「俺が手を離しただけで、これだ」
「そうね。効きすぎるのも困る、っていう見本だったわ」
「……それは褒めているのか」
「褒めてる褒めてる」と玉助が下から言った。
澪は答えずに、石をハンカチに包んだ。神に貸しを作られる前に、こちらから一つ渡しておくほうがいい。
「あなたがこの門をどうにかできる神だってことは、覚えておくわ」
建は満足したらしく、石垣の上で腕を組んだ。
「困ったら呼べ。鷲の門から数寄屋橋まで、俺の内側なら聞いてやる。外は知らん」
「範囲の外で困ったときは」
「そのときは、外の奴に言え」
言い切って、建は消えた。石垣の上には、押し込みかけた隙間だけが残った。草が一本、押されたまま倒れている。
「一つ貸しだぞ、青木澪」
「知らせただけでしょ」
「知らせるのが仕事だ。……油揚げ」
「行くわ。今から」
門を出る前に、澪は包みを開いて、青石を日にかざした。
陽織に渡したものは、見えないのに重かった。これは逆だった。見えるのに軽い。石垣と同じ色をしていて、大きさもちょうど隙間ぶんある。
ただ、割れ口が新しかった。角が三つ、同じ幅で落としてある。石垣から欠け落ちたのではなく、欠いて、寸法をそろえたものだった。
澪はもう一度包み直して、鞄の底へ入れた。中で、青石は音も立てなかった。鞄の口を閉じるとき、新しい面が一度だけ光を返した。




