第2話 減らない一枚
「澪さん、商店街のお店が、勝手に元どおりになるって聞いたよ」
金曜の昼休み、会社の前の歩道で、中村あかりがコンビニの袋を提げたまま振り返った。路地へ後ろ向きに入っていく配送トラックの誘導笛が、その言葉の切れ目にちょうど重なった。
「元どおり、って、何が」
「そこまでは分かんないんだけど。乾物屋のおばあちゃんが言ってたって。夜にちゃんと片づけたのに、朝には出てるみたい」
「片づけたものが、出てる」
「うん。しかも中身まで同じなんだって。……なんか変じゃない?」
変ね、と澪は言わずに、店の場所を聞いた。あかりは身を乗り出して、両国橋を渡ってすぐの路地だと教えてくれた。それから、聞いてもいないのに、そこの椎茸は高いけど確かに味が違うという話まで付けてきた。
二日前に指先で触れた冷たさが、まだどこかに残っている気がした。二つで一組だと言われた。片方は陽織が持っていって、もう片方はこの街のどこかにある。
「その乾物屋さん、何時に閉まるか分かる?」
「え、行くの? ……あ、椎茸買うんだ」
「そういうことにしておくわ」
---
新町川の水面が、対岸の灯りを細かく割って、ゆっくり下流へ運んでいく。
澪は会社を出た足で、そのまま川沿いの道を選んでいた。ボートの発着場のあたりで犬を連れた人とすれ違い、両国橋の上では後ろから来た自転車に追い越された。橋を渡りきると、道幅が急に半分になる。看板の背が低くなって、匂いが乾いたものに変わる。商店街のはずれだった。
乾物屋はすぐに分かった。店先に平たいカゴが三つ並んでいて、煮干しと、干し椎茸と、細切りの昆布が入っている。奥から小柄なおばあさんが首を伸ばした。
「いらっしゃい。今日は椎茸がええよ」
「そのカゴのことで、少し聞いてもいいですか」
おばあさんは澪の顔を見て、それから笑って、カゴの縁を指で叩いた。
「あんた、あかりちゃんのお知り合いな。あの子は口が早いけんね」
「早かったです」
「そこ、毎晩ちゃんと中に入れるんよ。戸締まりの前に。ほんでも朝に開けたら、同じとこに、同じだけ出とる」
「同じだけ、というのは」
「売れた分も戻っとるんよ。三百円ぶん売って、次の日にまた三百円ぶんある。得しとるみたいやけど、帳面が合わんのよ。気持ち悪いわ」
得をしているのに気持ちが悪い、という言い方を澪は覚えておくことにした。誰も損をしていない。困っているとも言えない。ただ、気持ちが悪いで済んでいるうちが、いちばん触りやすい。
「お願いがあるんです。閉めるとき、カゴの中を数えて、紙に書いておいてもらえますか」
「数えるだけでええの?」
「はい。わたしが印をつけるより、毎晩さわってる人の手のほうが確かなので」
おばあさんは、そんなんなんぼでもする、と言って、レジの脇からチラシの裏を一枚引き抜いた。ペンを持つ手が、もう数えるつもりの構えになっていた。
---
七時を過ぎて、店の灯りが落ちた。シャッターが下りると、路地が一段暗くなる。
澪は向かいの自販機の明かりの端に立って、カゴが中へ入るのを見届けてから、五分だけ待つことにした。
五分で足りた。相手のほうが待っていなかったからだ。
シャッターの前に、膝の高さくらいのまるい影がいた。街灯の下へ出てきたそれは、どこからどう見てもタヌキだった。しかも後ろ足だけで立って、シャッターの下の隙間に前足を突っ込んでいる。
引き出されたのは、油揚げが一枚。
「それ」
タヌキは振り向いた。驚いた様子はまるでなかった。
「見えるのか」鼻を鳴らして、油揚げを前足で持ち替える。「なるほどな。お前が青木澪か」
「名乗った覚えはないけど」
「名乗らんでも回るんだよ、この辺は。俺は玉助。この辺りの情報屋みたいなもんだ」
「情報屋が油揚げを盗るの」
「盗ってねえ。減ってねえからな」
「タヌキが油揚げって、それ狐の担当じゃないの」
「知るか。うまいもんはうまい」
玉助は油揚げの端をひとくちかじって、味を確かめるみたいに口を動かした。それから、得意そうに顎を上げた。
「ここのはな、朝には戻ってる。夜のうちに一枚もらっても、朝には元どおりだ。タダより高いもんはないって言うだろ。これはタダじゃなくて、減らねえんだ。別物だぞ」
そこで、澪の見立てが一つ動いた。
戻る異変を止めに来たつもりだった。止めれば帳面は合う。けれど、戻ることで食べている者が、目の前で油揚げを抱えている。止めるのは簡単で、そのぶん困る者が増えるだけだ。
「その戻り、いつから」
「四日前だな。急に始まった」
「どこにあるか知ってるのね」
「知ってる」玉助は即答した。それから、まったく同じ速さで付け足した。「教えるのはタダじゃないぞ」
「タダじゃないのは、さっき聞いたわ」
玉助が短く笑った。笑うと、鼻の脇の毛が持ち上がった。
「分かってるじゃねえか。あれが元に戻れば、ここも戻らなくなる。俺の取り分が消える。だから教えたくねえ」
澪は少し考えた。おばあさんにとっては気味の悪い出来事で、玉助にとっては食い扶持だった。両方をそのまま満たす手はない。片方に諦めさせるのも、たぶん長くもたない。減らせるのは、揉め方のほうだった。
「毎晩一枚、表のカゴに置いてもらう。売れ残りでよければ、頼めると思う」
「……買うのか」
「頼むのよ。あの人、たぶん面白がるわ」
「戻らなくなっても、一枚は出るってことか」
「そのかわり、シャッターの下に前足を入れるのはやめて。ほかのお店で同じことをするのもなし。それと、次に何か戻り始めたら、先にわたしに言って」
玉助はしばらく黙っていた。尻尾の先だけが、ゆっくり左右に動いていた。
「日替わりにしてくれ」
「贅沢ね」
「情報屋の相場だ」
澪は分かったとだけ答えて、手帳に「油揚げ・日替わり・一枚」と書いた。書きながら、名乗る前から名前を知られていたことを思い出した。断ったところで、知られていない側には戻らない。それなら、条件はこちらで決めておくほうがいい。
---
橋の下は、思ったより風が通った。
川の音は低く、頭の上を車が渡るたびに橋桁が短く鳴った。石段の脇に古い石積みがあって、玉助はその前で立ち止まると、鼻先で三段目を示した。
「そこの隙間だ。青いのが挟まってる。俺は取れねえ」
「取れない」
「見えても、掴めねえんだよ。俺たちの手はそういう手だ。だから四日も放ってあった」
澪はスマホの明かりを近づけて、しゃがんだ。下から三段目。指を入れると、ざらついた砂と、冷たい石の面があった。
砂しかなかった。
奥まで探って、隣の隙間も、その隣も確かめた。手の甲を擦っただけで終わった。
「無いわ」
玉助の首が伸びた。鼻先が石に触れるほど近づいて、それから、ゆっくり離れた。
石の隙間の縁だけ、苔が円く剥げていた。指で押すと、剥げたところの内側はまだ湿っている。剥がされてから、そう経っていない。
澪は立ち上がって、手についた砂を払った。
拾えるのは、見える手だけ。玉助が見えても掴めなかったものを、誰かが四日のあいだに持っていった。
「あんた以外に、この石を触れる相手に心当たりは」
玉助は油揚げを地面に置いて、その上に前足を乗せた。取られる相手もいないのに。
「無えな。……だから面白いんだよ、青木澪。お前のほかにもう一人、拾えるのがいるってことだぞ」




