第1話 徳島の朝に、小さなずれ
青木澪は、徳島駅から徒歩十五分ほどのマンションで目を覚ました。
ベッドサイドの時計は七時十二分。アラームが鳴る三秒前に、自然と体が起き上がる。特別な日ではない。昨日も一昨日も、同じ時刻に同じ動作をしていた。
洗面所で顔を洗い、鏡の中の自分を一瞥する。二十代後半の顔は、特に変わっていない。化粧は最小限。髪をまとめて、白シャツにグレーのスラックス。会社に向かう準備は、迷いなく終わる。
「……今日も、いつも通りでいいよね」
独り言は、ほとんど音にならない。澪はそれを習慣にしていた。特別を求めない。ただ、破綻しない一日を、きちんと回したいだけだ。
マンションを出て、住宅街の道を歩く。遠くに眉山の緑が、薄く霞んで見える。徳島市の朝は、派手さがない。人の数も、東京のそれに比べればずっと少ない。それが、澪にとってはちょうどよかった。
駅前のロータリーを通り過ぎ、会社のあるビルへ入る。一般企業の事務フロア。窓からは徳島駅の屋根と、その向こうの空が見える。
「おはようございます」
同僚の佐藤結衣が、明るい声で挨拶をしてくる。隣の席だ。結衣はいつも、澪の朝を少しだけ軽くしてくれる存在だった。
「おはよう。昨日の資料、修正入った?」
「うん、入ったよ。でもまだ一部、確認中みたい」
結衣はパソコンを立ち上げながら、そう答える。澪は自分の席に座り、メールを開いた。
受信トレイに、いつもの件数。件名を順に見ていく。問題なさそう、と一息ついたところで、ふと指が止まった。
一通の社内メール。送信者は同じ部署の高橋蓮。件名は「確認依頼」。開くと、昨日の午後に送ったはずの内容が、そのまま並んでいる。既読マークがついていない。
「……あれ?」
澪は小さく眉を寄せた。蓮は几帳面な人だ。確認依頼を放置するタイプではない。昨日の夕方には「了解しました」と返信が来ていたはずなのに。
もう一度、送信履歴を確認する。確かに送っている。時間も間違いない。
「蓮さん、昨日のメール、届いてる?」
隣の席から顔を上げた結衣が、少し驚いたようにこちらを見た。
「届いてるはずよ。さっき、まだ確認中って言ってたし」
「既読がついてないの。変だね」
澪はそう言いながら、もう一度メールを開いた。画面の上で、既読マークがふわりと点灯する。一瞬、遅れただけのように見えた。
「……気のせいかな」
澪は自分にそう言い聞かせて、次の仕事に移った。システムの遅れだろう。特別なことなど、ないはずだ。
昼休み。澪は会社近くのコンビニでおにぎりを買い、駅前のベンチに座った。人通りはそこそこある。観光客というより、地元の人の流れだ。
ふと、視線の端で、何かが引っかかった。
駅前の角。ロータリーから商店街へ続く、いつもの曲がり角。そこを通る人が、ほんの一瞬、足を止めている。立ち止まって何かを見るわけでもない。ただ、半歩分、動きが遅くなる。次の人が通り、また同じように遅れる。誰も気づいていないように見える。
澪はおにぎりを持ったまま、その角を見つめた。
「……何だろう」
意識して見ていると、確かにそうだ。通る人の動きが、わずかに不自然だ。時計の針が、ほんの少しだけ、そこで止まるような感覚。
澪は立ち上がり、その角へ歩いていった。近づいても、特別なものは何もない。普通の歩道。普通の看板。普通の空気。
それでも、足を踏み入れた瞬間、肌が少しだけざわついた。
「……気のせいよね」
再び独り言をこぼして、澪は角を通り過ぎた。背後で、また誰かが足を止める気配がした。振り返らなかった。振り返っても、何もないと分かっていたから。
午後の仕事は、淡々と進んだ。蓮が席に戻ってきて、「メール、確かに届いてました。既読が遅れたみたいです」と丁寧に報告してくれる。澪は「了解」とだけ答えた。
結衣が「なんか今日、みんな少しぼーっとしてない?」と軽く笑う。同じフロアの中村あかりが、席越しに身を乗り出してきた。
「噂なんだけど、駅前で時計がおかしいって言ってる人いるよ」
「へえ、そうなんだ。気になるね」
澪は短く返して、書類をまとめた。気になる話ではあったが、今は自分の仕事を優先する。
帰宅の時間。会社を出て、いつもの道を歩く。太陽はまだ高い。風は穏やかだ。
マンションのエントランスに入る直前、澪は立ち止まった。
誰かに、名前を呼ばれた気がした。
振り返る。通りには、誰もいない。自転車が一台、遠くを走っていくだけだ。
「……疲れかな」
そう呟いて、鍵を開ける。部屋に入り、靴を脱ぐ。カーテンを開け、窓の外の住宅街を見る。いつもと同じ景色。
それでも、胸の奥に、小さな引っかかりが残っていた。
メールの既読。駅前の角。名前を呼ばれたような感覚。
特別なことなど、ないはずだ。
澪は冷蔵庫から麦茶を出し、コップに注いだ。冷たい液体が喉を通る。日常の感触が、少しだけ戻ってくる。
「明日も、いつも通りでいいよね」
窓の外で、風が葉を揺らした。遠くで、誰かが小さく笑ったような気がした。
澪はそれに気づかないふりをして、コップを置いた。
まだ、何も始まっていない——そう思い込もうとした、その夜だった。




