第10話 七軒目は店ではない
「十八、戻っとりました」
日曜の朝の惣菜屋で、吉岡さんは開けたばかりの棚の前に立っていた。二十二日。輪ゴムの袋をレジの横に置いたのが昨日の朝だから、まだひと晩しかたっていない。
「輪ゴムは、十八ぜんぶに付いとりました。一つも欠けとりません」
「今朝作ったのは」
「三十です。棚には四十八ありました。輪ゴムのを外して、三十。……合いました」
吉岡さんは帳面を閉じて、閉じたのが早すぎたという顔をして、もう一度開いた。指が二列のあいだを往復している。合っているものを二度たしかめる人だった。
「昨日の晩、片づけるついでにゴムをかけました。かけながら、こんなことでどうにかなるんかと思いました」
「わたしも、そう思いながら渡しました」
吉岡さんの手が止まった。それから、鼻から短く息を出した。笑ったのだと分かるまで、少しかかった。
「みっちゃんには」
「言いました。間違えてなかったと」帳面の端を親指でこする。「……そうですか、としか。辞めるのは変わらんそうです」
澪は鞄から紙を出して、シャッターの上がった側へ向けた。上から六軒ぶん、店の名前と日付が並んでいる。乾物屋が九日、花屋が十六日、豆腐屋が十七日、お茶屋と靴の修理が十八日、そしてこの店が二十日。左に引いた矢印が、橋から遠ざかる向きに一本、まっすぐ下りている。
七行目の欄は、昨日の朝と同じで空のままだった。
「この通りの先って、何がありますか」
「家です。あとは駐車場と、児童公園と」吉岡さんは少し考えた。「みっちゃんの家も、その辺です。抜けて、二つ目の角を左」
---
日曜の朝の商店街は、半分ほどのシャッターがまだ下りていた。奥へ行くほど看板の字が古くなる。
積み上げた段ボールの上で、まるいものが丸くなっていた。
「昼に呼ぶな」
「呼んでないわ。通っただけよ」
玉助は片目だけ開けて、それから面倒くさそうに前足を伸ばした。
「三枚、まだもらってねえぞ」
「陽織は来なかったでしょう」
「言づけを届けるのと、あの女神が来るのとは、別の勘定だ」
「ずいぶん都合のいい商売ね」
「商売ってのはみんなそうだ」
澪は紙を鼻先に見せた。玉助は目を細めて、しばらく黙っていた。
「七軒目は魚屋だな。俺の鼻がそう言ってる」
「この通りに魚屋は無いわ」
「……いつから無い」
「わたしが来たときには、もう無かったわ」
玉助は短く鼻を鳴らして、段ボールの上に戻った。丸くなりかけて、思い出したように顔だけ上げる。
「言っとくがな。通りが終わったからって、あれが道を歩いてるわけじゃねえぞ。道はお前らの都合だ」
「そうね」
そのときは、そうね、で済ませた。
---
商店街を抜ける前に、駅前を通った。日曜の改札は人が少なくて、一人ずつの歩き方がよく見えた。
「澪ちゃん!?」
券売機の前で、佐藤結衣が手を挙げていた。
「今日、どっちまで行くの」
「南のほう。終点まで行って、そのまま帰ってくるの」
「何時間かかるの」
「片道で二時間ちょっと」
四時間、汽車に乗って、降りない。聞いてもまだ理解が追いつかない。
「結衣ちゃん、いつも一人で行くの」
「一人よ。誰か誘うと、降りたくなるでしょ」
それは分かる気がした。結衣は改札のほうを一度見てから、澪の鞄に目を落とした。
「澪ちゃんは? 日曜まで仕事なの」
「ちょっと、用があって」
「昨日もそう言ってたよね。忘れ物、って」
言い方は明るいままだった。追及する気はないのに、覚えているところだけがはっきりしている。
「まあ、いいけど」結衣は半歩下がった。「困ったら言ってよ。私、そんなに役に立たないけど、聞くだけならできるから」
同じようなことを、六月のはじめに別の人にも言われた。その人は大阪の現場にいて、こちらから一度もかけていない。
「ありがと。……覚えとくわ」
「覚えとくじゃなくて、言ってよ」
---
通りを抜けると、看板が急に減った。
二つ目の角の手前に、緑のネットをかぶせたカゴが置いてある。四隅にブロックが一つずつ乗せてあって、そのうち一つだけ位置がずれていた。
カゴの前に、小柄な女の人がしゃがんでいた。中の袋の口を一つずつ持ち上げて、結び目の向きを同じほうへ直している。誰に見せるものでもないのに、きれいに揃えていく。
唇が、少しずつ動いていた。
「……九つ」
言ってから、その人は自分の口を押さえた。
「みっちゃん、さんですか」
「……光代です。みっちゃんは、店での呼ばれ方で」
立ち上がって、手をエプロンで拭く。澪の顔を見て、それから思い当たったらしく、目のあたりが少し動いた。
「店長が言うとった人やね」
「青木です。吉岡さんに、こちらだと聞いて」
光代さんはカゴのほうを見なかった。見ないまま、後ろへ手を伸ばしてネットの端を押さえた。
「昨日、収集車が持っていったんです。九つ。それが、今朝、九つ」
「数えたんですね」
「……数えてしもた」
その声だけ、少し低かった。
「もう、数えんようにしよう思とったのに」
戻ってきているのは、店から出ていったものだ。ここは店ではない。それでも規則は同じだった。この通りに住む人が出して、車に載って、いったん外へ出たものが、朝には元の場所にある。誰が出したかを、誰も言えないまま。
「合わんかったのが、三回あったんです」光代さんは言った。「二十年、一度もありませんでした。三回続いたら、それはもう、私のほうです」
「三回というのは、いつですか」
「五日と、十六日と、二十日」
澪は紙を開かなかった。開かなくても、どこに何が書いてあるかは覚えている。二十日はあの店で、十六日は二軒隣の花屋が始まった朝だった。
五日は、どこにも無い。
紙には無い。ただ、澪のスマホのメモは、六月五日から始まっている。藍場浜公園の街灯を数えて、十二本のうち五本、と打った夜だ。
戻りとは何の関係もない。関係が無いはずの日付を、澪は頭の中で二度読んだ。
「五日は、何が合わなかったんですか」
「足りんかったんです。二つ」
足りない。澪はその二文字を、口の中で一度置き直した。この二週間、数はふえるほうにしか動いていない。
「そのときは、私が落としたか、値札を貼り忘れたか、そんなことやと思て。……そのうちに、ふえるようになって」
「五日のことは、誰かに言いましたか」
「言いません。二つですから」
言わなかったのだ、と澪は思った。二つだから。二十年ぶんの信用のほうが、二つより重かったから。
「光代さん。合わなかったのは、あなたが数えたあとです」
光代さんは、澪の顔を見た。
「わたしも数えました。あなたの帳面と、棚と、両方です。ずれているのは棚のほうで、帳面ではありません」
しばらく、何も言わなかった。それから、ネットの端を持ち上げて、また下ろした。
「そう言うてくれた人が、二人おりました」
「二人」
「店長と、あんたです」
吉岡さんの言葉は、届いていないわけではなかった。ただ、一人ぶんでは足りなかっただけだった。
「辞めるのは、変えません」光代さんは言った。「決めたけん。決めたことをひっくり返すんは、疲れます」
「分かりました」
「ほんでも、数えるんは、やめんことにします」
そこだけ、はっきり言い切った。
「辞めたら、何をするんですか」
「何も。……いや、九月に孫が来るんです。上の子の」
「九月まで、ずいぶんありますね」
「そやから、何もせんのです」
---
光代さんが角を曲がってから、澪はカゴの前にしゃがんで、膝の上に紙を広げた。
七軒目の欄に書いた。二十二日。集積所。店ではなかった。
上から六つの点は、橋から遠ざかる向きにまっすぐ並んでいる。七つ目だけが、その線から左へずれていた。通りが終わったところで、道の続きから外れて、少し北へ寄っている。
道はお前らの都合だ、と言われたのを思い出した。
道に沿っていたからまっすぐに見えたのだ——と思いかけて、澪はやめた。道はこちらの都合で、向こうには関係がない。六つがまっすぐだったのは、六つとも同じほうを向いていたからだ。
その向きが、一軒ぶん進んだだけで折れた。
遠いものへ向かって歩くなら、一歩やそこらで角度は変わらない。二つの点では線しか引けないが、七つあれば、曲がったかどうかが分かる。
澪は紙を折って鞄に入れ、ずれていたブロックを指で押して、四隅を揃えた。
「……近いのね」
立ち上がって、線の向いているほうへ顔を上げた。
「まっすぐに見えてたのは、遠かったからだわ」




