表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
11/15

第11話 五日の朝、二つずつ

角のブロック塀の継ぎ目を、白い指が横へすべっていった。


二十三日の月曜。ごみの集積所で紙に七行目を書いた、その次の朝だった。澪は出勤の前にもう一度あのカゴを見るつもりで来て、二つ手前の角で足を止めた。


見覚えのある手つきだった。五日前の夜に路地で同じように指をすべらせて、三日ぶんくらいは押さえておく、と言った人がいる。


陽織(ひおり)


「おはよう」陽織は指を離さないまま言った。「昨日の日暮れから、ずっと押さえているのよ。おかげで、この角は一つも戻っていないでしょう」


「ここは先週から何も起きてないわ」


指が止まった。


「……あら」


「二つ手前よ。この角を右に入って、緑のネットのかかったカゴがあるところ」


「ずいぶん近いじゃない」


「近いのと、同じなのは、違うでしょう」


塀の上から、太い尻尾が一本、垂れ下がっていた。


「来たじゃねえか」玉助(たますけ)の声が塀の向こうから降ってきた。「三枚だ」


「呼んだ場所と、来た場所が違うわ」


「届けたのは俺で、場所を決めたのは俺じゃねえ」


反論しにくい理屈だった。


「まけといてやる。二枚半だ」


「半分は、どうやって渡すの」


「切れ。切れば半分だ」


澪は自転車のスタンドを立てた。


「陽織。金曜の夜に、わたしは路地の真ん中で、声に出して言ったわ」


「ええ」


「聞こえていて、来なかった」


「私が行くと、後始末が重くなるの」陽織はようやく塀から手を離した。「あなたが輪ゴムで済ませたことを、私は輪ゴムでは済ませられないもの」


「じゃあ、呼び方を決めましょう」


「呼び方?」


「聞こえるだけで終わるなら、呼んだことにならないわ。これを言ったら来る、という形が要るの」


陽織はしばらく塀の模様を見ていた。


「……そういうことは、あなたたちのほうが得意でしょう」


決めるのはこちらの仕事らしい。澪は少し考えた。


「数を、声に出して数えるわ」


「数?」陽織は笑った。「数はどこにでもあるじゃない。あなたたちは一日じゅう、何かを数えているもの」


「十一から先を、順に数えるの。十までなら人はよく数えるけれど、その先を声に出すことは、まずないわ」


「十一、十二、十三」


「そう。それが聞こえたら、来て」


「覚えておくわ。……たぶん」


「たぶんは要らないの」


「善処するわね」


塀の上で尻尾が揺れた。


「お前、仕事で数えんのか」


「棚卸しの日は、心の中で数えるわ」


澪はもう一つ聞くことにした。


「五日に、二つだけ足りなくなった場所があるの。ふえたんじゃなくて、減ったのよ」


「減った」


陽織の声から、間延びした調子が少しだけ抜けた。


「ほつれは、ふえるものよ。抜けたところへ寄っていくのだから、数が合わなくなるとしたら、多いほうへずれるはずだわ」


「じゃあ、減るのは別のもの?」


「別か、逆か。……私は長いこと、屈まずに見ていたから、低いところのことは、あまり知らないの」


「便利な体ね」


「ええ。よく出来ているでしょう」


塀の上で鼻を鳴らす音がした。


「二つだろ。人間が落としただけだ。俺は毎晩この辺を歩いてるが、減ったなんて話は一度も聞いてねえぞ」


「聞かないでしょうね。二つだもの」


角を曲がると、緑のネットの下は空だった。収集車はもう来たあとで、四隅のブロックは昨日そろえたままの位置にある。中を見られたのは日曜の一度きりで、今朝どうだったかは、もう誰にも分からない。


押さえ直して、とは言わなかった。三日と言って二日で切れた人に、もう一晩を頼む気にはならない。


---


会社に着いたのは、始業の五分前だった。


「青木さん」西野課長が通りかかって足を止めた。「六月ぶんの照合は」


「金曜の夕方に、課長の机へ置きました」


「……ありました。失礼しました」


用件が済むと、この人は世間話をしないで戻っていく。金曜の夜、澪はその照合のせいで一時間だけ遅れて、遅れたぶんは今も戻っていない。それでも、期限までに机の上にあるということ自体は、正しいことだった。


昼前に、佐藤結衣が机の端に紙パックを置いた。


「澪ちゃん、これあげる。昨日、駅で二本買ったの。電車で飲むつもりだったんだけど、寝ちゃって」


「四時間」


「行きも帰りも。起きたら徳島」


「結衣ちゃん、あの電車、いつも寝てるの」


「うん。寝るために乗ってるようなものかも。家だと、なんでか寝られないの」


「家は、片づけるものが目に入るからでしょう」


「それ! それだと思う」


結衣はうれしそうな顔をして、自分の島へ戻っていった。昨日のことは、何も聞かれなかった。


昼休みに、中村あかりが椅子ごと隣の島から寄ってきた。


「澪さん、あの話、まだ続いてるの」


「奥まで行ったらどうなるのか、って聞かれたわね」


「聞いた」


「通りが終わって、外へ出たわ。家のほうへ」


あかりは口を半分開けたまま、二度まばたきをした。


「……じゃあ、次はもっと外?」


「そこは、まだ分からないの」


「あかりちゃん。噂じゃなくて、聞きたいことがあるの」


「噂じゃないの?」


「無くなった話。二つだけとか、三つだけとか、そのくらいの数で、誰も届けを出さないようなもの」


あかりはしばらく考えて、それから椅子の背に体を戻した。


「……ある。伯母さんとこの並びで、鉢が持っていかれたって。『二つだけ持って行かれとった』って言うてた」


「いつ」


「六月のはじめ。……たぶん」


「たぶんは要らないの」


今日で二度目だった。


「聞いてみる。いま電話していい?」


「仕事のあとでいいわ」


「じゃあ、私も行く」あかりは椅子を戻しながら言った。「場所、言うても分からんもん」


---


夕方、自転車を押して坂を上がった。あかりは横を歩きながら、伯母との電話の中身をもう一度はじめから話した。


「四日の晩に水をやったんやって。ほんで、五日の朝には無かった、って」


「日にちが分かるのね」


「五日は病院の日やけん、覚えとるって。……あ、これ伯母さんの言い方」


坂の途中に、低いブロック塀が続いていた。その上に鉢が四つ並んでいる。二つ、二つ。真ん中に、鉢二つぶんの間があいていた。


塀の上には、丸い跡が二つ残っている。鉢を置いておけば丸い跡が残る。当たり前のことで、それ以上の意味はない。


「端から持っていくほうが、楽だと思わない?」


「え?」


「盗るなら、いちばん取りやすいところから取るわ。塀の端は、通りから手が届くもの」


あかりは端を見て、それから真ん中の間を見た。


「……言われてみたら、そうやね」


澪は鞄から紙を出して、塀の上に広げた。一行目には乾物屋と九日が書いてある。その上の余白は、指二本ぶんしかなかった。澪はそこに小さく書いた。五日。鉢。二つ。


九日が、一行目ではなくなった。


紙に書いていない五日のことを、澪はもう一つ知っている。自分のスマホには三行だけのメモがあって、その一行目に六月五日と入れてある。藍場浜(あいばはま)公園で、影の向きの合っていない街灯を数えた晩だ。十二本のうち、五本。誰にも見せていない。


同じ晩に、ここでは鉢が二つ減っている。


つながっているとは、まだ書けない。書けないが、同じ晩だった。


「澪さん、それ、何なん」


あかりは紙をのぞきこもうとして、途中でやめた。


「まだ、日付だけよ」


言ったものは戻せない、と教えてくれた人がいる。その人の手帳には、五月に澪が話したことが、日付と場所ごと書き込まれている。どこまで渡すかは自分で決めると決めたのは、澪自身だった。


「あかりちゃん。同じ形の話を、もう一つ探せる?」


「もう一つ?」


「二つだけ無くなって、誰も届けを出していない話。二つでは足りないの。三つ目が要るわ」


「……探すって、どうやって」


「あかりちゃんが、いつもやってるみたいに」


あかりは自分の鼻の頭をさわった。


「それ、褒めとるん?」


「頼んでるの。今週のうちに一つでいいわ」


「一つでええん?」


「一つあれば三つになるでしょう。二つだと、線は引けても、その線が合っているかどうかが分からないの」


坂の下であかりと別れた。自転車を押して下りながら、澪は塀の上の鉢を目で追っていた。よその家のぶんも合わせて、七つ、八つ、九つ、十。


「……十一」


声に出ていた。


足を止めて、口を閉じる。十二は言わなかった。坂の上のほうで、どこかの家の門が開いて、また閉まった。


坂を下りきるまで、澪は口を開かなかった。道の両側には、数えられるものがいくらでも並んでいる。門の前の自転車、塀の上の鉢、物干しに残った洗濯ばさみ、ブロックの継ぎ目。どれも、十より多かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ