第11話 五日の朝、二つずつ
角のブロック塀の継ぎ目を、白い指が横へすべっていった。
二十三日の月曜。ごみの集積所で紙に七行目を書いた、その次の朝だった。澪は出勤の前にもう一度あのカゴを見るつもりで来て、二つ手前の角で足を止めた。
見覚えのある手つきだった。五日前の夜に路地で同じように指をすべらせて、三日ぶんくらいは押さえておく、と言った人がいる。
「陽織」
「おはよう」陽織は指を離さないまま言った。「昨日の日暮れから、ずっと押さえているのよ。おかげで、この角は一つも戻っていないでしょう」
「ここは先週から何も起きてないわ」
指が止まった。
「……あら」
「二つ手前よ。この角を右に入って、緑のネットのかかったカゴがあるところ」
「ずいぶん近いじゃない」
「近いのと、同じなのは、違うでしょう」
塀の上から、太い尻尾が一本、垂れ下がっていた。
「来たじゃねえか」玉助の声が塀の向こうから降ってきた。「三枚だ」
「呼んだ場所と、来た場所が違うわ」
「届けたのは俺で、場所を決めたのは俺じゃねえ」
反論しにくい理屈だった。
「まけといてやる。二枚半だ」
「半分は、どうやって渡すの」
「切れ。切れば半分だ」
澪は自転車のスタンドを立てた。
「陽織。金曜の夜に、わたしは路地の真ん中で、声に出して言ったわ」
「ええ」
「聞こえていて、来なかった」
「私が行くと、後始末が重くなるの」陽織はようやく塀から手を離した。「あなたが輪ゴムで済ませたことを、私は輪ゴムでは済ませられないもの」
「じゃあ、呼び方を決めましょう」
「呼び方?」
「聞こえるだけで終わるなら、呼んだことにならないわ。これを言ったら来る、という形が要るの」
陽織はしばらく塀の模様を見ていた。
「……そういうことは、あなたたちのほうが得意でしょう」
決めるのはこちらの仕事らしい。澪は少し考えた。
「数を、声に出して数えるわ」
「数?」陽織は笑った。「数はどこにでもあるじゃない。あなたたちは一日じゅう、何かを数えているもの」
「十一から先を、順に数えるの。十までなら人はよく数えるけれど、その先を声に出すことは、まずないわ」
「十一、十二、十三」
「そう。それが聞こえたら、来て」
「覚えておくわ。……たぶん」
「たぶんは要らないの」
「善処するわね」
塀の上で尻尾が揺れた。
「お前、仕事で数えんのか」
「棚卸しの日は、心の中で数えるわ」
澪はもう一つ聞くことにした。
「五日に、二つだけ足りなくなった場所があるの。ふえたんじゃなくて、減ったのよ」
「減った」
陽織の声から、間延びした調子が少しだけ抜けた。
「ほつれは、ふえるものよ。抜けたところへ寄っていくのだから、数が合わなくなるとしたら、多いほうへずれるはずだわ」
「じゃあ、減るのは別のもの?」
「別か、逆か。……私は長いこと、屈まずに見ていたから、低いところのことは、あまり知らないの」
「便利な体ね」
「ええ。よく出来ているでしょう」
塀の上で鼻を鳴らす音がした。
「二つだろ。人間が落としただけだ。俺は毎晩この辺を歩いてるが、減ったなんて話は一度も聞いてねえぞ」
「聞かないでしょうね。二つだもの」
角を曲がると、緑のネットの下は空だった。収集車はもう来たあとで、四隅のブロックは昨日そろえたままの位置にある。中を見られたのは日曜の一度きりで、今朝どうだったかは、もう誰にも分からない。
押さえ直して、とは言わなかった。三日と言って二日で切れた人に、もう一晩を頼む気にはならない。
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会社に着いたのは、始業の五分前だった。
「青木さん」西野課長が通りかかって足を止めた。「六月ぶんの照合は」
「金曜の夕方に、課長の机へ置きました」
「……ありました。失礼しました」
用件が済むと、この人は世間話をしないで戻っていく。金曜の夜、澪はその照合のせいで一時間だけ遅れて、遅れたぶんは今も戻っていない。それでも、期限までに机の上にあるということ自体は、正しいことだった。
昼前に、佐藤結衣が机の端に紙パックを置いた。
「澪ちゃん、これあげる。昨日、駅で二本買ったの。電車で飲むつもりだったんだけど、寝ちゃって」
「四時間」
「行きも帰りも。起きたら徳島」
「結衣ちゃん、あの電車、いつも寝てるの」
「うん。寝るために乗ってるようなものかも。家だと、なんでか寝られないの」
「家は、片づけるものが目に入るからでしょう」
「それ! それだと思う」
結衣はうれしそうな顔をして、自分の島へ戻っていった。昨日のことは、何も聞かれなかった。
昼休みに、中村あかりが椅子ごと隣の島から寄ってきた。
「澪さん、あの話、まだ続いてるの」
「奥まで行ったらどうなるのか、って聞かれたわね」
「聞いた」
「通りが終わって、外へ出たわ。家のほうへ」
あかりは口を半分開けたまま、二度まばたきをした。
「……じゃあ、次はもっと外?」
「そこは、まだ分からないの」
「あかりちゃん。噂じゃなくて、聞きたいことがあるの」
「噂じゃないの?」
「無くなった話。二つだけとか、三つだけとか、そのくらいの数で、誰も届けを出さないようなもの」
あかりはしばらく考えて、それから椅子の背に体を戻した。
「……ある。伯母さんとこの並びで、鉢が持っていかれたって。『二つだけ持って行かれとった』って言うてた」
「いつ」
「六月のはじめ。……たぶん」
「たぶんは要らないの」
今日で二度目だった。
「聞いてみる。いま電話していい?」
「仕事のあとでいいわ」
「じゃあ、私も行く」あかりは椅子を戻しながら言った。「場所、言うても分からんもん」
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夕方、自転車を押して坂を上がった。あかりは横を歩きながら、伯母との電話の中身をもう一度はじめから話した。
「四日の晩に水をやったんやって。ほんで、五日の朝には無かった、って」
「日にちが分かるのね」
「五日は病院の日やけん、覚えとるって。……あ、これ伯母さんの言い方」
坂の途中に、低いブロック塀が続いていた。その上に鉢が四つ並んでいる。二つ、二つ。真ん中に、鉢二つぶんの間があいていた。
塀の上には、丸い跡が二つ残っている。鉢を置いておけば丸い跡が残る。当たり前のことで、それ以上の意味はない。
「端から持っていくほうが、楽だと思わない?」
「え?」
「盗るなら、いちばん取りやすいところから取るわ。塀の端は、通りから手が届くもの」
あかりは端を見て、それから真ん中の間を見た。
「……言われてみたら、そうやね」
澪は鞄から紙を出して、塀の上に広げた。一行目には乾物屋と九日が書いてある。その上の余白は、指二本ぶんしかなかった。澪はそこに小さく書いた。五日。鉢。二つ。
九日が、一行目ではなくなった。
紙に書いていない五日のことを、澪はもう一つ知っている。自分のスマホには三行だけのメモがあって、その一行目に六月五日と入れてある。藍場浜公園で、影の向きの合っていない街灯を数えた晩だ。十二本のうち、五本。誰にも見せていない。
同じ晩に、ここでは鉢が二つ減っている。
つながっているとは、まだ書けない。書けないが、同じ晩だった。
「澪さん、それ、何なん」
あかりは紙をのぞきこもうとして、途中でやめた。
「まだ、日付だけよ」
言ったものは戻せない、と教えてくれた人がいる。その人の手帳には、五月に澪が話したことが、日付と場所ごと書き込まれている。どこまで渡すかは自分で決めると決めたのは、澪自身だった。
「あかりちゃん。同じ形の話を、もう一つ探せる?」
「もう一つ?」
「二つだけ無くなって、誰も届けを出していない話。二つでは足りないの。三つ目が要るわ」
「……探すって、どうやって」
「あかりちゃんが、いつもやってるみたいに」
あかりは自分の鼻の頭をさわった。
「それ、褒めとるん?」
「頼んでるの。今週のうちに一つでいいわ」
「一つでええん?」
「一つあれば三つになるでしょう。二つだと、線は引けても、その線が合っているかどうかが分からないの」
坂の下であかりと別れた。自転車を押して下りながら、澪は塀の上の鉢を目で追っていた。よその家のぶんも合わせて、七つ、八つ、九つ、十。
「……十一」
声に出ていた。
足を止めて、口を閉じる。十二は言わなかった。坂の上のほうで、どこかの家の門が開いて、また閉まった。
坂を下りきるまで、澪は口を開かなかった。道の両側には、数えられるものがいくらでも並んでいる。門の前の自転車、塀の上の鉢、物干しに残った洗濯ばさみ、ブロックの継ぎ目。どれも、十より多かった。




