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第12話 その名前が出てこない

押し入れの奥から出した扇風機は、羽根の内側に去年の埃を残していた。


二十四日の火曜。坂の途中の塀で紙に書き足した、その翌朝だった。朝の六時半で、もう背中にシャツが張りついている。窓を両方開けても、風は入ってこなかった。


雑巾を絞って、羽根を一枚ずつ拭く。四枚目を拭いているとき、自分が数えていることに気づいた。


座卓の上も片づけた。文鎮にしている石を持ち上げて、下の紙を揃えて、また置く。ペンが四本。消しゴムが二つ。封筒が五つ。


「……十一」


口を閉じたときには、遅かった。


コンセントを挿していない扇風機の羽根が、ゆっくり回りはじめた。


「おはよう」


座卓の向こうに陽織(ひおり)が膝を流して座っていた。壁の時計を、珍しいものでも見るように見上げている。


「……効いたのね」


「十一まで聞こえたわ。十二が来ないから、少し迷ったのだけれど」


「呼んでないの。数えていただけよ」


「あなたが決めた形でしょう」


反論のしようがなかった。


昨日の夕方、坂の下でも同じ言葉を口に出している。あのときは来なかった。


陽織は座卓の石に目を留めた。


「これ、そんなふうに使うのね」


「紙が反るのよ」


「私を呼んで、紙の話をするのね」


「呼んでないと言ってるでしょう」


時計を見た。あと二十分で出ないと間に合わない。


「帰らないの」


「せっかく来たのだもの」


「働きに行くのよ。ここにいられても困るわ」


「困らないでしょう。私は何もしないもの」


たしかにそうだった。澪はあきらめて、聞くことにした。


「減るほうのこと、あれから何か思い出した?」


「いいえ。……ただ、数えている子がいたはずなのよ」


「子?」


「ずいぶん昔から、そういうことばかりしている子がいるの。名前が、出てこないのだけれど」


「神様が忘れるの」


「私、あの子の顔を三度見ているのよ。三度とも、はじめて会った気がしたわ」


鞄を持って玄関を出るとき、陽織はまだ座卓の前にいた。鍵をかけていいものかどうか、少し迷った。


---


昼前に、佐藤結衣が机の端に凍らせたペットボトルを置いた。


「はい。二本あるから」


「凍ってるけど」


「お昼には溶けてる。……はず」結衣は自分のぶんを頬に当てた。「あのね、私、片づけたの」


「何を」


「机の下。三十分でやめちゃったけど」


「三十分やったのね」


「澪ちゃんが言うから。家は片づけるものが目に入るって」


「結衣ちゃん、何を捨てたの」


「捨ててない」結衣は少し笑った。「全部、元に戻した」


昼休みに、コピー機の前で中村あかりが紙の束を抱えて立っていた。澪が横に並ぶと、機械の音に混ぜるように言った。


「澪さん。五つあった」


「五つ?」


「一つでいいって言われたのに。聞いてみたら、出てくるの」あかりは指を折った。「駐車場のコーンが二つ。公園の花壇の苗が二つ。傘立ての傘が二本。マンションのプランターの受け皿が二枚。植木の下の煉瓦が二つ」


排紙のトレイが二度、音を立てた。


「いつ無くなったか、言える人はいる?」


「……一人だけ。花壇のは、『草引きの次の朝やった』って言うとった」


「その日は」


「六月十二日」


「あとの四つは」


「みんな、気がついたら無かったって」


「じゃあ、数に入らないわ」


「入らないの?」


「日付の無い話は、並べられないの。並べられないものは、比べられないわ」


十二日、と澪は口の中で置き直した。五日ではなかった。


---


夕方、二つ目の角を左に折れて、住宅地の奥へ入った。七時が近いのに、影だけが長くなって、日はまだ落ちない。空き缶の回収ボックスの上に、まるいものが行儀よく座っていた。


「遅かったな」


澪は鞄からビニール袋を出した。油揚げが三枚。うち一枚は、まん中で切ってある。


「二枚半よ」


玉助(たますけ)は袋に鼻を突っ込んで、切り口を長いこと見ていた。


「……ほんとに切りやがった」


「切れと言ったでしょう」澪は回収ボックスに肘を乗せた。「陽織が、名前を思い出せないと言っていたの。ずっと数えている誰かがいるらしいわ」


玉助の耳が動いた。


「あー。いるな。いるぞ、たしかに」


「名前は」


「そういうのは、ただじゃねえ」


袋に手を伸ばすと、前足で押さえられた。


「もう受け取った」


「まだ何も聞いていないわ」


「思い出す時間を買ったんだ」


玉助は目を閉じた。十秒ほど黙って、それから鼻の頭にしわを寄せた。


「……出てこねえな」


「返して」


「商売ってのは、そういうもんだ」玉助は袋を尻の下に敷いた。「顔は分かる。会えば分かる。会ってる最中も分かる。帰ると分からん」


---


児童公園の砂場は、乾いて白くなっていた。夕方でも土から熱が上がってくる。西の空に眉山(びざん)の輪郭が出て、その手前だけがまだ明るかった。


花壇の前に、小柄な人がしゃがんでいた。雑草を一本ずつ抜いて、根の土を落としてから重ねている。


光代(みつよ)さん」


「……青木さん」


「今月まででしたね」


「あと四日です」


澪は花壇を見た。細い苗が四本、間を空けて並んでいる。


「六つ植えました。町内で」光代さんは言った。「四つになっとりました」


「気づいたのは」


「草引きの次の朝です。十二日」


「二つですね」


「二つです」


「どこの二つですか。端か、真ん中か」


光代さんは膝をついたまま、道のほうを指した。


「端です。こっち側の」


坂の上の鉢は、真ん中が抜けていた。ここは端で、しかも道から手が届く。盗るなら端から取る、と言ったのは澪自身だった。


「……盗まれたのかもしれませんね」


「そう思とりました」


光代さんが道具を持って行ってしまうと、公園には音が無くなった。澪はベンチに腰を下ろして、鞄の中で紙を探した。


ベンチの反対の端に、人が座っていた。


公園に入るときに見ている。見たのに、いま初めて見た気がした。澪は立ち上がった。声が出るまでに、一拍かかった。


「……いつから、そこに」


「三日です」


「ずっと?」


「日が暮れてからです」


若いとも年寄りとも言えない顔だった。目を離すと、輪郭のほうが先に消えそうだった。


「わたしは無月(むつき)です。はじめまして。……いえ、四度目です」


「四度目」


「九日、十六日、二十日、二十二日。どれも通りがかりです。わたしは無くなったところを見に行くので、あなたと同じ道を通ります」


紙に書いてある日付だった。澪はベンチの端をつかんだまま、座り直した。


「何を数えているの」


「無くなったものです」


「いくつ」


「六月に入って、十九件。すべて二つです。三つも一つもありません」


十九、と声に出さずに繰り返した。三つ目が要る、と人に頼んだのは昨日のことだった。


「集積所は」


「あれはふえるほうです。わたしは数えません」


「別なのね」


「別です」


「五日は」


無月はしばらく黙った。黙り方に、ためらいの色がなかった。


「わたしの記録に、六月五日がありません。書き落としたのではありません。無いのです」


「誰かに言った?」


「言いました」


「誰に」


「……忘れられました」


澪は紙を膝に広げた。誰にも見せたことがない。一行目の上の余白に、五日、鉢、二つ、とだけ書き足してある。


「五日なら、こちらに二件あるわ。書いてあるのは一件だけれど」


無月は紙を見て、それから細い鉛筆のようなものを取り出した。


「書いてもいいですか」


「……ええ」


無月が書いた四行は、まっすぐで、一つも震えていなかった。


「十九ぜんぶは」


「日が暮れます。あなたは明日も働くのでしょう」


「明日の夜、ここにいてくれる?」


「わたしは忘れません」無月は言った。「忘れられるほうです」


---


翌朝、部屋を出るとき、座卓の前には誰もいなかった。いつ帰ったのかは分からない。


会社の駐輪場で紙を開いた。澪の字の下に、澪のものではない字が四行ある。


書いてもらった相手の名前が、すぐには出てこなかった。顔は思い出せる。ベンチの端、乾いた砂、声の高さも覚えている。名前だけが抜けていた。


出てくるまでに、数えるくらいの間があった。


「無月」


声に出したら、そこにあった。


「澪さん、おはよう」


自転車を停めた中村あかりが、澪の手元をのぞきこんだ。


「増えとるやん、それ」


「四行だけね」


「誰が書いたん」


澪は口を開けて、止まった。もう一度、探しにいった。


「澪さん。それ、いま忘れかけとったやろ」

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