第13話 二つ、手の中に
児童公園のベンチで、澪は二十分待っていた。
二十五日の水曜。昨日の日暮れにここで別れるとき、明日の夜もいてくれるかと聞いた。返事はもらっていない。忘れませんとだけ言われて、それは返事ではなかった。
砂場のふちに、子どものスコップが一本、柄を上にして刺したまま忘れられている。
十五分を過ぎたあたりで、スマホが鳴った。佐藤結衣だった。
「澪ちゃん、今どこ?」
後ろで、規則正しい継ぎ目の音がしていた。
「結衣ちゃんこそ、どこ」
「電車。……起きたら知らない駅で、次の折り返しまで四十分あるの」
「用事は」
「ない。ないから、かけたの」
用がないから電話をかける、という発想が澪には無かった。無かったと気づいたことのほうが、少し痛かった。
「明日、コーヒー淹れすぎるかもしれないから、机にいてね」
「淹れすぎる予定なのね」
「予定なの」
切れたあと、澪は画面をしばらく見ていた。ベンチの反対の端に、いつのまにか無月が座っていた。
「お待たせしました」
いつからいたのかは、聞かないことにした。
「十九件、写しますか」
無月は細い鉛筆のようなものを出した。澪は膝の上の紙を、開かなかった。
「全部は要らないわ」
「要りませんか」
「並べたら分かると思っていたの。九日、十六日、二十日。……並べたわよ。それで、何も出てこなかった」
言ってしまうと、思っていたより軽かった。この二週間、澪がしてきたのは日付を集めることだった。集めるほど紙は重くなって、街のほうは一ミリも動いていない。
「見たいの。数えたあとじゃなくて、無くなる前のところを」
無月は鉛筆をしまった。それだけで返事になっていた。
「今夜、どこかで起きる?」
「起きます」
「どこ」
「歩けば分かります」
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住宅地の道は、街灯の間が広い。塀のあいだから、よその家のテレビの音が二軒ぶん重なって聞こえた。
集積所の前で、緑のネットを直している人がいた。四隅のブロックを、一つずつ持ち上げて置き直している。
「まだ当番なんですね」
顔を上げたのは光代さんだった。
「……青木さん。こんな時間に」
「散歩です」
嘘は言わなかった。歩いているのは本当だった。
「お店は、あと三日ですね」
「三日です」光代さんはネットの端をブロックの下へ押し込んだ。「引き継ぎは、もう無いんです。朝いちに何を並べるかは、みんな知っとるけん」
「当番のほうは」
「来月からは向かいの人が。……教えることが、思ったより無かったです」
そう言ってから、少しだけ笑った。この人が笑うのを見たのは初めてだった。
「二十年やって、渡すもんが三行で済むんです。それで、ちょっと安心しました」
「安心」
「無いと回らん人になっとったら、辞められませんけん」
光代さんは澪の隣を一度も見なかった。そこには無月が立って、ネットの結び目をじっと見ている。見えていないのだと分かるまでに、澪は二拍かかった。
「気をつけて帰ってくださいね」
そう言われて、澪は頭を下げた。角を曲がるまで、後ろで音はしなかった。
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三つ目の角で、電柱の陰から玉助が出てきた。
「案内料をもらおうか」
「今日は何も持っていないわ」
「じゃあ付いていくだけだ。見るのはタダだからな」
「見るのがタダなら、案内もタダでしょう」
「違う。案内は俺が歩く。見るのはお前が歩く」
理屈になっていない理屈だった。玉助は澪の半歩うしろに並んで、鼻をひくつかせながら付いてきた。無月のことは一度も見なかった。
四軒目のマンションの前で、無月が足を止めた。一階の通路に、プランターが四つ並んでいる。それぞれの下に、白い受け皿が敷いてあった。
「ここです」
「何が起きるの」
「二つ、無くなります」
無月はしゃがんだ。屈む動作に、ためらいがまったく無かった。手が伸びて、端から二枚目と三枚目の受け皿を、順に持ち上げた。
土がぱらぱらと落ちた。
澪は動けなかった。怖かったのではない。あまりにも普通の手つきだったからだ。落とし物を拾う人と同じ速さで、その手は二枚を取った。
「今、取ったでしょう」
無月は立ち上がって、澪のほうを向いた。
「取っていません」
「手のひら」
無月は自分の手を見た。
二枚あった。
見ている時間が、少しだけ長かった。それから空いているほうの手で鉛筆を出して、澪の知らない紙を開いた。
「二つ、無くな……」
「書かないで」
澪は無月の手首をつかんだ。冷たくも温かくもなかった。ただ、重かった。
「無くなってないわ。あなたが持ってるの」
「持っていますね」
「気持ち悪くないの、それ」
「記録に、持っている人の欄はありません」無月は言った。「誰がしたかは意味です。わたしは記録します。意味は、記録に含まれません」
玉助が一歩下がった。尻尾が根元から膨らんでいた。
「おい。……お前、それをずっとやってたのか」
「何をですか」
聞き返し方に、とぼける色がひとつも無かった。それで澪は、責める先が無いことを知った。やった人がいて、覚えている人がいて、はじめて「やった」になる。この人は片方しか持っていない。
澪は無月の手から二枚を受け取って、しゃがんで、元の位置に戻した。土の乾いた丸い跡が二つ、受け皿の縁から半分だけはみ出している。指で押して、跡の中へ入れた。
「十九件ぜんぶ、こうだったの」
「分かりません」
「分からないの」
「わたしの手を見ていた人が、いませんでしたから」
そこだけ、はっきり言い切った。
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坂を下りながら、玉助が三度も後ろを振り返った。
「なあ。今のやつの名前、なんだったか」
「無月」
「ああ、そうだ。……たぶん」
「たぶんは要らないの」
「うるせえな」
玉助は空き地の入口で足を止めて、それきり付いてこなかった。
澪は一人で自転車を押した。責める先が無いというのは、片づける先も無いということだった。輪ゴムは効いた。あれは、戻ってくるものに印を付ければよかったからだ。今度は、印を付ける相手が、印を覚えていない。
それでも一つだけ分かったことがある。あの手を止めたいなら、あの手を見ている人が要る。
十九件のうち、見ていた人は一人もいなかった。だから十九まで来た。二十件目に見ていた人がいて、それが自分だった。それだけのことなのに、坂を下りきるまでに三度、足が止まった。
無いと回らん人になっとったら、辞められませんけん、と光代さんは言った。あの言い方の裏返しが、あの公園のベンチに座っている。誰の役にも立たないまま、誰にも止められずに、十九回続いた。
止められなかったのは、悪意が巧妙だったからではない。見ていた人がいなかったからだ。二つだから届けが出ない。届けが出ないから記録が残らない。記録が残らないから、次の二つも見られない。よく出来た仕組みだった。誰も設計していないのに、それらしく回っている。
部屋に戻って、澪は紙を広げた。日付の列の下に、初めて日付ではないことを書いた。
二十五日・受け皿・二つ・戻した
戻した、と書ける行は、この紙で最初だった。
文鎮の石を置いて、電気を消す。座卓の上で、紙の端はもう反らない。
暗くしてから、澪はもう一度その行を思い浮かべた。無月の紙のほうは、二つ、無くな、まで書いて止まっている。書きかけの欄を抱えたまま、あの人は今夜のどこかを歩いている。




