第14話 六月五日の頁
「遅い。俺の内側だぞ、ここは」
鷲の門の石垣の上で、建が腕を組んでいた。二十七日の金曜、仕事のあと。前に会ったのは十三日前、この石垣で青石をもらった朝で、そのあいだ一度も呼んでいない。
「呼んだのは今日の昼よ」
「だから遅い」
「半日でしょう」
「神の一日は長いんだ」
長いなら遅くはないだろう、と思ったが言わないことにした。褒めておくほうが安く済むと、下から言った者がいる。
「範囲の内側なら聞いてくれる、って言ったわよね」
「言った」建の背が伸びた。「困ったか」
「困ってるわ」
建はたいへん満足そうにうなずいた。石垣を下りるとき、足を滑らせて草の上に尻をついたが、何事もなかったように立ち上がった。
澪は鞄からハンカチの包みを出した。中の青石を、建の前に置く。
「これをあなたにくれた人のこと」
「……名は聞いておらん」
「顔は」
「覚えておらん」
十三日前と、一字も違わなかった。澪は続けた。
「その人、細い鉛筆みたいなものを持っていなかった?」
建の目が、一度だけ動いた。
「持っていた」
「渡すときに、何か書いていた?」
「書いていた。……何を書いていたかは知らん」
「背は。声は。若かった?」
「分からん」建は苛立ったように石垣を叩いた。「おかしいだろう。俺は忘れんのだ。門を建てた男の顔だって覚えている。何百年も前の男だぞ」
「その人だけ、思い出せないのね」
「そうだ」
言ってから、建は自分の言ったことに詰まったらしく、口を閉じた。
澪は青石を持ち上げて、割れ口の角を指でなぞった。角が三つ、同じ幅で落としてある。石垣から欠け落ちたのではなく、欠いて、寸法をそろえたもの。
作った人は本物を見たことがある、と言った女神がいる。
本物を見ていて、寸法まで正確に写せて、そのうえ誰にも覚えてもらえない者は、この街に一人しかいない。
「これ、返しておくわ」
「要らん。ただの石だ」
「知ってるわ。……でも、あなたに渡しに来たのよ、その人は」
建は石を受け取って、しばらく手のひらに乗せていた。それから、石垣の隙間ではなく、上着の内側へ入れた。
「その者は、何かを直そうとしていたのか」
「たぶん」
「直せたのか」
「直せてない。だから、まだ続いてる」
建は鼻から息を出した。
「なら、そう言え。あの日そう言えば、俺が手伝ってやった」
「言えなかったのよ。言っても、次の日には忘れられるから」
「……くだらん仕組みだな」
くだらない、と澪も思った。
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坂を下りながら、澪は電話をかけた。
三回鳴って、出た。
「みお!? どないしたん、何かあったん」
「大丈夫よ。……そっち、静かね」
「今日は現場おらんのよ。事務所で図面見よる」宮田千夏は、それから聞かれてもいないことを順番に渡してきた。事務所の椅子が硬い、コーヒーが薄い、大阪の人は歩くのが速い。
澪は最後まで聞いた。聞いてから、全部話した。
一月の駐輪場から始めて、駅前の角、乾物屋の紙、輪ゴム、辞めていく人、二つずつ減るもの、児童公園のベンチ、そして一昨日の受け皿。三十分かかった。
千夏は一度も口を挟まなかった。
「……みお。それ、うちに言うまでに何日かかった」
「三週間くらい」
「長いわ」
「そうね」
「まあ、六月から半年おらん言うたんはうちやけどな」
千夏は手帳をめくる音をさせた。
「兄貴に蔵の帳面を出させた。祖母さんの代のやつ。……先に言うとくけど、たぶん外すで」
「聞くわ」
「留めっちゅう字は無かった。かわりに『二つ一組のもんを、人が拵えようとした』話が三つあった。三つとも、拵えた者の名前が空欄や」
澪は足を止めた。
「名前が無いんじゃなくて、空けてあるの?」
「空けてある。書く欄はあるんよ。そこだけ白い」
書く欄はあるのに、白い。
「千夏。それ、どうなったって書いてある?」
「そこまでは無い。……ほら、外したやろ」
「外してないわ。今のが、いちばん要ったの」
向こうが少し黙った。
「みお。うちは十二月に帰る。それまでに片づけとけよ。うちが帰ってから困ったら、うちのせいになるけん」
「ならないでしょう」
「なるんよ。書いてあるもんを信じる人間やけん、うちは。帰ったら手帳に書くわ。『みおは一人でやった』って」
「やめて」
切れたあと、澪は自転車のスタンドを蹴り上げた。半年かけて渡らなかったものが、三十分で渡った。渡らなかったのは電波のせいではなかったのだと、今さら分かった。
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坂の下で、中村あかりと行き合った。伯母のところの帰りらしく、両手に紙袋を提げている。
「澪さん、こんなとこで何しよるん」
「帰るところよ。……あかりちゃん、もう探さなくていいわ」
あかりは紙袋を持ち直した。
「終わったん?」
「終わってない。数のほうが要らなくなったの」
「なんそれ。うち、あれから三つ増やしたのに」
「八つになったのね」
「八つ」
澪は少し笑った。頼んだのは一つで、返ってきたのは八つだった。
「助かったわ。ほんとに。……五つ持ってきた日に言うべきだったわね」
あかりは目を丸くして、それから照れたのを隠すように紙袋を揺らした。
「そんなん言われたら、また探してまうやん」
「探さないで。かわりに、明日つき合ってほしいの」
「どこ」
「商店街のいちばん奥。惣菜屋さんの最後の日なのよ。二十年やった人が辞めるの」
「……買いに行くん?」
「買いに行くのよ。いっぱい買って、いっぱい残ったら困るから、あかりちゃんも来て」
「それ、うちが荷物持ちってことやろ」
「そうよ」
「はっきり言うなあ」
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児童公園に着いたときには、九時を回っていた。
無月はベンチの端にいた。澪は隣に座って、手を出した。
「見せて。あなたの紙」
「意味は書いていません」
「それでいいわ」
無月は上着から紙の束を出した。厚みは、思っていたより無かった。日付と、場所と、二つ。それだけが、まっすぐな字で並んでいる。
澪は六月のところまで戻した。
四日の次が、六日だった。
「五日が無いのね」
「ありません」
「書き落としたんじゃなくて」
「頁はあります」
言われて、澪は指を止めた。四日と六日のあいだに、白い頁が一枚、きちんと挟まっている。破った跡もない。順番どおりに綴じられて、そこだけ何も書かれていない。
書く欄はあるのに、白い。
「この日に、何をしたの」
「分かりません」
「思い出せないんじゃなくて」
「無いのです」無月は言った。「わたしは、記録に無いことを持っていません」
澪は白い頁に手を乗せた。紙は紙の温度をしていた。
六月五日。藍場浜の街灯が、端から一本ずつ、几帳面に、一晩に一本だけ直されはじめた夜。誰かが仕事を始めて、三晩で止まった。三行のメモを持っているのは澪だけで、そのメモの一行目が、この白い頁と同じ日にある。
「街灯を直していたの、あなたね」
「記録にありません」
「そうでしょうね」
澪は紙を閉じて、無月に返した。責める気はもう無かった。
「明日、店が閉まるの。知り合いが二十年勤めた店。最後の日なのよ」
「はい」
「一緒に来て。何も数えなくていいから」
無月は、初めて答えるまでに間を置いた。
「わたしがいても、覚えていられません」
「わたしが覚えるわ」
砂場のスコップは、まだ同じ場所に刺さっていた。公園の外の道を、自転車が一台、灯りを揺らしながら通り過ぎていく。西の空はもう黒くて、その手前に、街のほうの低い明かりが横に長く伸びていた。




