↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
14/15

第14話 六月五日の頁

「遅い。俺の内側だぞ、ここは」


鷲の門の石垣の上で、(たける)が腕を組んでいた。二十七日の金曜、仕事のあと。前に会ったのは十三日前、この石垣で青石をもらった朝で、そのあいだ一度も呼んでいない。


「呼んだのは今日の昼よ」


「だから遅い」


「半日でしょう」


「神の一日は長いんだ」


長いなら遅くはないだろう、と思ったが言わないことにした。褒めておくほうが安く済むと、下から言った者がいる。


「範囲の内側なら聞いてくれる、って言ったわよね」


「言った」建の背が伸びた。「困ったか」


「困ってるわ」


建はたいへん満足そうにうなずいた。石垣を下りるとき、足を滑らせて草の上に尻をついたが、何事もなかったように立ち上がった。


澪は鞄からハンカチの包みを出した。中の青石を、建の前に置く。


「これをあなたにくれた人のこと」


「……名は聞いておらん」


「顔は」


「覚えておらん」


十三日前と、一字も違わなかった。澪は続けた。


「その人、細い鉛筆みたいなものを持っていなかった?」


建の目が、一度だけ動いた。


「持っていた」


「渡すときに、何か書いていた?」


「書いていた。……何を書いていたかは知らん」


「背は。声は。若かった?」


「分からん」建は苛立ったように石垣を叩いた。「おかしいだろう。俺は忘れんのだ。門を建てた男の顔だって覚えている。何百年も前の男だぞ」


「その人だけ、思い出せないのね」


「そうだ」


言ってから、建は自分の言ったことに詰まったらしく、口を閉じた。


澪は青石を持ち上げて、割れ口の角を指でなぞった。角が三つ、同じ幅で落としてある。石垣から欠け落ちたのではなく、欠いて、寸法をそろえたもの。


作った人は本物を見たことがある、と言った女神がいる。


本物を見ていて、寸法まで正確に写せて、そのうえ誰にも覚えてもらえない者は、この街に一人しかいない。


「これ、返しておくわ」


「要らん。ただの石だ」


「知ってるわ。……でも、あなたに渡しに来たのよ、その人は」


建は石を受け取って、しばらく手のひらに乗せていた。それから、石垣の隙間ではなく、上着の内側へ入れた。


「その者は、何かを直そうとしていたのか」


「たぶん」


「直せたのか」


「直せてない。だから、まだ続いてる」


建は鼻から息を出した。


「なら、そう言え。あの日そう言えば、俺が手伝ってやった」


「言えなかったのよ。言っても、次の日には忘れられるから」


「……くだらん仕組みだな」


くだらない、と澪も思った。


---


坂を下りながら、澪は電話をかけた。


三回鳴って、出た。


「みお!? どないしたん、何かあったん」


「大丈夫よ。……そっち、静かね」


「今日は現場おらんのよ。事務所で図面見よる」宮田千夏(みやたちなつ)は、それから聞かれてもいないことを順番に渡してきた。事務所の椅子が硬い、コーヒーが薄い、大阪の人は歩くのが速い。


澪は最後まで聞いた。聞いてから、全部話した。


一月の駐輪場から始めて、駅前の角、乾物屋の紙、輪ゴム、辞めていく人、二つずつ減るもの、児童公園のベンチ、そして一昨日の受け皿。三十分かかった。


千夏は一度も口を挟まなかった。


「……みお。それ、うちに言うまでに何日かかった」


「三週間くらい」


「長いわ」


「そうね」


「まあ、六月から半年おらん言うたんはうちやけどな」


千夏は手帳をめくる音をさせた。


「兄貴に蔵の帳面を出させた。祖母さんの代のやつ。……先に言うとくけど、たぶん外すで」


「聞くわ」


「留めっちゅう字は無かった。かわりに『二つ一組のもんを、人が拵えようとした』話が三つあった。三つとも、拵えた者の名前が空欄や」


澪は足を止めた。


「名前が無いんじゃなくて、空けてあるの?」


「空けてある。書く欄はあるんよ。そこだけ白い」


書く欄はあるのに、白い。


「千夏。それ、どうなったって書いてある?」


「そこまでは無い。……ほら、外したやろ」


「外してないわ。今のが、いちばん要ったの」


向こうが少し黙った。


「みお。うちは十二月に帰る。それまでに片づけとけよ。うちが帰ってから困ったら、うちのせいになるけん」


「ならないでしょう」


「なるんよ。書いてあるもんを信じる人間やけん、うちは。帰ったら手帳に書くわ。『みおは一人でやった』って」


「やめて」


切れたあと、澪は自転車のスタンドを蹴り上げた。半年かけて渡らなかったものが、三十分で渡った。渡らなかったのは電波のせいではなかったのだと、今さら分かった。


---


坂の下で、中村あかりと行き合った。伯母のところの帰りらしく、両手に紙袋を提げている。


「澪さん、こんなとこで何しよるん」


「帰るところよ。……あかりちゃん、もう探さなくていいわ」


あかりは紙袋を持ち直した。


「終わったん?」


「終わってない。数のほうが要らなくなったの」


「なんそれ。うち、あれから三つ増やしたのに」


「八つになったのね」


「八つ」


澪は少し笑った。頼んだのは一つで、返ってきたのは八つだった。


「助かったわ。ほんとに。……五つ持ってきた日に言うべきだったわね」


あかりは目を丸くして、それから照れたのを隠すように紙袋を揺らした。


「そんなん言われたら、また探してまうやん」


「探さないで。かわりに、明日つき合ってほしいの」


「どこ」


「商店街のいちばん奥。惣菜屋さんの最後の日なのよ。二十年やった人が辞めるの」


「……買いに行くん?」


「買いに行くのよ。いっぱい買って、いっぱい残ったら困るから、あかりちゃんも来て」


「それ、うちが荷物持ちってことやろ」


「そうよ」


「はっきり言うなあ」


---


児童公園に着いたときには、九時を回っていた。


無月はベンチの端にいた。澪は隣に座って、手を出した。


「見せて。あなたの紙」


「意味は書いていません」


「それでいいわ」


無月は上着から紙の束を出した。厚みは、思っていたより無かった。日付と、場所と、二つ。それだけが、まっすぐな字で並んでいる。


澪は六月のところまで戻した。


四日の次が、六日だった。


「五日が無いのね」


「ありません」


「書き落としたんじゃなくて」


「頁はあります」


言われて、澪は指を止めた。四日と六日のあいだに、白い頁が一枚、きちんと挟まっている。破った跡もない。順番どおりに綴じられて、そこだけ何も書かれていない。


書く欄はあるのに、白い。


「この日に、何をしたの」


「分かりません」


「思い出せないんじゃなくて」


「無いのです」無月は言った。「わたしは、記録に無いことを持っていません」


澪は白い頁に手を乗せた。紙は紙の温度をしていた。


六月五日。藍場浜の街灯が、端から一本ずつ、几帳面に、一晩に一本だけ直されはじめた夜。誰かが仕事を始めて、三晩で止まった。三行のメモを持っているのは澪だけで、そのメモの一行目が、この白い頁と同じ日にある。


「街灯を直していたの、あなたね」


「記録にありません」


「そうでしょうね」


澪は紙を閉じて、無月に返した。責める気はもう無かった。


「明日、店が閉まるの。知り合いが二十年勤めた店。最後の日なのよ」


「はい」


「一緒に来て。何も数えなくていいから」


無月は、初めて答えるまでに間を置いた。


「わたしがいても、覚えていられません」


「わたしが覚えるわ」


砂場のスコップは、まだ同じ場所に刺さっていた。公園の外の道を、自転車が一台、灯りを揺らしながら通り過ぎていく。西の空はもう黒くて、その手前に、街のほうの低い明かりが横に長く伸びていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。