第15話 二つで一組
「見つからないのよ。どこにいるのかしら」
二十八日の土曜の昼前、商店街のいちばん奥で、陽織がそう言った。
言いながら、その手は無月の肩の前を通り過ぎていた。無月は澪の右に立っていて、シャッターの上がった店をまっすぐ見ている。陽織の目は、そこを二度なぞって、二度とも素通りした。
「隣にいるわ」
「どこに」
「あなたの、右」
陽織は右を見た。首がちょうど無月の顔の高さで止まって、それから、何も無かったように戻ってきた。
「いないじゃない」
「いるわよ」
「私、あの子の顔を三度見ているの」
「四度目よ、今」
「あら」
そう言ったきり、陽織は自分が何の話をしていたのかを探す顔になった。無月は表情を変えなかった。慣れているのだと分かって、澪は少しだけ腹が立った。
「陽織。ひとつ聞くわ。留めは、作れるの」
「作れないわ」
「たぶん、は」
「たぶんは付けないわ。あれは作るものじゃないの。置くものよ」
初めて保険の付かない答えが返ってきた。
「じゃあ、作ろうとしたら、どうなるの」
「材料を集めるでしょうね。二つで一組だから、二つずつ」陽織は指を一本立てて、すぐ下ろした。「そして、できないの。永遠にね」
「止め方は」
「知らないわ。私は屈まないもの」
そこは、三度目だった。澪はもう聞かないことにした。
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惣菜屋のシャッターは、上まで上がっていた。
「六十八です」吉岡さんが帳面から顔を上げた。「今朝作ったのが六十八。棚には六十八あります」
「合ってますね」
「合うとります。二十日からこっち、初めて何もない朝です」
言い方に力が入っていた。合っていることを、この人は毎朝ちゃんと喜んでいたのだと分かった。
中村あかりが両手に袋を提げて、店の前で待ちくたびれている。
「澪さん、ほんまに全部買うん?」
「全部は買わないわ。売れ残ったら、あの人が困るもの」
「今日で辞めるのに?」
「今日で辞めるからよ」
光代さんは、いちばん奥の棚の前にいた。パックを一つずつ持ち上げて、値札の向きをそろえている。誰に見せるものでもないのに、きれいにそろえていく。
「青木さん。それと……」
「中村です。この人の同僚です」
「光代です。今日までです」
三人で少し立ち話をした。孫が九月に来ること、それまで何もしないと決めていること、決めたことをひっくり返すのは疲れること。あかりは初対面なのに三分でうちとけて、九月に会いに来ていいかと聞いていた。光代さんは、来てもええけど何も出ませんよ、と言って、それから住所の代わりに集積所の場所を教えていた。
「最後に何を並べたか、覚えておこうと思とったんです」
「覚えられましたか」
「途中で分からんようになりました」光代さんは棚の端を撫でた。「毎朝おんなじことをしよったら、最後の朝も、ただの朝でした」
ただの朝だった、と言えるところまで戻ってきたのだと澪は思った。三日ぶん帳面を見せてくれと言われた朝から、ここまでは遠かったはずだった。
吉岡さんがレジの向こうから、聞こえないふりの声で言った。
「みっちゃん。九月に孫が来たら、連れといでよ。安うしとくけん」
「安うせんでええです」
「するんよ。うちの店やけん」
光代さんは返事をしなかった。かわりに、値札の向きをもう一枚そろえた。
帰りぎわ、光代さんは澪の後ろを見た。
見えていないはずだった。それでも、そこに何かがあるという顔で、一度だけ見た。
「ここ、まだ何か残っとりますか」
「残ってます」澪は言った。「でも、数える人はもういりません」
光代さんは、はい、とだけ言った。それから、いちばん端のパックの向きを直して、手を止めた。
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児童公園に着いたのは、日が落ちてからだった。
無月はベンチの端に座っていた。澪は反対の端ではなく、真ん中に座った。
「今日、覚えている?」
「覚えています」
「明日は」
「……分かりません」
澪は鞄から紙を出した。自分の紙と、もう一枚、今朝コンビニで取ってきた白い紙を並べる。
「写すわ。あなたの十九件」
「要らないと言いました」
「要らないのは、数を並べて何かを当てることよ。これは違うの」
澪は鉛筆を握った。
「あなたの記録は、あなたしか持っていないの。あなたが忘れられたら、記録ごと消えるのよ。二つで一組でしょう。片方だけだと、ほつれるって、あの人が言ってたわ」
無月は長いこと黙っていた。黙り方に、初めてためらいの色があった。
「わたしは、片方です」
「わたしがもう片方をやるわ」
一時間かかった。十九件を写して、二十件目に、二十五日の受け皿を書き足した。取ったのは無月の手で、戻したのは澪の手だと、そこにだけ意味を書いた。
「これで止まるんですか」
「止まらないわ」
「はい」
「止まらないけど、次に手が動いたら、わたしが言うわ。二つ取った、って。言われたら分かるでしょう」
「分かります」
「じゃあ、それでいいの」
留めのもう片方は見つからなかった。ほつれも直っていない。街のどこかでは今夜も何かが二つ、いつのまにか元に戻っているのかもしれない。それでも、こちらの紙は二人ぶんになった。
無月が細い鉛筆を出して、澪の紙の余白に一行だけ書いた。
〈二十八日。青木澪。忘れないと言った〉
「意味を書いたのね」
「はい」
「記録に含まれないんじゃなかったの」
「欄を、作りました」
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坂を下りると、玉助が空き缶の回収ボックスの上に座っていた。
「終わったのか」
「終わってないわ。終わらないほうに決めたの」
「商売としては最悪だな」
「あなたに言われたくないわ」
玉助は前足で顔を拭って、それから、めずらしく何も要求せずに横に並んだ。二軒ぶん歩いて、また離れていった。
スマホが鳴った。佐藤結衣だった。
「澪ちゃん、明日ひま? 終点まで行くんだけど」
「降りないやつね」
「降りないやつ」
「行くわ」
「え。……え、来るの?」
「四時間でしょう。何もしない日が欲しかったのよ、わたしも」
向こうで、うれしそうな悲鳴のような音がした。切ってから、澪は自転車のスタンドを立てたまま、しばらく空を見ていた。
直っていないものが、この街には山ほどある。駅前の角の留めは片方のまま、吉野川の呼ぶ声も、音の入らない一角も、そのままそこにある。全部片づけたら終わりにできると思っていたころが、半月と少し前にあった。
片づかないものは、片づけないで持っておく。持つ人が一人だと重いから、二人で持つ。それだけのことを覚えるのに、六月をまるごと使った。
澪は自転車を押して歩き出した。道の両側には、数えられるものがいくらでも並んでいる。門の前の自転車、塀の上の鉢、物干しの洗濯ばさみ。
今夜は数えなかった。数えずにこの道を歩いたのは、六月に入ってから初めてだった。
角を曲がったところで、自転車のカゴの中に何かが入ったような気がして、澪は手を止めた。覗いても、何も入っていなかった。
「……そっちは、行き止まりよ」
言ってから、自分でおかしくなった。一月の夜に、同じことを言った覚えがある。あのときは怖くて、今夜はそうでもなかった。




