第59話 灰の花弁
◆
穏やかな朝は殺戮に向いている。
六日目の黎明はあまりにも静かだった。精錬所の煙突が朝の最初の煙を吐き出す頃にはもう坑口の前に人が集まっている。戦鎚を地面に突き立てたバーヴェラを筆頭に冒険者と坑夫が十数名、封鎖壁の手前で武器を構えた彼らの間に言葉はほとんどない。これから行われることの意味は全員が理解していた。ただしその理解の深度は、各人によってまるで異なる。
坑口の脇に設えた焚口の前にセフィラが膝をついている。灰蝕石の粉末と焦硫粉に蒼鉛粕と砒灰を加えた「第十一番」──五日間と十八通りの試行が凝縮された油紙の包みが整然と並んでいた。セフィラは一つ一つに指先を触れて確かめてから立ち上がる。
シャールは少し離れた場所で通気口からの気流を読んでいた。彼の役目は坑口から坑道の奥へ向かう風を作ることだ。風の属性魔法──と、周囲には言ってある。
「よろしいですか」
セフィラが振り返った。シャールが頷く。バーヴェラが封鎖壁の向こうから「いつでもいいよ」と声を張った。
種火が焚口に落ちる。
◆
焚口から最初の煙が上がった時、セフィラの貌には何の表情も浮かんでいなかった。
恐怖もなく快楽もなく、ましてや良心の疼きもない。灰蝕石が熱に崩れて酸い臭気が周囲に走り焦硫粉が反応して煙が赤みを帯び蒼鉛粕の気化が重い底流を作って砒灰がそれを覆い煙が濁った紫紺に変わっていく一連の化学変化を、セフィラはただ配合の燃焼を検証する実験者の目で追っている。
それは花のようだった。焚口の小さな炎を芯にして坑道の暗がりへ向かって咲き広がっていく、致死の花弁。
シャールが目を閉じる。大気の中には目に見えない塵が無数に漂っている。粉塵、鉱石の微片、煙の粒子──不可視の念動力がそれらを一つ一つ掴み、同じ方向へ押しやった。塵が動けば塵に押された空気が動く。空気が動けば流れが生まれる。坑口の外から坑道の奥へ、自然にはあり得ぬ一方向の気流が走り、紫紺の煙は従順に闇の喉奥へ吸い込まれていく。
善人は殺すことに怯むだろう。悪人は殺すことを愉しむだろう。だが宮廷で育った人間は、どちらの反応も示さない。
正しい選択は報われ、誤った選択は身を滅ぼす──宮廷とはそういう場所だ。この原理を十年以上にわたって肌と骨に叩き込まれた者の精神には、ある種独特の乾きが生まれる。泣くなという教えではない。泣きながらでも最適な手を打てという教えである。悲嘆の涙を頬に伝わせたまま犠牲の数を最小にする命令書に署名する──そういうことを呼吸のようにやれる人間を、宮廷は十数年かけて製造する。
人間は大きく分ければ二種に分かれる。苦痛を前にして足がすくむ者と、苦痛を風景として処理できる者だ。だが宮廷育ちの人間はそのどちらでもない。彼らは苦痛を方程式の変数として処理する。変数に感情を移入する数学者はいない。
セフィラはまさにそのように仕上げられた精神の持ち主だった。地の底の虫が灰蝕毒に外殻を侵され焦硫粉に甲殻を割られ砒灰に内臓を焼かれて死んでいく──その過程を、彼女は焚口の傍に膝をついて羊皮紙に配合の燃焼データを書き付けながら、何の感慨もなく見つめている。
迷いがないのは残酷だからではない。訓練の成果だ。犬は「伏せ」と言われれば伏せる。宮廷の子供は「判断せよ」と言われれば判断する。手を止めて泣くという回路が、そもそも配線されていないのである。
◆
焚き込みが始まって半刻も経たぬ頃、地面が揺れた。
集中してようやく分かる程度の微かな振動だ。だが坑夫たちの顔色がたちまち変わる。岩盤の声を聞き分けることに生涯を費やしてきた連中である。このくらいの揺れにもすぐ気付く。
「効いてやがる」
年嵩の坑夫がそう呟いた時、誰も返事をしなかった。顔を背ける者もちらほらといた。
地の底で何かがのたうっている。毒煙に侵された地脈虫の群れが封じられた坑道の中で悶え、その苦悶が振動となって地殻を伝わってくる。
坑夫たちにとって地脈虫は、ただの害虫ではない。虫は地中の霊脈に沿って巣を作る。その古い巣跡を辿れば良質な鉱脈に行き当たるのだ。虫が長く棲んだ地層では体液が鉱石に浸透して独特の変成を起こし、より純度の高い鉱物が育まれる──坑夫たちの間ではそれを「虫の恵み」と呼んでいた。本来ならば虫は地の深くに棲み、人とは互いに干渉しない。今回の惨事は延伸部の坑道を掘り進めて巣を直撃した、人間の側の過ちだ。坑夫たちがそれを知らぬはずがない。
だからこそ彼らは、足元から伝わる虫の断末魔に顔を背けるのである。殺さねばならないと分かっている。分かっていてなお、痛む。
バーヴェラが封鎖壁に掌を押し当てた。
「暴れているね。だが壁は保っている」
セフィラは焚口の傍で燃焼の推移を記録していた。油紙の包みは設計通りの間隔で追加投入され、灰白色から紫紺へ移ろう致死の帯が途切れることなく坑道の奥へ送り込まれていく。
やがて通気口の三番から紫紺の煙が噴き出した。続いて五番。
「奥まで通ったね」
バーヴェラが封鎖壁から離れる。
「三番と五番は延伸部の枝坑の先ですわ。噴出は全域に毒煙が行き渡った証でございます」
セフィラの声に感慨はない。水が沸けば蒸気が出る。毒が行き渡れば通気口から噴く。それだけのことだ。
やがて足元の振動が弱まっていく。散発的になり──間遠になり──最後に一度だけ大きく震えて、止んだ。
坑夫のひとりが十字を切る。座り込んで長い息を吐く者もいた。
セフィラは羊皮紙に数行を書き加えている。
「燃焼開始から三番噴出まで四分の一刻。五番噴出まで三分の一刻。振動停止まで半刻弱。……もう少し蒼鉛粕を増やしていれば、到達はさらに速かったかもしれませんわね」
坑夫たちが無言で顔を見合わせた。地脈虫が死んだ安堵と、この若い女への底知れぬ畏怖が一つの顔の上で溶け合っている。
◆
陽が昇りきった頃にバーヴェラが封鎖壁の一部を崩し、確認のため坑道に入った。シャールと坑夫三名が続く。
坑道の壁と床に地脈虫の死骸が散らばっている。灰蝕毒に斑に侵されて黒ずんだ外殻。繋ぎ目の薄い部分から滲み出す暗色の体液。焦硫粉が侵食を加速した痕は甲殻の表面を走る無数の亀裂として刻まれ、砒灰が体内を焼いた痕跡は裂けた体節の隙間から覗く灰色に変色した筋繊維に残っている。腐敗の甘い臭気と焦げた金属の臭気が溶け合って坑道の空気が重い。死の匂いだ。それも自然死ではない──化学的に設計された死の匂いである。
坑夫たちは口を覆った。嫌悪だけではない。かつて「虫の恵み」として鉱脈を導いてくれた生き物の成れの果てを前にして、ひとりは壁に手をついてうつむいている。
だがシャールはそうではなかった。彼の視線は死骸の分布を追い、毒煙の浸透範囲を逆算している。どこまで届いてどこに届いていないか。死骸の密度が高い区画と低い区画、巣の中心と辺縁の位置関係。戦場の後に損害を査定する指揮官と、まったく同じ回路である。
かつてこの男が座るはずだった椅子は、数千の兵の生死を左右する椅子だった。一つの命令が百の死を生み一つの躊躇が千の命を見殺す。そのような場所に備えて鋳造された精神にとって、死骸は分析の対象であって感情の対象ではない。虫が苦しんだかどうかは方程式に含まれない変数だ。含まれない変数を考慮する理由がない。
感じるのではない。処理するのだ。
坑道から出ると、バーヴェラが白い歯を見せていた。
「大したもんだ。嬢ちゃんの毒は本物だったね」
「毒の効果を保証するのは理でございますわ。わたくしはその理を配合に翻訳しただけですの」
理。
前の晩にセフィラはその信仰を裏切っている。シャールの指が蒼鉛粕の染みを拭ったあの夜、掌の温かさは摩擦の理で説明できると知りながらその説明を退けた。
殺戮は理で遂行し、恋慕は理から逸れる──この矛盾を矛盾と認識しつつなお平然と機能できる精神もまた宮廷の産物だろう。矛盾は解消するものではなく抱えて機能するものだと、あの場所はきわめて効率的に教えてくれる。
坑夫たちが歓声を上げた。抱き合う者がいる。涙を流す者がいる。だが──。
シャールとセフィラはその歓喜の輪の中に立ちながらも、ついぞ輪の内側には入らなかった。笑顔を見せはする。だがそれは歓喜ではなく、任務の完了を確認した者の安堵だ。
流浪の二人にとってマルディンは通過点であり、地脈虫の殲滅は帝国への旅路を滑らかにするための一手に過ぎない。
それを冷酷と呼ぶことは容易い。だが容易い言葉は大抵の場合、本質を射抜かない。彼らは冷酷なのではない。ただ高い椅子の傍で育った者だけが身につける、この世界との隔たり──その透明で堅牢な孤独を、生涯脱ぎ捨てることができないだけだ。




