第60話 残響
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毒煙の名残が坑道から完全に抜けるには数日を要する、とセフィラは推定を出した。灰蝕毒と焦硫粉と砒灰の三重の毒煙が空気より重いのが問題だった。自然の通気で薄まるには坑道の容積が大きすぎるのだ。
「けれどあの配合は坑道の奥まで確実に届くことを優先していますので、残留も相応でございましょう。通気口七箇所を全開にして気流を通せば四日から五日程度で安全濃度まで下がるかと。ただし延伸部の最奥は空気が淀みやすいので一週間は見たほうが……」
「つまり今すぐは入れないと」
「ええ」
バーヴェラが腕を組んで天を仰いだ。
「まあ急いだところで仕方ないさ。死んだ虫が逃げるわけでもない」
陽が傾き始めた頃、バーヴェラが宿に二人を呼んだ。部屋の卓に革袋が置かれている。詰め込まれた硬貨の重みで袋の底が歪んでいる。
「報酬だよ。坊や、嬢ちゃん。ギルドと町の連中で出し合った分だ」
「依頼は辞退したはずだが」
「辞退したのは地脈虫討伐の依頼さ。毒の調合は別の仕事だろう? あの毒がなけりゃこっちはまだ坑道の前で指を咥えてたんだ。嬢ちゃんらの五日間は安くないよ」
シャールはセフィラを見た。セフィラが小さく頷く。
「……ありがたく受け取る」
「素直でいいね」
バーヴェラが白い歯を見せた。
「後のことはあたしたちに任せな。毒が抜けたら坑道に入って掃除する。虫の死骸の始末と坑道の安全確認は地元の連中の仕事だ。坊やたちが気にすることじゃない」
バーヴェラは卓に肘をつき、指で革袋を弾いた。硬貨がじゃらりと鳴る。
「帝都に着いたら南街道沿いの冒険者ギルドに行きな。一等路の支部だから受付が混むが、二階の紹介窓口で『岩喰いのバーヴェラに聞いた』と言えば、片目のドリスに取り次いでもらえるよ。ドリスは口が悪いが腕利きの仲介人だ。よそ者が帝都でまともな依頼にありつくには顔が要る。ドリスをまず味方につけな」
「世話になった」
「世話じゃないさ。取引だよ。あんたの嫁さんに毒を作ってもらった代金に、あたしの古い友人を一人紹介しただけだ。等価交換さ」
嫁さん、という言葉にセフィラの頬がかすかに色づいたが、否定はしなかった。
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翌朝、空はまだ暗い。
通りの石畳が夜露で湿っている。精錬所の煙突は朝の最初の煙を吐き出す前で、マルディンの空気がいつになく澄んでいた。煤の町にも静かな朝がある。
南街道の乗合馬車は日の出とともにマルディンを発つ。宿の前には既に木箱を積んだ荷馬車が一台と、それに便乗する乗客たちが数人ほどたたずんでいた。行商人らしい太った男と、修道服の老女と、布袋を抱えた若い母親。皆ぼんやりと東の空を見ている。
シャールとセフィラが荷物を背負って宿を出ると、入口の柱にバーヴェラが寄りかかっていた。腕を組んで欠伸をしている。
「見送りに来たのか」
「馬鹿言いな。散歩のついでだよ」
嘘である。この女は夜明け前に起きて宿の前まで歩いてきたのだ。散歩と呼ぶには目的地が限定的すぎる。
バーヴェラがシャールの前に立った。身長差がある。見下ろす形になる彼女の目が、珍しく穏やかだった。
「坊や。帝都は広いよ。こっちの辺境とは桁が違う」
「ああ」
「あんたは腕が立つし、嬢ちゃんは頭が切れる。二人ならやっていけるだろう」
バーヴェラはセフィラに振り向いた。
「嬢ちゃん。……面白い毒だった。いや、面白い女だった」
「ありがとうございます。バーヴェラさんの戦鎚はあれほどの重さで柄の重心がやや先端寄りなのが気になっておりましたの。お体の大きさに合わせた特注でしょうか。次にお会いする機会があれば詳しく伺いたいですわ」
バーヴェラは一瞬呆気に取られ、それから腹の底から笑った。
「やっぱりいいタマだね、あんた」
馬車の御者が出発を告げる。シャールが荷台に荷物を乗せ、セフィラに手を差し出した。セフィラがその手を取って荷台の縁に座る。
バーヴェラが手を挙げた。大きな掌が朝の薄い光に翳る。
「達者でね」
馬車が動き出す。車輪が石畳を噛んで軋み、荷馬車はゆっくりと南街道へ曲がった。振り返ると、煙突の林の手前に大きな人影が立っている。最後まで腕を組んだまま見送っているのが、あの女らしかった。
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乗合馬車の速度はのんびりしたものだった。
御者は太った行商人と古い知り合いらしく、手綱を握ったまま世間話をしている。荷台に据えた板の上に乗客が並んで座り、背後で木箱が揺れるたびにがたがたと音が立つ。道の両側は収穫を終えた畑がどこまでも続き、冬枯れの茶色い地面の上を低い風が走っていた。
セフィラが隣に座っている。肩が触れるほど近い。揺れるたびに体が傾き、彼女の亜麻色の髪がシャールの肩に触れた。
「……眠いですか」
「いや」
「ではわたくしが眠ってもよろしいですか」
「ああ」
セフィラはそれだけ確認して目を閉じた。宮廷仕込みの完璧な姿勢は保ったまま、呼吸だけが穏やかになっていく。体が揺れに従ってわずかに傾ぎ、やがてシャールの肩に頭が乗った。
シャールは動かない。街道の景色を見ている。畑が森に変わり、森が丘に変わる。名前も知らない村を通り過ぎ、野良犬が馬車を追いかけてきて飽きて去った。修道服の老女がつぶやくように祈りを唱え、若い母親の膝の上で赤ん坊が声もなく眠っている。
平和な景色だったただの道を行くだけの時間だ。こういう時間はいつ以来だろう、とシャールは軽く息をつく。ラスフェルに着いた頃にもあったかもしれないが、あの頃はまだ追手の影が近すぎた。
シャールの右手がセフィラの手に触れた。眠っているセフィラの指が、無意識にその手を握り返す。
馬車は揺れる。街道は続く。帝都はまだ遠い。
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数日後。マルディン。
通気口を全開にして五日間の換気を経た坑道に、バーヴェラの一隊が入坑した。
先頭はバーヴェラだ。戦鎚を担ぎ、左手に魔導灯を掲げている。後方には土の魔力を持つ冒険者が四名と坑夫が三名。土の魔力は四大属性の中で最も身体を強靱にする。筋力と耐久性に優れるため坑道の探索には最適の人材であり、重い甲殻の残骸を踏み越えて進むには単純に力がいる。
坑口から延伸部までの主坑道は足元が悪い。
地脈虫の死骸が散らばっている。大小様々だ。腕ほどの太さの個体が多く、外殻は灰蝕毒に灰白色の斑を浮かべて罅割れ、体節の隙間から暗色の体液が滲んで床を汚している。腐敗が始まった死骸もあり、酸い臭気と甘い腐臭が入り混じって坑道の空気が重い。
坑夫のひとりが口を布で覆いながら呟いた。
「ひでえもんだ……」
「数が凄い。こんなに棲んでいたのか」
「巣を直撃しちまったんだ、そりゃあこうもなるさ」
バーヴェラは黙々と歩いている。魔導灯の光が死骸の外殻に反射し、虹色の煌めきが一瞬だけ闇の中に浮かんでは消えた。生きていた頃は美しい甲殻だったのだろう。
延伸部に入ると死骸の密度が増した。ここが巣の中心に近い。壁面に穿たれた無数の穴──虫が地脈を辿って掘った巣穴の断面が、魔導灯に照らされて蜂の巣のように並んでいる。巣穴の入口で息絶えた個体が何匹もいた。逃げようとしたのだろう。
「生きてる奴はいなさそうだね」
バーヴェラが戦鎚の柄で最も大きな死骸を軽く突いた。反応はない。甲殻が乾いた音を立てただけだ。
「全滅か」
「全滅だろうな。あの毒は容赦がない」
冒険者のひとりが溜息をついた。バーヴェラは答えず先に進む。
最奥部。
坑道が不意に広くなった。自然の空洞と人の掘った坑道が繋がった場所だ。天井が高く、魔導灯の光が届かない暗がりが頭上に拡がっている。足元の岩盤が滑らかに磨かれているのは、長い年月にわたって巨大な何かがここに横たわっていた証だろう。
そしてそれは、まだそこにいた。
空洞の中央に横たわる巨大な塊。全長は優に四メトルを超える。虫、というにはあまりに大きいが、節のある体躯と分厚い甲殻は紛れもなく地脈虫の形をしている。ただし坑道で見た個体とは比較にならない。腕ほどの太さの地脈虫を何十匹も束ねたほどの太い胴体は芋虫のようにずんぐりとしており、先端の頭部らしき部分には顎ではなく、口吻に似た器官がある。鋭利そうでもなければ尖ってもいない。繁殖に特化した体だ。戦うようにはできていない。
つまりは、女王。
「こいつが親玉かい」
バーヴェラが魔導灯を高く掲げた。光が巨体の輪郭を浮かび上がらせる。灰蝕毒の斑は体表を覆い、甲殻の繋ぎ目が砒灰で黒く焼けている。さすがのセフィラの毒も、この巨体を相手にすると浸透に時間がかかったのだろう。
「死んでるな」
バーヴェラが柄で胴を叩いた。鈍く湿った音が空洞に反響する。硬い甲殻の中身が液状化しているのだ。内側から腐り始めている。
「触るなよ姐さん」
「そうだね、破裂でもしたらコトだ……まあ、放っておけばいいさ」
バーヴェラは女王の死骸を見下ろしたまま肩をすくめた。
「でかい虫だ。だがこいつも地の底の生き物だ。腐ればそのまま地に還る。骨も甲殻も、いずれは鉱脈の滋養になるだろう。坑夫たちが言う『虫の恵み』って奴だね」
残骸の処理は不要。自然に任せる。それがバーヴェラの判断だった。
「よし、帰るよ。延伸部は当分封鎖して、本坑道の修復から始めるとしよう」
一隊が踵を返した。魔導灯の光が女王の死骸から遠ざかり、巨体の輪郭が闇に沈んでいく。足音が坑道の奥に吸い込まれ、やがて最奥部に再び静寂が降りた。
暗闇の中で、女王の前脚が動いた。
ぴくり、と。
痙攣とも呼べない微かな動き。退化した細い脚の先端が、岩盤の表面をほんの一寸だけ引っ掻いて止まる。
それだけだったが──バーヴェラたちは気づく事ができなかった。




