第3話 妻が愛した味を求めて
次の街へ向かう前に、食料を確保しておきたかった。
【星渡りの羅針盤】のおかげで向かう先には迷わない。ただ腹が減らなくなるわけではない。食料を持たずに旅を続ければ、いずれ困ることになる。ノームとしては、できれば今夜くらいはまともなベッドで眠りたかった。地面に寝転がるのも、硬い床に身を横たえるのも、いい加減に飽きている。
「宿、あるかな」
隣を歩くアニータが、村を見回しながら尋ねた。
「さあな」
「……もうちょっと興味を持ってよ」
「探せば分かる」
「そうだけどさ」
アニータは不満そうに頬を膨らませた。
村の名前はグラストール。羅針盤が示した目的地だった。人の住む場所であることは間違いないが、活気があるとは言い難い。道沿いには家が並んでいるものの、窓や扉が閉ざされた建物が目立つ。道端には伸び放題の草が生えていた。村の規模に比べて、人があまりにも少ない。
宿屋どころか、食料を売っている店さえ見つからなかった。
「ねえ、ノーム。あそこの家、誰か住んでると思う?」
「煙が出ている。いるんじゃないか」
「じゃあ、食べ物を分けてもらえないかな。お金なら少しはあるけど、お店がないんじゃどうしようもないし」
アニータは一軒の家へ向かおうとした。しかし、その前に道の脇から声がかかった。
「すみません。少し、よろしいですか?」
少女が立っていた。年齢はアニータとそれほど変わらないように見える。淡い色の髪を肩のあたりで切りそろえ、汚れひとつない服を着ていた。少女の足元には収穫したばかりらしい野菜が入った籠がある。
ノームは、まず少女の後ろに広がる畑へ目を向けた。
野菜が育っている。それ自体は珍しくない。だが、畑に並ぶ野菜はどれも形が整いすぎていた。大きさはほとんど同じで、葉の向きまでそろっている。自然に育った作物というより、同じ型から作り出した品物のようだった。
少女はそんなノームの視線には気づかず、アニータの顔をじっと見つめていた。
「あなたは、獣人の方ですか?」
「えっ? うん、そうだけど」
アニータが耳に触れる。少女の表情が明るくなった。
「よかった。やっと来てくださったんですね」
「……私を待ってたの?」
「はい。獣人の方をお待ちしていました。おじいさまから、獣人が村に来たら、必ず家へ案内するようにと言われているんです」
アニータはノームを見た。ノームは少女を見返した。
「その老人は、何の用だ」
「詳しいことは、おじいさまから直接お聞きください。こちらです」
少女は籠を持ち直すと、村の奥へ歩き始めた。
ノームたちは顔を見合わせた。断る理由もない。食料を探していたところだし、老人の家に行けば何か分けてもらえるかもしれない。
「行ってみようか」
アニータが言った。
「そうだな」
案内されたのは、畑から少し離れた場所にある一軒家だった。建物は古いが、手入れは行き届いている。玄関の脇には鉢植えが並び、窓辺には洗濯物が干されていた。村のほかの家と比べれば、人が暮らしている気配がはっきりと感じられる。
「どうぞ、お入りください」
少女が扉を開ける。
家の中には、乾燥させた薬草の匂いが漂っていた。居間を抜けた先の寝室には、老人がベッドに横たわっている。顔には深いしわが刻まれ、手足はひどく細い。呼吸するだけでも苦しそうだった。
老人は少女の声を聞いて顔を上げ、アニータの姿を認めると、目を見開いた。
「……獣人か」
「はい。こちらは旅の途中で、食料を探していたそうです」
少女が説明すると、老人はしばらくアニータを見つめていた。やがて、長く張りつめていたものがほどけたように、ゆっくりと息を吐いた。
「そうか。ようやく来てくれたか」
老人の声はかすれていた。
「わしの頼みを聞いてもらえるだろうか」
「内容にもよりますけど……」
アニータは少し警戒しながら答えた。
老人は小さく笑った。無理に笑おうとしたせいか、顔が苦しげにゆがむ。
「そうだな。いきなり頼みごとをするのも失礼だ。まずは、食料を確保するといい。物置にまだ残っている。泊まるところがないなら、客間も使って構わん」
「いいんですか?」
「ああ。好きなだけ持っていってくれ。わしには、もう必要のないものばかりだからな」
アニータの顔がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます! 助かります!」
ノームも軽く頭を下げる。
「世話になる」
「気にするな。わしが頼みたいこともあるのだから」
老人は少女へ目を向けた。
「ネデリカ、物置を案内してやってくれ。それから、客間の準備も頼む」
「分かりました、おじいさま」
少女ネデリカは、素直に頷いた。
物置には、保存のきく食料が十分に残されていた。乾燥させた肉、豆、穀物、根菜。少なくとも、次の街まで食いつなぐには困らない量だ。
「本当に好きなだけ持っていっていいの?」
アニータが念を押す。
「はい。おじいさまがそうおっしゃったので」
ネデリカは、何でもないことのように答えた。
「でも、こんなにたくさん持ってけないな……。そういえば、村の人たちは?」
アニータは食料に手を伸ばしかけたまま、彼女を見た。
「村には、もうほとんど人がいないんです。以前はもっと大勢いたのですが、皆さん出ていってしまいました」
「どうして?」
「分かりません。仕事がなくなったからでしょうか。それとも、別の場所で暮らしたくなったのかもしれません」
ネデリカの声には、寂しさも怒りもなかった。ただ、知っていることを説明しているだけのようだった。
「あなたは、ここに残ってるんだね」
「はい。私はここで野菜を育てています」
アニータは畑を思い出した。あの不自然なほど整った野菜。人の少ない村で、あれだけの量を育て続ける必要があるのだろうか。
「野菜、たくさん作ってるよね。食べる人がいないなら、あんなに作らなくてもいいんじゃない?」
「そうですね。でも、育てるのをやめる理由にはなりません」
ネデリカは淡々と答えた。
ノームは乾燥肉を袋に詰めながら、ネデリカの背中を見ていた。彼女の言葉に、どれも嘘はなさそうだった。
食料を確保し、客間に荷物を置いたあと、ノームとアニータは再び老人の寝室へ向かった。
「で、頼みっていうのは」
老人は、枕元に置かれた水差しへ目を向けた。ネデリカが水を飲ませる。
「わしには、妻がいた」
話は唐突に始まった。
「獣人の女だった。名を、ネデリカという」
少女と同じ名前だ。老人は続けた。
「妻は病に倒れた。最後には、植物人間のような状態になってしまった。目を開けていることはあっても、言葉を話すことはできず、自分の意思を伝えることもできなくなった。わしが話しかけても、返事はない。何を考えているのか、何を感じているのか、知ることさえできなかった」
老人の指が、シーツを握りしめた。
「それでも、食事は必要だった。わしは妻を喜ばせたかった。獣人の間で受け継がれている伝統的なスープがあると聞いていたから、それを作ろうと思った」
獣人の家庭では、季節の野菜や肉を煮込んだスープが昔から作られている。アニータにとっても、それは特別な料理ではなかった。
「わしは、何度も作った。材料を変え、煮込む時間を変え、味つけも工夫した。妻が食べやすいように、野菜を柔らかく煮込んだり。栄養を取れるよう、魔法で野菜の性質を変える研究もした」
老人はそこで言葉を切った。
「だが、妻は何も答えてくれなかった」
沈黙が落ちた。
「おいしかったのか。まずかったのか。そもそも、味を感じていたのか。それさえ分からなかった。わしは妻を喜ばせるために作ったはずなのに、最後まで、喜んでくれたと思えるスープを作ることができなかった。きっと、作り方が間違っていたのだ」
老人の声は、少しずつ弱くなっていった。
「獣人に作り方を尋ねようとも考えた。だが、他人に頼ることが、どうしても許せなかった。自分の妻のために作るものくらい、自分で完成させたかった。そうしているうちに、妻は亡くなった」
老人は目を閉じた。
アニータは、何も言えなかった。慰めの言葉を探そうとしても、何を言えばいいのか分からない。妻が喜んでいたのかどうか、老人は最後まで知ることができなかった。どれほど時間をかけても、どれほど工夫を重ねても、答えは返ってこなかった。
「それで、私にスープを作ってほしいと?」
「ああ。獣人の家庭で受け継がれてきた作り方を、わしは知らない。妻が作っていたものに近い味を知りたい。……いや、違うな」
老人は自嘲するように笑った。
「妻が喜んでいたのかどうか、それを知りたいのだろうな。もう確かめようもないのに、今さらそんなことを考えている」
アニータは、老人の顔を見つめた。
きっと、彼はずっと考え続けてきたのだろう。あのとき、もっと違う作り方をしていたら。別の材料を使っていたら。誰かに聞いていたら。妻が生きているうちに、もっと何かできたのではないか。
答えの出ない問いを、何度も繰り返してきたのだ。
「オッケー。獣人スープ作ってあげるよ」
アニータは頷いた。
「ありがとう」
老人は、深く頭を下げた。




