第2話 右腕
「……仕方ない」
ノームは人混みから離れた。処刑場の周囲を歩きながら、警備兵の配置を確認する。正面には兵士が多い。処刑台の左右にも数人ずつ立っている。逃げ道になりそうな路地にも兵士が配置されていた。
だからノームはある手段を取ることにした。ノームは人の少ない場所まで移動し、右手を軽く上げた。かつてなら大きな魔法を使えた。今は違う。長く使えば身体が持たない。それでも、この程度ならできる。指先に小さな魔力を集める。
「音よ、少しだけ力を貸してくれ」
ノームが指を鳴らした。
次の瞬間、処刑場の反対側から大きな音が響いた。木箱が崩れたような音だった。続いて、何かが倒れる音がいくつも重なる。
「何だ!?」
警備兵が振り返った。観客も一斉にそちらを見る。ノームは動いた。今度は別の魔法を使う。足元に薄い霧が広がり、処刑台の周囲が白く隠れていく。濃い霧ではない。数秒もすれば消える程度のものだ。それでも霧はどんどん広がり、人の視線をくらますには十分だった。
「何も見えないぞ!」
「周囲を確認しろ!」
警備兵が混乱する。その隙に、ノームは処刑台へ向かった。アニータが顔を上げる。白い霧の向こうから現れたノームを見て、目を大きく開いた。
「……ノーム? ちょ! なんで!?」
ノームは答えなかった。アニータの拘束へ手を伸ばし、魔力を流す。金属の手錠が小さく震え、留め具が外れた。
「立て」
ノームはアニータの腕を引いた。
「早く走れ」
「分かった!」
アニータは反射的に走り出した。2人は処刑台から飛び降り、広場の人混みへ飛び込んだ。周囲から悲鳴が上がる。
「逃げたぞ!」
「捕まえろ!」
「あの男も捕まえろ!」
背後から兵士たちの怒鳴り声が飛んでくる。ノームは振り返らなかった。アニータも必死についてくる。広場を抜けて大通りを横切る。人の少ない路地へ入る。アニータが前を走りながら叫んだ。
「こっち!」
ノームは何も聞かずについていく。
「この先を右!」
アニータが細い道へ入る。ノームも続く。後ろから複数の足音が聞こえてくる。兵士たちは追ってきている。
ノームの身体は少しずつ重くなっていた。魔法を使ったせいだ。たった数回の小さな魔法。それだけでも、今のノームには負担が大きかった。息が苦しい。足が重い。アニータはそんなノームの様子に気づいていなかった。路地を1つ抜ける。さらにもう1つ抜ける。前方に大きな通りが見えた。アニータが速度を上げる。ノームも必死にあとを続く。
「あそこを抜ければ街の外へ行ける!」
通りへ出た瞬間だった。前方から何かが飛んできた。アニータは後ろを振り返っていて気づいていない。ノームだけが気づいた。魔力の斬撃だ。
「危ない!」
ノームはアニータの前へ出た。
次の瞬間、激しい衝撃が右腕を襲った。骨が砕けるような感覚があった。ノームの身体が大きく揺れる。右腕に受けた攻撃が、そのまま腕を奪っていった。ノームは数歩よろめいた。右肩から先がない。
血が流れ、地面へ落ちていく。アニータの足が止まった。目の前で起きたことを理解できない。
「……え?」
ノームは自分の右腕を見た。正確には、さっきまで右腕があった場所を見る。けれど、ノームの表情は変わらなかった。
「ノーム……?」
アニータの声が震える。ノームは左手で右肩を押さえた。
「……まあ、いいか」
「よくないよ!」
アニータが叫んだ。
「腕、なくなってるじゃん!」
ノームは自分の身体を確認するように肩を動かした。痛みはある。かなり痛い。だが、それだけだった。魔法で止血する。
「そのうち治る」
「はあ!?」
数か月、下手したら何年かはかかるかもしれない。それでも、いずれ戻る。ノームにとっては、それが当たり前だった。だから特に気にしていない。
「いたぞ!」
「あそこだ!」
背後から兵士の声が聞こえていた。ノームは左手でアニータの腕をつかんだ。
「行くぞ」
「……うん」
2人は再び走り出した。ノームは右腕を失ったまま走る。身体は重い。魔法も使った。傷も深い。それでも、止まるつもりはなかった。アニータも走った。何度もノームの右側を見る。そこに腕がないことを確認するたび、胸が苦しくなる。ノームが気にしていないふりをしていることが、逆に辛かった。
2人は建物の間を抜け、さらに細い路地へ入った。ノームは魔力を使って足音を別方向へ飛ばした。追手が一瞬だけ迷う。
「向こうだ!」
「いや、こっちから聞こえたぞ!」
声が離れていく。ノームはそれを確認すると、アニータを連れてさらに先へ進んだ。
しばらく走り続け、ようやく街の外へ出る。
2人は足を止めた。アニータは膝に手をつき、肩で息をしていた。ノームはすぐに周囲を確認する。追手は来ていない。どうやら逃げ切れたらしい。アニータは息を整えながらノームを見る。そして、また右肩へ視線を落とした。
「……本当に治るの?」
ノームは答える。
「時間はかかる」
「どれくらい?」
「分からない」
「何年?」
「さあな」
アニータの顔が曇った。
「そんなの……」
ノームには、その先の言葉が分からなかった。だから黙っていた。ノームにとって、数年という時間は長いようで短い。けれどアニータは違う。まして、自分を助けるために失った腕が戻るまでの時間なのだ。
「……ごめん」
アニータが小さく言った。
「何がだ」
「私のせいでしょ。でもなんで? どうして助けてくれたの?」
「昔のことを思い出した。それだけだ」
目の前で理不尽に殺されようとしていた獣人を見て、かつての自分と重ね合わせたのだ。それに、獣人には恩がある。
アニータが懐から何かを取り出す。
「そうだ、これ。返すね」
ノームの財布だった。
「……」
ノームが受け取って財布を開く。中身は空っぽだった。
「最初から盗むつもりだったんだな」
「そうだよ」
アニータは悪びれずに笑う。
「ノーム、いい人そうだったから」
「全部使ったのか?」
「うん。ごめん。でも、大した額入ってなかったし」
「……」
アニータが懐からもう1つの物を取り出した。
「これはお詫び」
古びた小さな魔導具だった。金属で作られた円盤の中央に、細い針が1本だけ浮かんでいる。普通の方位磁針ではない。古代に作られた【星渡りの羅針盤】だ。持ち主が強く望む場所を登録すると、その場所が存在する限り、距離に関係なく方向だけを示す魔導具。
ただし、目指す場所を正確に思い描けなければ針は動かない。世界中を探しても数えるほどしか残っていない貴重品であり、ノームが東の土地を目指すために必要としていた物だった。
「どうやってこれを?」
ノームが聞くと、アニータは笑った。
「領主の家から盗んだ」
ノームは頭を抱えた。アニータは楽しそうに笑っている。
「俺はこれを探すために、この街まで来た」
「じゃあちょうどいいじゃん」
ノームは羅針盤を内ポケットにしまった。領主との交渉が決裂したら、自分も盗むつもりだった。そう考えれば、強く責める気にもならなかった。
「まあ、いいか」
「でしょ?」
目的の物は意外な形で手に入った。財布も戻ってきた。中身は空っぽだが。代わりに右腕はなくなった。何とも言えない旅になったものだと思う。
2人はしばらく街の外からグラン・セイルを見ていた。巨大な港町には明かりが灯っている。さっきまで自分たちがいた場所だ。もう戻ることはできない。アニータも、それを分かっていた。
「ノームは、これからどうするの?」
「東へ行く」
「……私、ノームについていく」
ノームがアニータを見る。その目はまだノームの右肩を見ていた。自分を助けるために失われた腕。その光景を、アニータはきっと忘れない。ノームにとってはいつか戻る腕だった。けれどアニータにとっては、自分のために失われた腕だ。
こうして2人は、グラン・セイルを後にした。




